酒場②

リアンの視線は、壁に飾られた複数の写真の中の一枚へと移った。


その写真の中には、キャンパスの前に座る父親の姿がある。


リアンの父、フェルド・ソーヤが、この街に辿り着いたのは、今から十七年程前の事だ。


当時のフェルドは、二十歳だというのにかなりの童顔で、少年にしか見えず、この街に鞄一つで訪れた時には、どこからか家出してきた少年と間違えられて、警察に保護されてしまった程だ。


そこで何度、本当の年を言ってもなかなか信じてもらえずに、苦労したと笑いながら話していたのをリアンは覚えている。


そんな童顔を気にしてか、この街に住んでからのフェルドは、少年に間違えられないように、モジャモジャのヒゲを蓄え、常に煙草を咥えていた。


「よし、この辺に置くかな」


ジャンは瓶をカウンターの隅の方に置き、まじまじと見つめると、満足そうに何度も頷いた。


そして安物の腕時計をちらっと見ると、リアンに声を掛ける。


「そろそろ店を開けるか」


その言葉を受けて、リアンは掃除道具を片付けると、この年期の入った店に似合う、古ぼけたピアノの前にちょこんと座り、鍵盤に指を這わせた。


そしていつものように店の開店を知らせる、ショパンの『子犬のワルツ』を弾き始める。


ピアノの音色が、静かな店の中に響き渡った。


カウンターの中でグラスを磨いていたジャンは、その手を止め、静かに目を閉じる。


リアンのピアノは毎日聴いているが、リアンがピアノを弾く度に、ジャンは聴き入ってしまっていたのだ。


それ故にジャンは、申し訳なく思っていた。


自分に金があれば、リアンに店を手伝わせる事なんてせずに、音楽学校に通わせて、ピアノの才能を伸ばしてあげる事ができるのにと。


「…マスター…おい、マスター!!ビール!!ビールくれ!!」


ジャンがリアンのピアノに聴き惚れていると、いつの間にか客が入ってきていた。


ビールを注文したのは、常連客のジョアンである。


ジョアンはようやく目を開けたジャンと目が合うと、呆れたような笑顔を浮かべ、もう一度「ビール」と言った。


「…あっ、はい、いらっしゃい…ビール1丁」


ようやく挨拶を返すと、ジャンはジョアンの前に、なみなみと注いだビールと、十数粒のピーナッツの入った皿を出した。


ジョアンはそれを、もう何十年も飲んでいなかったように、うまそうに飲み干した。


そしてジョアンが三杯目をおかわりする頃には、店の中にはいつもの常連客の顔触れが揃っていた。


「おいビールくれ」


「こっちもビール!!」


あちこちからビールの注文が入る。

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