25:ヒロインにも負けない

 ◆   ◆


 騒がしい教室の一角で、ひときわ明るい笑い声が弾けた。

 私の席の斜め後ろ、窓際から聞こえたそれは、拓馬の声だった。

 幸太くんの声もする。

 今日も乃亜は二人を傍に侍らせて笑っていた。


 聴覚が「お茶会」の単語を拾い上げる。

 おとついの日曜日は有栖先輩のマンションでお茶会があったらしい。

 逆ハーレム状態で、乃亜はさぞ楽しかったことだろう。


 私は手元のスマホに視線を固定し、そちらを見ないようにしていた。

 でも、声は勝手に私の耳に飛び込んで来る。


「有栖先輩がまた来週も集まろうって言ってたよ。陸先輩が乃亜のためにモンブラン作るって」

「そうなの? 嬉しい。私モンブラン大好きなんだ」

「なら今度『ブルーベル』で買ってこようか? おれも乃亜と一緒に食べたいし」

「あっずるいぞ拓馬、乃亜と二人で食べる気だな!? 言っただろ、抜け駆け禁止だって! 乃亜はみんなのものなんだからな!」

「やだ、恥ずかしいからそんなに大きな声出さないで。幸太とはスイーツ食べ放題に行きたいと思ってるんだよ?」

「えっマジで? 行く行く! いつにする!?」

 イヤホンを忘れたことを後悔した。

 音楽でも聴いていれば、聞かなくてもいい声を聞かずに済んだのに。


 由香ちゃんはいつ帰って来るんだろう。

 拓馬たちの声を意図的に耳から締め出して、私は昼休憩時間が残り半分を切ったのに戻ってこない親友のことを考えた。


 今日は用事があるから先に食べててと、彼女は昼食も食べずにどこかへ行ってしまった。

 由香ちゃんは朝から様子がおかしい。

 校門の近くで出会い、いつものように「おはよう」と笑顔で挨拶した途端、彼女は怒りと悲しみが混ざったような、複雑な目で私を見つめた。


 かと思えば、彼女は急に俯き、葛藤を断ち切るように激しく首を振ってお下げにした髪を振り乱し、ようやく「おはよう」と返してきた。


 何かあったのかと聞いたけれど教えてくれなかった。

 彼女は明らかに隠し事をしている。


 私、何かしたかな。

 いくら考えてもわからない。


「緑地くん」

 と、由香ちゃんの声が聞こえて、私はスマホから目を上げた。

 斜め後ろを振り返れば、いつの間に戻って来たのか、幸太くんの傍に由香ちゃんが立っている。


「白石先輩が用事があるって。特別校舎の屋上で待ってるから、すぐ来てほしいって言ってたよ」

「何だろ。わかった」

 幸太くんが教室を出て行く。

 何故か由香ちゃんは身体の前で手を組み、同情するような眼差しでその背中を見送った。


 そして拓馬と一色さんに「お邪魔しました。どうぞごゆっくり」とやけに礼儀正しく頭を下げ、こちらへ来る。

 私と目が合うと、彼女は満面の笑みになり、私の腕を引っ張った。


「ちょっと付き合って!」

「へっ? 何? 何なの?」

 私は強制的に立ち上がらされた。

 右手でスマホをスカートのポケットに入れる間にも、由香ちゃんはぐいぐい私の腕を引っ張り、廊下に出ていく。

 彼女がこれほど強引な行動に出るのは珍しく、私は目を白黒させた。


「いいから早く! 休憩時間終わっちゃう! 私も白石先輩も今日は昼食抜きを覚悟してるんだからね! 全部悠理ちゃんや黒瀬くんのためなんだから!」

「どういうこと? なんで有栖先輩の名前が出てくるの?」

 由香ちゃんは困惑する私の手を引いて、一階へ下りて行った。

 靴を履き替え、校舎から遠く離れた裏庭へ直行する。

 裏庭といってもベンチも何もない。部活棟の後ろに広がる空き地だ。


「これだけ離れれば大丈夫だよね。一色さんは黒瀬くんとのお喋りに夢中だろうし。大福くん! 聞こえたなら出て来て!」

「はっ?」

 呆気に取られた私を放って、由香ちゃんは自分の左肩に右手をやった。

 手のひらを上に向け、大切な何かを受け止めるような動作をし、その手を身体の前へ移動させる。


「私の右手の上には白いハムスターがいます。昨日の夜、この子は私に助けを求めてきたの」

 由香ちゃんは右手を私に近づけた。

 でも、私には何も見えない。

 その疑問を解消するように、由香ちゃんは早口でまくし立てた。


「大福くんはいま、ずっと前に黒瀬くんの感情制限が外れていたことを神さまに報告しなかった罰を受けてて、悠理ちゃんの目には見えないようにされているんだって。悠理ちゃんには聞こえないし触れない。だから、私が通訳するね。『久しぶりだな悠理。オイラがいなくても元気だったか』」

