小さなおとなたち

ケンジ

第1話 Girl's Side(1)

 わたしは避暑地に向かう自動車くるまの中にいた。渋滞に引っかかってもう30分も田舎の牛みたいにノロノロとしか動けていない。ゆうべパパが自宅から向こうまでの最短ルートを詳しく説明してくれたけど、わたしとしてはとにかく着ければ道順なんてどうでもいい、としか思えなかったし、隣に座っていたママも「うんうん」「そうね」とか適当に頷いているだけだったから、たぶんまともには聞いていなかったと思う。そして、今、パパがあんなに一生懸命考えてくれた甲斐もなく、親子3人仲良く自動車くるまに閉じ込められているわけだけれど、だからといってパパをばかにする気はまるで起こらなかった。むしろ慰めてあげたかった。真後ろに座っているせいで運転しているパパの顔は見えないけれど、落ち込んでなければいいのに、と思う。

「どう? 気分は大丈夫?」

 ママが助手席から振り返って、心配そうな目をしている。わたしが車酔いしやすいのを気にしているのだ。わたしよりずっと気にしているかもしれない。

「はい」

 何個目になるのか、飴玉の入った小さな包みを渡された。果物の味がするから酔い止めになるとママは思い込んでいるみたいだ。さっき舐めたマスカットやイチゴは甘すぎて逆に気持ちが悪くなってしまいそうな気がしたので、メロンからは開けないでショートパンツの左のポケットにそのまま突っ込んである。レモンならちょうどいい気もするけれど、今手渡されたのはマンゴーだった。絶対やばいやつだ。それに右のポケットが包み紙で一杯になりそうなのも気になっていた。どうしてパパはゴミ箱を置かないのか、不思議に感じたけれど、3か月前に買ったばかりの新しい自動車くるまだから、まだ汚されたくないと思っているのかもしれない。それまで乗っていたのはどこかに引き取られてしまったそうで、空みたいな色をして丸っこくて可愛かったのに、いなくなって少し残念だ。水を飲みながら口の中の甘味を薄めれば舐めても大丈夫かな、と一瞬思ったけれど、トイレに行けないこの状況でもよおしてしまう恐怖心に圧倒されて、すぐ目の前にあるホルダーに引っかかっている500mlのミネラルウォーターの中身はほとんど減っていなかった。こんなことをのんきに考えられるのだから、今のところは幸い車酔いはしていないはずだ。

 相変わらず動かない車内から見る外の景色はただただ眩しかった。8月の強い光の中で背の高い木々の影が揺れ動くのがかすかに見えるだけだ。今日は30度を超す暑さだと出がけに観たテレビが騒いでいたけれど、車内はよく冷えていて、まるで現実味がなかった。眠ってしまえればよかったけれど、どうも上手くいかない。眠るのに上手下手があるのかは知らないけれど、少なくともわたしはすぐ眠れるほうではなかった。なかなか寝つけなくて次の朝学校に遅刻しかけることもよくある。

「ケータイとかいじってるんでしょ」

 ママはそう決めつけて、寝る前には必ずスマホをリビングに置いて2階に上がる決まりになっていた。でも、その決まりができる前は、友達と通話アプリでやりとりをしているうちにいつの間にか寝てしまうこともよくあったので、眠れないのはスマホのせいじゃない、とも思うのだけれど、ママとケンカするのは嫌なので大人しく言うことを聞いている。きれいなママが怒るのは嫌だし、わたしが冷静なのにママだけがキレているのはもっと嫌だった。「親が中を見るかもしれないじゃん。ありえなくない?」と信じられないと言いたげな顔をしたナギに言われたけれど、別に見られて困らないから、と返すと、もっと信じられない顔をされたので、結構むかついてしまった。あ、そうだ。スマホだ。

 それで思い出して、すぐ横の席に転がっているスマホを手に取って確認すると、みんなからメッセージが来ていた。

「今日から旅行だって? 気をつけてね」

 これはガッキー。いつも優しい。

「おみやげ! おみやげ! おみやげ!」

 ナギはやっぱりばかだ。

「そうだった。ヒカルはいないんだった。借りてたアレ、返さなきゃいけなかったけど、ごめん。来週でもいいかな?」

 チーちゃんのメッセージを見て少し慌てた。そんな、気にしなくてもいいのに。急いで返事すると、すぐに「だったらよかった」と返ってきた。その後すぐにまた、「去年も夏休みに旅行してたよね?」と聞かれたので返事をしておく。

「うん。子供の頃からずっと。夏の恒例行事」

「へえ。なんかすごい」

「別にすごくないよ。親の友達が集まるから、わたしはそれにつきあっているだけ」

「いや、それってやっぱりすごいって」

 チーちゃんはやたら感心してくれるけれど、本当にすごいことでもなんでもなかった。物心ついたときから8月になればみんなで集まることになっていて、わたしとしてはごく当たり前のことなのだ。それよりも、一人だけ何も送ってこないのが気になっていた。

「エノと会った?」

 チーちゃんに聞いたつもりだったけれど、

「全然。さっぱりだよ」

 ナギに返事された。

「私も会ってない」

「こっちも」

 ガッキーとチーちゃんも同じようだった。

「まあ、あんなことがあったらしょうがないよなー」

 ナギは不細工なネコのスタンプと一緒にそう書いてきた。この子とはつくづく趣味が合わない。

「わたしたちは別に気にしてないのにね」

 とだけ書いておいた。本当にそう思っていた。


 終業式の前の日の夜、そろそろ寝ようと思いながらベッドの上でゆっくり転がっていると、枕元に置いていたスマホが鳴って、新しいメッセージが来ているのに気付いた。これを見たら下に置いてこないと、とママとの決め事を思い出しながら確認してみると、メッセージはエノからだった。文章は何もなくただ写真だけが貼られていた。暗い写真で、一目見ただけでは何を撮ったのかよくわからない。意味がわからずに困っていると、また貼られた。2枚、3枚、4枚。どうも何かの動物の身体の一部分らしいようだけれど、見ているうちになんだか気分が悪くなってきた。エノがどういうつもりでわたしたちにこんな写真を見せようとしているのかわけがわからなくて、少し腹も立ってきていた。

