29:ようやく迎えたハッピーエンド

 ◆   ◆


「黒瀬くん来ますかね」

「来るでしょう。あれを読んでもまだ目が覚めないとかありえないよ」

「そうですね」

 ふふふふふ。

 前方のスクリーンの傍で、有栖先輩と由香ちゃんが和やかに笑い合っている。


「~~~~~」

 私は視聴覚室の椅子に座り、組んだ腕の上に頭を乗せ、長机に突っ伏していた。


 羞恥に耐えられない。顔から火が出そうだ。

 くっ、殺せ――まさにそんな心境である。


 発端は有栖先輩の無邪気な一言。

「ねえ、これ僕も読んでいい?」

 物凄く良い笑顔で聞かれた。無駄に周囲の空気がキラキラしていた。

 あの輝く笑顔を見て「嫌です」なんて言えようか。


 そもそも有栖先輩がいなければ事件は解決しなかった。

 全員が神さまに魅了されて終了、バッドエンド確定だった。

 可愛らしいリスに制裁を与える憎まれ役も彼が買って出てくれた。

 彼は足を向けて眠れないほどの大恩人である。


 私が消え入りそうな声で「どうぞ」と言うと、有栖先輩は読み始めた。ふんふんと頷いて、「いやあ愛が伝わって来るね」と微笑み、露骨に読みたそうな顔をしている幸太くんにパスした。その流れで由香ちゃんや陸先輩まで読んだ。


 まさかあんな恥ずかしい日記を皆に回し読みされる日が来るとは。

 あの日記は日記と銘打った拓馬へのラブレターに等しい。

 私に時間を超える能力があるなら過去の自分を殴りたい。

「未来で回し読みされるぞ気をつけろ!」と忠告したい。切実に。


「拓馬はあんなにも愛されて幸せだな」

 陸先輩までもがしみじみした口調で言っている。

 その肩にはいまもリスが乗っているはずだ。

 有栖先輩の暴行から救ったことで、リスは陸先輩に懐いていた。


「悠理、大丈夫か?」

 顔を横に向ければ、長机の上に大福が立っている。


「大丈夫じゃない……」

 そもそもこうなったのは大福のせいである。


「拓馬への愛を赤裸々に綴った」ことがわかっている時点で大福が私の日記を盗み読みしていたのは確実。全くなんてハムスターなの。


 これで拓馬の目が覚めなかったら、私はますます拓馬に嫌われることになるんじゃないだろうか。

 うわこいつキモ、とか思われて。ドン引きされて。


「ううううう……」

 ひんやりした机に頬をくっつけたまま唸っていると、走る足音が聞こえて、視聴覚室の扉が勢い良く開いた。


 その勢いに驚いて、私は顔を上げた。


 斜め右前、開いた扉の先に拓馬が立っていた。ここまで全速力で走って来たらしく、肩を上下させて。息を切らせて。

 その左手には私の日記帳を持っている。


「悠理」

 拓馬が呼んだのは、私の苗字ではなく、名前。


 瞬時に全てを悟り、私は弾かれたように立ち上がった。

 椅子ががたんと揺れて、後ろの席にぶつかって跳ね返り、その振動が接触した足を通じて伝わる。


 私は急いで席を離れ、前方へと移動した。

 拓馬は私を見つめたまま部屋に入って来た。

 光を取り戻したその目には、もう敵意も悪意も見当たらない。


「……ハッピーエンド以外は許さないからね」

 有栖先輩はとびきり優しい微笑みを残し、視聴覚室を出て行った。

 由香ちゃんは笑顔でピースサインをし、リスを肩に乗せた陸先輩もわずかに口の端を持ち上げ、そうして三人が去る。


 扉が閉まり、大福も無言で姿を消した。

 後に残った私たちは、向かい合って立った。


 拓馬の呼吸音すら聞こえてきそうなほど、部屋は静かだ。

 一日千秋の思いで待っていたはずなのに、いざそのときを迎えると言葉が出ない。

 どうしよう。何を言おう。何をどう話せばいいのか。


「あの」「私」

 拓馬の足のつま先を眺め、長いこと沈黙した末、ようやく顔を上げて言葉を発したタイミングは全く同じで、お互いに狼狽えた。


「あ、いや、えと、どうぞっ」

 私は手のひらで拓馬を指し、発言権を譲った。


「……ごめん」

 拓馬は少しの間黙ってから、真摯に頭を下げた。


「……って、謝っても許されることじゃないよな。酷いことばっかり言ったし。自分でもなんであんなこと言ったのか……とにかくごめん。本当に」

「ううん。大丈夫。原因はわかってるから。拓馬のせいじゃないってわかってるから、気にしてないよ」

「原因がわかってる?」

 怪訝そうな拓馬に、私は全てを話した。


 この世界が乙女ゲームの世界であること。乃亜が別の世界から転生してきたヒロインであること。私もまた別の世界から転生してきたモブだということ。常に乃亜の傍にいて、乃亜に度を越した『ヒロイン補正』をかけ、今回拓馬たちの心を操ったリスの形の神さま。その使いでありながら、神さまを裏切って、私の味方をしてくれたハムスター。


