07:モブ、一念発起する
二人三脚が終わり、ついに借り物競争が始まった。
号砲が鳴り、生徒たちが一斉に飛び出し、二十メートルほど先に散らばるお題が書かれた白い紙に飛びつく。
借りやすい物――あるいは者――のお題を引いた生徒は喜び、反対に借りにくい物を引いてしまった生徒は渋面になりながら、グラウンドや校舎の方向に散って目的のものを探す。
ハンカチ、ティッシュ、赤い鉢巻きを巻いた男子生徒、青い鉢巻きを巻いた女子生徒、校長先生の靴下、足立先生の腕時計、チョーク、黒板消し、バスケットボール。
お題は様々である。
足立先生の腕時計はいいけど、校長先生の靴下って嫌だなぁ……誰だこんなお題にしたの。
いよいよ出番となり、私はスタートラインに立った。
同じスタートラインに立つ生徒は七人。
私の隣の男子生徒は軽く屈伸している。
いかにもやる気満々って感じだ。
引き締まった身体つきだし、私より遥かに足が速そう。
でも、借り物競争は運動能力というより運の勝負。
借りやすい物が引けますようにと、私はコースの先にある紙を見つめて祈った。
前回の出場選手のほとんどがゴールしたところで、スターターピストルが掲げられた。
私は身構えた。
スターターピストルの音は苦手だ。
あの音、どうにかならないものかなあ。心臓に悪いんだけど。
「位置について。用意……」
号砲が炸裂する。
その音量に身を震わせつつ、私は他の出場選手と同時に走り出した。
「走れー!」
一組の応援席のほうから、生徒たちの声援に混じって拓馬の声がした。
その声が私に活力をくれた。
他の出場選手に追いつけなくても気にしない。
易々と追い抜かれてもめげない、挫けない。
とにかく腕を振り、グラウンドを蹴って、全力で走る!
紙が散らばるゾーンに最も遅く着き、その中の一枚を拾い上げる。
お題は伏せられているし、見た目は全部同じなのでどれがいいのかなんて考えても仕方ない。
勘に任せて拾った紙を裏返しにし、お題を確認。
お題は至極単純で、小学生でも理解できる簡単なカタカナ四文字だった。
『イケメン』
本当に誰だ、このお題を考えた人は……。
膝をつきそうになるのを堪えて、私はグラウンドを見回した。
イケメンといえば『カラフルラバーズ』の攻略対象キャラ全員が当てはまる。
ここから一番近いのは二年三組、白石先輩のクラスだ。
応援席の最前列に白石先輩が座っていた。
髪と頭に巻いた白い鉢巻きを風に靡かせ、優雅な微笑みを浮かべて友達と喋っている。
駆け寄って、一緒に来てください、と頼めば白石先輩は快く了承してくれるはず。
白石先輩と同じクラスの赤嶺先輩に頼むという手もある。
精悍な顔立ちの赤嶺先輩は無表情でこちらを見ていた。
誰に頼もうか。
もしもこれがゲームなら、目の前に誰を選ぶかという選択肢が出現することだろう。
打算で考えるなら白石先輩がベストか。
お茶会の主催者である白石先輩と仲良くなれれば、私もお茶会に参加できるかもしれないから。
――でも。
選択肢なんて要らない。
イケメンというお題を見た瞬間、頭の中に浮かんだのは一人だけ。
私は二年三組の応援席に背を向け、全速力で走った。
もう迷いなんてない。
この機会を逃すことでお茶会に参加できなくなったって構わない、私が手を繋いで一緒に走りたいのは彼だけだ。
ヒロインのように五人のイケメンからちやほやされなくたっていい、たった一人と仲良くなれればそれでいい。
「拓馬!!」
私は一年一組の応援席の前に立ち、その名前を叫んだ。
応援席のベンチの一番上で、拓馬が私を見下ろし、吉住さんたちが口をあんぐり開けている。
よりにもよって彼女たちの前で呼び捨てにするなんて、喧嘩を売ったも同然だ。
でも、そんなのもどうだっていい。
「一緒に来て!!」
私はぜえはあと息を切らしながら、拓馬だけを視界に捉え、右手を差し伸べた。
拓馬は――なんだか楽しそうに笑った。
応援席のベンチから身軽に飛び降り、歩み寄って来る。
「何。お題に該当したのがおれなの?」
「そう。イケメンって言ったらあなたでしょ!」
片手に握り締めていた紙を大きく広げてみせる。
拓馬はイケメンの四文字を見た後、
「違いない」
納得したように頷いて――結構拓馬はナルシストだ――素早くグラウンドを見回し、他の出場選手の動向を確認した。
「おし。まだ誰もゴールしてねえな、行くぞ! 夢のゴールテープを切らせてやるよ!」
「えっ、わあっ!?」
拓馬は言い終わるよりも先に私の左手を掴み、走り出した。
周りの景色が飛ぶように流れていく。
まるでジェットコースターに乗っているかのよう。
応援席が、青空が、グラウンドが、目に映る色彩の全てがごっちゃになって、マーブル模様になる。
拓馬は私の手を引いて、ぐんぐん、ぐんぐん、風を切って進んでいく。
声援を浴びながら、子どものように目をキラキラさせて、ゴールに向かって駆けていく。
走ることが好きなんじゃない、私を一位にするという野望に燃えているからあんなに楽しそうなんだと気づいた瞬間、私の中で何かが弾けた。
――ああ、私、拓馬が好きだ。
たとえ彼に乃亜という運命の相手がいても関係ない。
一年後に現れる乃亜は拓馬にとって絶対のヒロインで、私はモブかもしれないけれど、でも、だから、それが何だって言うんだ。
大福はモブが恋をしても報われない、ヒロインには敵わないと断言したけれど、そんなのやってみなくちゃわからないじゃないか。
戦う前から諦めるなんて嫌だ。
私は乃亜にも、誰にも負けたくない。
言葉に言い表せないエネルギーが腹の底から沸き上がり、身体の隅々まで満たしていく。
この手を離したくないと願う気持ちを、私は自覚した。
――まあそれは良いとして。
いまは何より重大な問題があると、身体が切羽詰まった悲鳴を上げている。
「ちょ、ちょっと待っ――た、拓馬、速、速すぎ――っ!」
私は切れ切れに訴えた。
拓馬が速すぎて、私の足が限界です!