「なんなのいったい?」

 そう書いたが返事はない。ナギとガッキーも気づいて、エノに質問していたけれど、それにも返事はない。エノはいつもとても大人しくて、悪ふざけをするような子ではなかったから、それだけに腹立たしかった。もういい。明日学校で怒ってやる。そう決めて、スマホの電源を切って下へと持っていこうとしたときに、やっとエノからメッセージが来た。

「ごめん。間違えた。悪いけどみんな消しといて」

 それだけ書かれていた。わざとじゃなかったんだ。ほっとするのと一緒にエノに怒ってしまった自分が嫌になった。それから言われた通りに写真は全部削除した。残しておきたいわけもなかったし。

 次の日、エノは学校に来なかった。全校生徒が集められた終業式が終わって、体育館の入り口が混み合うのが嫌で、空くまで待とうと思っていたら、チーちゃんに呼ばれて、ステージの隅のほうまで連れてこられた。ナギとガッキーもいたので、エノの話だと気づいた。ゆうべあれからエノから電話があったそうだ。チーちゃんにだけ連絡があったのが軽くショックだったけれど、わたしでも困ったら真っ先にチーちゃんに相談したはずだし、それにエノとチーちゃんは家も近所で他の3人よりも付き合いが深いと言えば深かった。いつもの彼女らしくなく、チーちゃんがとても話しにくそうに説明してくれたのは、エノが自分の股間をチェックしようとして写真に撮っていたら、うっかり間違ってわたしたちのアプリに送ってしまった、ということだった。思いもよらない話に驚いて口もきけないでいると、わたしの左隣にいたガッキーがフォローのつもりなのか「わたしもやったことある」と言い出したのでますます何も言えなくなってしまった。とどめにチーちゃんまで「実はわたしも」とカミングアウトしてきた。え? それってみんなやっていることなの? とパニックになりかけたけれど、「いやいや、ありえないっしょ」とナギが右手を激しく振っていたのでほんの少しだけ安心した。それにしても5人の中では少数派になってしまうのだけれど。「わたしは写真じゃなくて鏡だったけどね」と続けた後でチーちゃんは変な顔をしてそれきり黙ってしまった。そこまでフォローしてくれなくてもいい、とエノがここにいたらたぶんそういう風に言う気がした。

 教室に戻って1学期最後のホームルームが終わった後で、ナギが「なんでそんなことするの?」と聞いてきたのに、「まだその話する?」とチーちゃんがあからさまに迷惑そうにして、たぶんわたしとガッキーもチーちゃんと同じ顔をしていたはずだから、ナギもさすがにそれ以上は何も言わなかった。でも本当はナギと同じ考えで頭がいっぱいだった。どうしてそんなことをするのだろう。確かにあそこを自分の目でよく見ることはできない。でもそれで何が困るのか。わたしとしては自分にあんなものがあること自体忘れていたい。だからかえって都合がよかった。でもそれはわたしだけの考え方で女の子がみんなそう考えているわけではない、というのがわかってわりとショックだった。大好きなチーちゃんとガッキーとエノもわたしと同じではないのだ。もちろんナギも好きだけれど。

「とりあえずさ、このことはここで終わりにしようよ。あいつ、気にするタイプだから。何も言わないでおこう」

 靴箱の前でチーちゃんがスニーカーを手に取りながらそう言った。元は白かったはずなのに、すっかり色が変わってボロボロになっている。今度の誕生日に新しいのをプレゼントしてあげようか。

「うん」

「そうだね」

 ナギとガッキーも反対しなかった。もちろんわたしも。エノをからかうつもりなどまるでなかった。友達だから、というよりは、ばかすぎてからかうのもかわいそうだから、というのが正直な気持ちだったけれど。それにしても、これで1学期が終わりかと思うと、なんだか間が抜けた感じしかしなかった。


 わたしたちはそう決めたのに、エノはやっぱり気にしてしまったようで、夏休みに入っても連絡はなかった。かといって、わたしたちのほうから声をかけるのもなんだかやりにくくて、結局1か月近く話をしていない。さすがに学校が始まればまた会えるはずだけれど、その前に一度会って普通に話をしておきたかった。こんなことでぎくしゃくしてしまうのは嫌だ。1年生の秋に美術の授業でクラスメートの似顔絵を描いたときに、わたしはエノと組むことになって、1時間向き合っている間、エノはずっとわたしのほうをキラキラした目で見ていて、それを思い出すと今でも嬉しくてどうしようもなくなってしまう。絵はさっぱり似ていなかったけれど、わたしもエノや他のみんなをキラキラと見られたらいいな、とあれ以来ずっと思っている。

 そんなことを考えながら、また窓の外を見た。光はますます強く、もはやそれ以外の何も見えはしなかった。混み合っているはずの自動車くるまもその中にいるはずの人たちも何処かに消えてしまったかのようだ。そのうちわたしも同じように消えてしまうのだろうか、と気が遠くなる。

そして、やっと自動車くるまが少しだけ進んだ。

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