第8話 Master of the wolves

「どうだい、智也。たまには私の愛車で出掛けてみないか?」

 そう言って彼を誘った私は、久し振りに物言わぬ相棒に跨って出掛ける事になった。

 遡ること三日前、きっかけはアミメ君との打ち合わせの時だ。

「ふむ、じゃあこういう路線で良いかな?」

「はい、それでお願いしますね。」

 私はカップに残った紅茶を飲み干す。

「今回はスムーズに進みそうだ。」

「きちんとお風呂にも入れますね。」

「おいおいアミメ君、まだ引っ張るのかい。」

 以前の誤解は解けたのだが。

「アリツさんといい、智也までそのネタで私をからかってくるんだからな。」

「そうだ、智也さんと言えば。」

 不意に真顔になってアミメ君が切り出す。

「原田先生が今大変な事になってるんですよ!」

「智也が?」

「知らないんですか?原田先生の新作ですよ。先生も貰ったでしょう?」

 作家の原田テツヲ、智也の新作。確かに私も一冊受け取ったが。

「まだ読んでないんだ。それがどうかしたのかい?」

 アミメ君は携帯電話を取り出して素早く操作すると、私に差し出してきた。表示されている記事を読む。彼の新作に対する書評なのだが…

“原田テツヲの才能を疑う凡作”

“不眠症の特効薬としてなら評価出来る”

“どうせならノムリッシュで書け!”

