第37話 無情なる夢現

 見上げる天は白かった。

 視界の両隅に、透明な鎖が二本、伸びている。果ては見えない。果てがあるのかどうかもわからない。


 見下ろす地には色がある。

 やわらかな緑。白がもたらす光を受けた短い草が、風もない空間で不自然に揺れている。揺れる草葉が編み上げた緑の絨毯は、地平のはるか先まで続いている。こちらも、果ては見えなかった。


 天は白、地は草原。壊れゆく故郷を見つめた彼が長い時を過ごした場所。もう二度と、戻ってくることはないと思っていた場所。そこにまた、彼はいた。草原のただ中に、不自然に置かれた白い椅子に座らされて。

 あるいはこれは、夢なのかもしれない。

 天が揺らいだ。目に映らぬ波紋。それは、降る声によりもたらされる。

 大陸のどこの言語でもない音の列。その意味だけが、奇妙にも、彼の中に流れこんでくる。

 百年に一度くらいだろうか。声は彼に問いかけてきた。


 天に近づく覚悟はあるか、と。



     ※



 メルトは息苦しさをおぼえて目を覚ました。視界の中に広がるのは、枝葉の天蓋と、青紫色の空。まだ薄明の中ではあるが、木々の輪郭をとらえられる程度には明るかった。

 肺が動いて、喉がひらき、勝手に息を吸う。空気は皮膚を刺すほどに冷たい。胸に鋭い痛みが走った。痛みの名残とともに息を吐くと、吹き出した汗の気配が全身を包む。心地が悪かった。

 メルトは緩慢な動作で上半身を起こす。夜半やはんに消した焚火の跡がすぐ横に見えた。そのむこうには、連れの姿。

「メルト?」

 まだ寝ているものかと思ったが、フェライは身を起こしてこちらを見ていた。瞳が淡い光を弾いて、翡翠のようにきらめく。

「大丈夫? ずいぶんうなされていたけれど……」

「――ああ」

 メルトは曖昧にうなずいた。

 やはり、先ほどまで見ていたものは夢だったらしい。だが、夢にしてはやけに鮮烈で、目を覚ました今も内容がはっきり頭に残っている。

 思い出す。記憶をたぐるのは簡単だ。白い天、足もとの草原、透明な鎖、そして――

「『天に近づく覚悟はあるか』か……」

 メルトがそう呟くと、少女の声と布のこすれる音が重なった。フェライが首をかしげたようだった。メルトは唇を笑みの形に歪める。

「前に、おまえも見ただろう。空が白くて草原が広がる、妙な空間を」

「ええ。ひょっとして、それが夢に出てきたの?」

「ああ。それで思い出したんだが、あそこにいる間、まれに上から変な声が聞こえてきたんだ」

 語りながら、少しずつ手足の先を動かす。それが済むと、荷物に手を伸ばした。

「男とも女ともわからなかった。感情なんてものが感じられない声だった。その声は、俺の知らない言葉でなにかを言っていた。知らない言葉のはずなのに……なぜか、その意味は理解できたんだ」

「『天に近づく覚悟はあるか』?」

 フェライが、記憶にある言葉を繰り返す。メルトは首肯した。

「結局何が言いたかったのだろうと、思い出すたびに考える。けど、まったく答えは出ない。奇妙だな、と思うだけだ」

 フェライも自分の荷物を点検しはじめた。なぜか、歯にものが詰まったことに気づいたような顔をしている。

「ねえ、メルト……それ、もしかして、アブさんが教えてくれた口伝の……」

 うめくような彼女の言葉に、メルトもとなって目をみはった。

天上の人スヴァル・カ・ディフター……可能性はあるか」

 少なくとも巫覡シャマンたちの理論や聖教の教えで説明できるものではない。アブたちが教えてくれた口伝とそれに似た伝説について、もっと調べることができれば、杖とふしぎな空間との関連性もわかるかもしれなかった。