「…………ええー……?」

 長い話を聞き終えて、頭痛でも感じたのか、拓馬は額を押さえた。


「信じられないよね、やっぱり……」

「……信じられない。でも、この一週間狂ってた自覚はあるし。何よりお前が言うなら、信じるしかないだろ」

 私が言うなら。その言葉に、心臓が余計な音を刻む。


「日記にもモブとかヒロインとか意味わかんねえこと書いてあったしな」

「う……」

 やっぱり読んだのか。


 いや、そうでなければ拓馬の目も覚めなかったんだろうけれど。

 すっかり冷めていたはずの頬の温度が再び上がった。


「……うん。わかった。理解した」

 どうにか自分の中で折り合いをつけたらしく、拓馬は額を押さえていた手を下ろした。


「でも、いくら操られていたとはいえ、お前に暴言を吐いたのは事実だし。告白されたときも泣かせたし……おれもお前のことが好きなんだけど、何もなかったことにしてこのまま付き合うってわけにもいかないよな」

「へ」

 いまさらっと何か言いませんでしたかこの人。


 口をあんぐり開けている私に気づかず、拓馬は俯き加減に、暗い表情で続けた。


「お前が納得するまで償いたいけど、嫌気がさしたって言うなら仕方ない。他の男を探し――」

「ちょっと待てぇぇええ!!」

 全力で突っ込み、私は拓馬に詰め寄ってその両腕を掴んだ。

 拓馬が目をぱちくりさせる。


「何。あ、ごめん返すの忘れてた」

「いま日記帳なんてどうでもいいわっ!!」

 私は受け取った日記帳を最前列の机に叩きつけるようにして置き、再び拓馬の腕を掴んだ。


「私のことが好きって言ったよね? 言ったよね!?」


 一週間前、私は拓馬に告白し、暴言を吐かれて泣きながら帰った。

 けれど、私が立ち去った後、公園で拓馬も泣いたと大福は言った。


 心を操られても、拓馬は意識の奥底でずっと私のことが好きだったと。

 本心とかけ離れた言葉を言わされて、苦しんで泣いていたと。


「もう一回言って。あんな、会話の流れでつい口にしたような、適当な感じじゃなくて。私の目を見て、ちゃんと言って」

 拓馬の腕を握る手に力を込め、真正面から彼の目を見つめる。


「……でも」

 拓馬は躊躇っている。

 悪夢のような一週間の記憶が彼に余計な罪悪感を抱かせているのだ。

 乃亜がここまで計算して彼の心を操ったのだとしたら大したものだ。

 もどかしい。彼の罪悪感を引っぺがして叩き潰したい。一週間の記憶を消せるものならそうしたい。


 でも私にそんな力はない。

 だったら、いま私ができることは何か。拓馬のためにできること。

 必死に考えた末、私は拓馬から手を離し、両手で思いっきり自分の頬を叩いた。


 べちんっ、と、いい音が弾けた。

 衝撃も凄まじい。頬がじんじんする。ちょっぴり涙目になった。


「……何してんの?」

 私の突然の奇行に、拓馬は面食らっている。


「大変! わたしいまの衝撃で一週間の記憶が飛んじゃったみたい!」

 頬を押さえて大きく首を振り、さも困った顔を作ってみせる。


「…………は?」

 拓馬は唖然としている。


「拓馬が私に何をしたのか全然思い出せないわ! 何かあったかしら? ねえ拓馬は覚えてる?」

「…………いや」

「いや本当に覚えてないんだってば。信じてもらえないならもう一回頬を引っ叩くしかないんだけど、私にまた痛い思いをさせる気なの?」

「…………………ぶはっ」

 拓馬は噴き出して、口元を押さえ、笑いながらもう一方の手で私の肩を叩いた。


「わかった。おれの負けだ。だからもう止めろ。見てるだけで痛い」

「良かった、信じてくれたのね!」

 顎の下で手を組み、手と首を横に右に傾け、にっこり笑う。


「もう演技はいいって。全く……お前にはほんと敵わねえ」

 拓馬は私の頬に両手を添わせ、そっと触れた。

 胸の高鳴りを感じながら、顔を持ち上げられるまま、まっすぐに拓馬を見返す。


「お前は日記で自分がモブだと嘆いてたけど、そんなことねえよ。おれにとってのヒロインは野々原悠理、お前だ。お前しかいないんだ」


「………っ」

 喜びが胸いっぱいに広がって、目の奥が熱くなる。


「毎日手の込んだ料理を作って、おれが寝たら布団をかけて、風邪を引かないように気を遣ってくれて。食材を腐らせる呪いも諦めずに解いてくれた。いつだって笑顔で傍にいて、おれを愛してくれた。そんな上等な女、お前しかいねえよ」

 涙が溢れて、頬をいくつも滑り落ちていく。

 拓馬は笑って私の頬を親指で拭い、こつんと額と額をくっつけた。


「乃亜なんてどうだっていい。悠理、お前が好きだ。これからもずっとおれの傍にいてくれ」


「…………はい」

 声を震わせて返答すると、拓馬は嬉しそうに笑い、私を抱き寄せた。

 腕を回して拓馬を抱き返す。

 もう二度と離れることがないよう、願いを込めて。

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