「これは…、酷いな。」

「でしょう。久し振りの作品だから、期待値が高かったのもありますけど。さすがにこれは。」

 私も同じクリエイターだ。自分の作品が酷評されるのはつらい。出来る事なら彼を励ましてやりたいが。どうしよう?アリツさんに相談…、はやめておこう。

「ここは先生が一肌脱ぐしか!」

「君までアリツさんみたいな事を。」

「私は真剣ですよ!相棒でしょう!?」

 いつになく強い剣幕で言うアミメ君に私はちょっと気圧された。

「苦しい時にこそ助け合うのが友達ですよ!今までだって!」

 そうだ。父の手紙の時も。私の為に、彼は。いつでも、さり気ない言葉や行動に私を気遣う優しさが滲んでいた。なら、今度は私が。

「…何か気晴らしになることがあればいいんだが。」

「一緒にどこか出かけるとか、食事するとか。誰かが傍に居てくれるだけで気持ちが和らぐものですよ。」

「………」

「どうしました?そんな顔して。」

「いや、ちょっと意外だと思って。君が智也の事でそんなに真剣になるとは。」

 アミメ君は一瞬ムッとした表情を浮かべた。

「当然ですよ。私にとっても友達ですからね。一応。」

「そうか。…アドバイスありがとう。助かったよ、アミメ君。」

 それを聞いて彼女はいつもの屈託の無い笑顔を見せた。

 さて、どうしたものかな。私なら、仕事を忘れてどこか遠くへ行きたいものだが。ならいっそのこと…

 彼との待ち合わせ場所に着いた。

「やあ、お待たせ。」

「…これがオオカミさんの愛車か。」

 彼は私の相棒をまじまじと見る。

「これ、ウルフだろ。200、いや250か?…オリジナルモデルだな。渋いなオオカミさん。」

「へえ、詳しいじゃないか。ふふ。」

「オオカミがウルフにね。ま、それは置いといて。リデザインじゃなくてあえてオリジナルを選ぶところが良い。」

「お褒めに預かり光栄だね。」

 彼は感心した様子でしきりに相棒を角度を変えて見続ける。嬉しいがちょっとくすぐったいな。

「そろそろ行こう。智也、乗ってくれ。」

「ああ。」

「遠慮せずに、もっと私にしがみついて。飛ばすよ。」

 彼が体を密着させ私の腰に手をまわす。私より二回りは大きい彼の体の重みを感じる。何故だろう、不思議な安心感がある。

「さあ、行こう!」

 私達を乗せ、鋼鉄の狼が咆哮を上げて駆け出す。



 ヒトとフレンズが共に生きる街ジャパリポリス

 無数の出会いと別れが交錯し

 数多の笑顔と涙が生まれるこの街で

 人々は生きていく未来へと繋がる今日を



 森の中の道を私と智也は歩いている。

「…こうやって歩くのも悪くないだろ。」

「…そのポンコツオオカミが無ければ、或いはね。」

 私と相棒を一瞥して言う。ムカっときたが言い返せない。

「バッテリーの残量ぐらい事前に確認しておくもんだろう。」

「…ついうっかりしてた、…悪かったよ。」

「君はいいよな。いざとなったら走って帰れるんだから。」

 嫌味っぽく彼が言う。

「深く考えずに行動するところがいかにもケモノらしいな。」

「…さすがに言い過ぎじゃないか。元はと言えば君が…」

「俺が?デートに誘ってくれなんて頼んだ覚えは無いね。」

 私と智也は睨み合う。…こんな筈じゃなかった。ただ彼を元気付けたかっただけなのに。

 不意に頭上から鳥の声が聞こえてきた。私達は空を見上げる。

「トビか。」

 遥か高みを二羽のトビが舞っている。番いだろうか?

 その後私達は暫く無言で歩いた。

「…オオカミさん。」

 智也が私を呼び止める。彼は深く息を吐くと続けた。

「さっきは言い過ぎたよ。ごめん。二人きりなんだ、もう喧嘩はやめよう。」

「うん。私の不注意が原因だしな。済まなかった。もう仲直りしよう。」

 彼が恥ずかしげに笑う。私も笑みを返す。…良かった。

「まあ、こういうトラブルもあった方が面白いかな。」

「ふふ、そういうところヒトらしいな。」

「何事も楽しまなきゃ。そうだろ?」

「ああ、怪我の功名ってやつだね。」

 私達は取り留めなく話しながら歩いた。アミメ君の最新の迷推理、コンビニで見かけた奇妙な客、新しいミステリースポット、街で流れる噂、最近観た映画について。

「…あの象徴的に出て来る風車のシーンなんだけど、風車っていうのは風に吹かれて回る。自身では回れないだろ。つまり状況に流されるしかない主人公達の境遇を表していると思うんだ。」