 滑るように由香ちゃんの口から出てきた言葉に、私は目を剥いた。


 大福が「オイラ」という一人称を使っていたことなど、由香ちゃんが知るわけがない。


 本当に大福がここにいるのだ。

 由香ちゃんは自分の右手を見下ろして、そこにいるであろう白いハムスターを見つめながら喋り続けた。


「『そんなわけないよな。オイラがガムテープでぐるぐる巻きにされた後も、ずっと泣いてたんだろうな。ごめんな。オイラ間違ってた。最初からお前の味方をしてやれば良かったって、凄く後悔してるんだ。いまさら許してくれなんて言えないけど、でも、今度こそお前の恋がちゃんと成就するように手伝わせて欲しいんだ。由香も協力するって言ってくれたぞ』――私だけじゃないよ、悠理ちゃん。白石先輩も無事に目が覚めてね、協力してくれるって約束してくれたんだよ! 緑地くんと赤嶺先輩の洗脳を解くって断言してくれた! 良かったね悠理ちゃん! 一色さんや神さまに立ち向かう味方が増えたよ!」


 由香ちゃんは空いている左手で私の手を掴み、笑顔で上下に振った。

 頬を上気させている彼女の興奮が伝わるような振り方だった。

 私はいまだ脳の処理が追い付かず、呆然としていた。


「あ」

 固まっている私を見て何か勘違いしたらしく、由香ちゃんは急に手を振るのを止め、申し訳なさそうに目を伏せた。


「そうだよね、誰より黒瀬くんのことが一番心配だよね。でも、黒瀬くんは悠理ちゃんへの想いが強すぎて、忘れさせるために何度も洗脳を繰り返されたんだって。簡単には解けそうにないから、白石先輩が無理やり解くんじゃなくて、神さまに手順を踏んでちゃんと――」


「ちょっと待って」

 聞き捨てならない台詞を聞いて、ようやく硬直していた脳が回転を始め、私は由香ちゃんと繋いでいる手を強く握り締めた。


「『拓馬は私への想いが強すぎて』って、どういうこと? 拓馬は私のことを気持ち悪いとまで――」

「違うんだよ悠理ちゃん! 大福くんも首を振ってる!」

 由香ちゃんは痛いくらいに強く私の手を握り返し、真剣な表情で言った。


「ごめん、私、現場を見ていた大福くんから全部聞いたの。良く聞いて。悠理ちゃんの告白が断られたのは、一色乃亜の仕業なの。あのとき黒瀬くんは去ろうとした悠理ちゃんの手を掴んで、何か言いかけたでしょう?」


 即座に脳が当時の記憶を再生する。

「おれは」――拓馬は私の手を掴んで、何か言いたそうな顔をした。


「悠理ちゃんが告白する前日、乃亜と再会を果たしたその日から黒瀬くんは神さまによって洗脳されてた。感情を弄られて、乃亜が好きだと思い込まされてた。でも、それでも悠理ちゃんに告白されたあの瞬間、きっと黒瀬くんは自分の本当の気持ちを思い出したんだよ」

 由香ちゃんは泣きそうな顔で言った。


「黒瀬くんは悠理ちゃんのことが好きで、そう伝えようとしたんだよ。でもその瞬間、神さまが邪魔をした。黒瀬くんの悠理ちゃんに対する好感度ゲージを一気にマイナスまで落としたんだって」

「え……」


 私を見つめて、もどかしげに震えた拓馬の唇。

 あれは――あの動作が意味することは。


「一色乃亜は悠理ちゃんと同じく他の世界からやって来た転生者だった。自分がヒロインだという自覚があり、黒瀬くんたちはいつか自分のものになる運命の相手だと信じて疑わなかった。その考えを助長させたのが乃亜の傍にいる神さま。神さまはいつだって乃亜を全肯定し、俗に言う『ヒロイン補正』を極限まで発揮し、周囲の人間を全て乃亜の思い通りに操った。いまもそう。私たちのクラスメイトだけじゃない、全校生徒がみんな操られてるの。そうじゃなきゃ説明がつかないでしょう? いくら乃亜が美少女でも、四股なんてふざけてる。白石先輩や赤嶺先輩のファンが黙ってるはずないと思わない?」