 だが、現在のところ身一つしか持たぬ旅人の二人には、その手の調査は難しい。ただでさえ、今の世の中ではほとんど忘れられていることなのだ。

「どうにもならんな。古王国を目指すしかないか」

「そうだね。気になるけど……すっごく気になるけど……」

 二人は、互いを制するように渋面を見合わせてから、焚火の跡を消しにかかった。



「ねえ、メルト。一応確認したいんだけど……」

「ん、なんだ?」

「古王国の滅亡からはずっとふしぎな空間にいて、こちらに戻ってから十五年間は監獄塔の中にいたんだよね」

「そうだ。それがどうかしたか?」

「信じられない、本当に信じられない……。乗馬に慣れるの早すぎ……」

「なんだ、そんなことか」

 さえぎるもののない道に、青年の笑声が響く。右隣に並ぶ少女が肩を落とした。二人は今、それぞれ馬を駆っている。フェライの嘆きに応じるように、小柄な鹿毛かげの馬が鼻を鳴らした。


 アブたちに同道したときの稼ぎと、ここ数日の日雇い仕事のおかげでようやく新たな足を確保できた。ただ、最初、フェライは馬とわかりあうのにずいぶん苦労していた。彼女が今行動を共にしている小柄な若馬は、少しばかり気位が高いようなのだ。乗り手の方も神聖騎士団の新米時代に乗馬を徹底的に叩きこまれてはいたので、ちょっと馬鹿にされたくらいで動じるものでもなかったが、若い人馬の一対はしばらく揉めながら走っているような有様であった。

 二日前くらいからようやく大人しくなった若馬にフェライは温かな視線を注ぐ。やや年上の馬とあっさり協調したメルトは、ほほ笑んだ。


 二人はしばらくなにも言わずにいたが、地方の覡と思しき若者とすれ違ったとき、フェライが思い出したように呟いた。

「あとどれくらいで、古王国に着けるんだろう……」

 彼女は独り言のつもりであっただろう。しかし、その独白を耳にしたメルトは、まじめに考えた。

「だいぶ進んでいるとは思うんだがな。町か村に着いたら、一度確かめてみるか」

「うん。近くの大きな街の名前がわかれば、どのあたりかも正確にわかると思うわ」

 フェライが大きくうなずく。

 メルトは彼女の方から視線をそらし、あたりをうかがった。少し前までと違って、ずいぶんと背の高い岩が多い場所だ。地面の起伏も激しい。道の悪さは、山国で馬を乗り回していた王太子にとってさしたる障害ではないが、気を配らなければいけないことには変わりがない。万が一誰かと戦闘にでもなったら厄介だな、などと考えた。


 考えたのがいけなかったのだろうか。


 それから半パラサングも進まないうちに、メルトはとっさに馬を止めた。一応隣を確認すると、フェライも立ち止まっている。

 メルトは視線だけであたりを見回した。人の姿はない。空を鳥が横切るだけ。しかし、確かに人の気配がある。かすかな息づかい、足音、そしてはりつめた糸のような空気――。

 しかと手綱をにぎる。前を見たまま、隣の少女を呼ぶ。

「フェライ」

 答える声はない。それでも、応答の気配が伝わってくる。

「五、数えたら抜けるぞ」

 短く息を吸う。

 音を出さずに数を刻む。

 五つの時が過ぎた瞬間――馬の腹を蹴った。

 同時、空気がヒュッと鳴る。

 走り出した二人の後を追うように、弓矢が迫った。後ろから、そして上から。数は決して多くない。メルトもフェライもすんでのところで、岩場に潜む弓兵たちの攻撃をくぐり抜けた。

 しかし今度は、けたたましい人馬と金属の音が背後から押し寄せる。怒声じみたイェルセリア語の号令が、かすかに聞こえた。号令の後、背後の人々は口々に精霊と聖女を称える文言を叫ぶ。示された事実は、ひとつ。

「来てしまった……!」

 フェライの悲痛なささやきは、馬蹄の音にかき消された。

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