「黙ってろ、舌噛むぞ!」
拓馬は私の手をしっかりと掴んで離さない。
拓馬があんまりにも速いから、私は必死に足を動かし、どうにか転倒しないようについていくだけで精いっぱいだ。
およそ自力では出したことのない――というか、出せるわけがない――速度に脳の処理が追い付かず、目が回る。
遠かったはずのゴールテープが凄い勢いで近づいてくる。
それが目前に迫ったところで、拓馬は急に速度を落とし、私の走る速度に合わせてくれた。
そのおかげで、私たちはほとんど横並びの状態でゴールし、真っ白なゴールテープを切る瞬間を確かに味わうことができた。
ぴんと張られていたゴールテープが私の身体に触れて緩み、地面に落ちたそれを体育祭実行委員が回収している。
「あー、さすがにちょっと疲れたな」
そう言いつつも、拓馬の顔には余裕があった。
だって息を弾ませながら笑ってるし。
私は言葉を発することさえできない。
肺は酸素を求めて暴れ狂い、酷使した膝はがくがく揺れて、立っているのがやっと。さながら生まれたての小鹿のようである。
「…………わ、わたっ……!」
激しい呼吸の合間に言いかけて、息が詰まり、激しくむせた。
「おい。大丈夫か?」
俯いて膝に手を置き、ひたすら息を荒らげている私の背中を、拓馬が心配そうに叩く。
「わ、私っ!」
どうにか喋れるようになり、私は拓馬の腕を掴んだ。
「は、初めて、一位っ……じ、人生で、初めて、一位、取れた! た、拓馬の、おかげっ……!!」
感極まって、目からボロボロ涙が零れる。
「あ、ああ……おめでとう」
泣くほど喜ぶとは思わなかったらしく、拓馬は面食らった顔になり、苦笑した。
「でも、浸るのは後にして。ここで突っ立ってたら邪魔になる」
拓馬は私の手を掴んで引っ張り、一位の旗が立っている列に並び、腰を下ろした。
泣いている私を、待機中の生徒たちがちらちら見ている。
でもそんなの、この喜びの前では些事だ。
何せ私は絶望的なまでの運動音痴。
だからこそ、どれほど一位に憧れていたことか……!
「一位になった感想は?」
私が落ち着くのを見計らって、拓馬が聞いてきた。
答えは聞かずともわかっているらしく、唇の端をつり上げて。
「……最高っ!」
私は手の甲で荒っぽく目元を擦り、泣きながら笑った。
「私、今日のこと忘れないよ。拓馬と手を繋いで一位になったこと、きっと一生忘れない」
飛ぶように視界を流れていく景色、生徒たちの声援、私の左手を強く掴んだ拓馬の手の感触、二人並んでゴールテープを切った爽快感、青空の下で誇らしげに揺れる一位の旗。
全てが記憶に焼き付いた。
これほど鮮烈で、得難い貴重な体験、たとえ忘れようとしたって、忘れられるわけがない。
「大げさな」
「大げさなんかじゃないよ。私の運動音痴ぶりは身をもって知ってるでしょ? 体育祭で一位を取れるなんて、奇跡でも起こらなきゃありえないと思ってた。でもなれた。全部拓馬のおかげだよ、本当にありがとう。夢を叶えてくれて」
私は拓馬の手を掴み、上下に振った。
「……どういたしまして。まあ、レモンのお礼ってことでいいよ」
拓馬は照れたように頬を掻いた。
「うん、明日はレモンスカッシュだよね、絶対作って持ってくね!」
手を離し、笑顔で言う。
すると、拓馬は急に黙り、明後日の方向を見つめた。
視線を追えば、そこは二年三組の応援席。
友達と談笑している白石先輩を見ているようだ。
「どうしたの?」
「なあ悠理」
再び拓馬がこちらを見る。
「何?」
「お前って、紅茶好き?」
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