「…………思う……でも、それより」

 私はこめかみを手のひらで押さえた。

 全校生徒が神さまに操られているとか、そんなことより、何よりも強く私の心を揺らすのは、由香ちゃんの言葉。


 拓馬は私のことが好きだった――その言葉が頭から離れない。


「……黒瀬くんは」

 大福が何か言ったらしく、由香ちゃんは右手を見下ろしてから、気遣わしげな瞳で私を見た。


「黒瀬くんは悠理ちゃんのことがずっと好きだったって、大福くんが言ってるよ。神さまが黒瀬くんの恋心を封印していなかったらもっと早く両思いになれただろうって。またごめんって謝ってる」

「……それは大福のせいじゃないよ。大福のことは恨んでない」


 本心だ。大福のことを恨んだことは一度もない。

 口では何だかんだ言いつつも、大福はいつも私のことを気にかけ、味方でいてくれた。


 でも、大福に指示を出していた黒幕は。

 拓馬の心を操って、「気持ち悪い」と言わせた神さまのことは――許せるわけがない。


「……何なの。何なのそれ……拓馬の心を操って、私の告白を台無しにして……それが神さまのすることなの? 私がモブだからって、いくらなんでもあんまりだ……ヒロインは、神さまは、何をしたっていいの?」

 涙の堤防が決壊し、私は顔を片手で覆った。


 ――おし。まだ誰もゴールしてねえな、行くぞ! 夢のゴールテープを切らせてやるよ!

 ――お前に頼りにされるのは、まあ……悪い気はしねえし。


 拓馬がこれまで見せた表情が、言った言葉が、私の肩を震わせる。


 ――またすぐ消えた。流れ星が流れてる間に願い事を三回唱えるとか無理だろ。誰だよこのジンクス考えたやつ。せめて二回にしろよ。


 夏の夜、二人で星を眺めていたとき、拓馬は空に向かって愚痴った。

 流れ星にどんな願い事をしたのか聞いたら、拓馬は「内緒」と笑ったけれど。


 もしかしたら、私の隣で寝転びながら、拓馬は私と同じことを考えていたのかもしれない。


 想いが叶いますように。

 ずっと傍にいられますように――と。


「……だったら……もしそうだったら、私の願いは、もうとっくに叶ってたんじゃないか……神さまさえいなかったら、私たち、とっくにっ……」


「悠理ちゃん……」

 しゃくりあげると、由香ちゃんが両腕で私を抱きしめ、背中を摩ってくれた。


 由香ちゃんの手の上にいた大福は多分、由香ちゃんの肩の上かどこかに移動して、心配そうに私を見ているのだろう。

 あのつぶらな、真っ黒な瞳で。


「……泣かないで、悠理ちゃん。白石先輩が仲間になってくれたんだから、もう怖いものなんてないよ」

 しばらくして、由香ちゃんは身体を離し、潤んだ目で私を力強く見つめた。


「井田先輩を真っ向から叩きのめした白石先輩を見たでしょう? 相手が神さまだろうと邪悪なヒロインだろうと白石先輩は負けない。だってね、悠理ちゃん。白石先輩が負ける姿なんて想像できる?」


 由香ちゃんは茶目っ気たっぷりに笑った。


 有栖先輩が負けて泣く姿を想像してみる。

 ……無理だ。

 あまりにもありえなさ過ぎて、具体的な想像をする前に脳が拒否した。


「……できない」

 私は目元を拭い、口の端をつり上げた。


「でしょ?」

 由香ちゃんも笑い返し、身体の前で両手を握った。


「誰が何と言おうと黒瀬くんにとってのヒロインは悠理ちゃんだよ。だって黒瀬くんが好きなのは乃亜じゃなくて悠理ちゃんだもの。自信を持って。私たちもついてるから、一緒にハッピーエンドを目指して頑張ろう!!」

「うん!!」

 私はもう一度目を擦り、大きく頷いた。

 もう涙なんて必要ない。

 私には心からの励ましをくれる親友が、ハムスターが、頼もしい先輩たちがいる。


 待ってて、拓馬。

 私はしがないモブだけど。

 でも、この想いはヒロインにだって負けない。


 そうだ――負けてたまるものか。

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