「ふうん、私はそういう比喩的な演出はよく分からないからなあ。」

「意外だな。むしろオオカミさんはそういうの得意だと思ってたけど。」

「そうかい?」

「動物は人間ほど複雑な言葉を持たないだろ。その分身振り手振りとか言語以外の手段を持つから、オオカミさんも暗喩を読み解くのは得意だと思ってたよ。」

「確かに仕草やジェスチャーを理解するのは得意だけど、映画の演出なんかはヒトの文化が背後に有るからフレンズのものとは違うんだよ。」

「なるほど、一理あるな。」

 得心した表情で彼は頷き、顎に手を当てる。

 そうこうしていると立て札と樹々の間に続く小道が見えてきた。

「喫茶店“石炭袋”?」

 小道を進むとログハウス風の店が姿を現す。

「石炭袋と言えば、宮沢賢治だろ。」

「『銀河鉄道の夜』だね。ふふ、私も好きだよ。」

「まさか、注文の多い喫茶店、なんて事は無いだろうな。」

 いささか大仰に彼は身構えてみせる。

「心配性だな。大丈夫、私が君を守ってみせるよ。」

「そうだな、君がいれば安心だ。」

「お、今日は素直じゃないか。」

 私達は笑みを交わしながら店に入る。来客を告げる鐘が鳴り、店員が笑顔で出迎えてくれた。

「いらっしゃいませ〜。喫茶店石炭袋へようこそ〜。」

 エプロン姿のフレンズだ。ポケットからキャンディーの包み紙がはみ出している。

「バッテリーを充電したいんだけど、いいかな。」

「それなら、こっち、ついてきて。」

 もう一人の店員について、私は店の裏手に回る。

「ここで、充電出来る。このタイプなら、三十分、くらいだと思う。多分。」

 充電器にバッテリーを接続する。

「ああ、ありがとう。…ところで、君はオオカミなのかい?」

「私、フクロオオカミ。オオカミだけど、ちょっと違う、みたい。」

 彼女は置いてあった籠を背負うとそのまま裏手の森へ向かう。

「どこへ行くんだい?」

「野菜の収穫。奥に畑、ある。私が育ててる。」

「自家製の野菜か。こだわってるじゃないか。」

「それじゃ。」

「私も手伝おうか?」

「一人で平気。お客さまには、させられない。お店に、戻ってて。」

「そうか、余計なお節介だったね。」

「ううん、気遣ってくれて、ありがとう。」

 私は店に戻る。扉を開けると、音楽が聞こえてくる。ジャズか?悪くない趣味だ。店内に足を踏み入れた私の目に、見知らぬフレンズと踊る智也の姿が映った。

 雪のような髪と羽、黒いマフラー、前髪の鮮やかな赤が目を引く。

「クスクス、ご注文は?何にする、る?」

 カウンター席に座った私に黒エプロンの店員が尋ねてくる。

「ウ、…ジンジャエール。」

 私がグラスを傾けると、踊り終えた智也が近付いてきた。

「やあ、オオカミさん。…俺も彼女と同じものを。」

「…随分と楽しそうじゃないか。」

 何だろう、胸がモヤモヤする。そんな私の胸中を知ってか知らずか、彼は上機嫌でグラスを飲み干す。

 踊っていたフレンズがやって来た、隣によく似たフレンズがいる。

「初めまして、わたくしはタンチョウですわ。こちらはマナヅルさん。わたくし達二人で旅をしていますの。」

「タイリクオオカミだ。」

 結構背が高いな、アミメ君と同じくらいか。智也と並ぶと見映えが良いな。二人ともマフラーだし。お似合いじゃないか。…悔しいな。

「踊らないか?オオカミさん。」

 智也が手を差し出してくる。

「いや、私は、その…」

 躊躇う私になおも彼は手を伸ばしてくる。が、やがて残念そうに目を落とす。

「よかったら私が…」

 その言葉が終わる前に私は彼の手を握っていた。

「気が変わった。踊ろう。」

 正直なところ、踊るのは初めてなんだが、なるようになれだ。

 二人で向かい合う。互いに腰に手をまわす。音楽に合わせてステップを踏む。

「ふふ、“オオカミと踊る”か。」

「何だい?」

「いや、そんな映画が昔あったと思って。」

 そう言う彼の顔がほころぶ。私も自然と頬が緩む。良い気分だ。

 どれぐらい時間が過ぎただろう。何だかあっという間だったような。踊り終えた私達に向かって拍手が投げかけられる。

「素敵でしたわ。お二人とも。」

「息もぴったりだったわ。」

「そうかい、ありがとう。」

 無我夢中で上手く踊れていたか疑問だったが、どうにかなったようだ。

「はいどうぞ〜、甘いものをペロペロすると元気が出ますよ〜。」

 私はキャンディーを受け取る。

「クスクス、ジンジャエールもう一杯飲む、む。」

 智也が受け取ったグラスを私にも手渡してくれる。

「素敵な、ダンス、だった。」

 店に戻っていたフクロオオカミがそう言って微笑んだ。

 私と智也は乾杯するとグラスに口をつけた。

「お似合いのご夫婦ですわ。」

 二人揃ってむせた。

「あら、違いましたの?わたくしてっきり。早とちりしてしまいました。ごめんなさい。」

「まあ、それだけ仲の良いカップルだってことよ。」

「いや、私達は、友達、だ。なあ智也。」

 …何を赤くなっているんだ。全く。この男は。でも、さっきまでの胸のモヤモヤはどこかへ行ったようだ。

 その後、バッテリーの充電が終わり私達は店を後にする。

「短い間でしたけど、名残惜しいですわ。」

「そうね。でも、ジャパリポリスでまた会えるかもね。」

 タンチョウとマナヅルの二人とも別れ、私達も二人旅を再開する。



「山が青いなあ。」

 遠くにそびえる山々を眺めながら、智也が感嘆の声をあげる。

 北部環境保護区に向かう途中の平原で少し休憩する事にした。吹き抜ける風が草を揺らし、緑のさざ波の様だ。

「人間いたる所に青山ありだな。」

 草の間に突き出た小岩に腰掛けた彼が呟く。私も近くの岩に腰を下ろす。風が心地良い。抜ける様な青空だ。

「…ありがとう、タイリクオオカミ。」

「どうしたんだい、あらたまって。」

「俺を誘ってくれた事さ。辛い時に励ましてくれる友達がいるのは有り難いと思って。」

「礼には及ばないよ。相棒なんだから。」

「ハクトウワシの言った通りだな。」

「ハクトウワシ?彼女が何て?」

「君が俺を励まそうとしてるんだろうって。良いパートナーだって言ってたよ。」

 脳裏にハクトウワシの得意気な表情が浮かぶ。

「鋭いな、彼女。てっきりアミメ君が喋ったのかと思ったが。」

「あいつアミメ類なのに色々と能力高いよな。ハクトウワシ型高性能アミメキリンだ。」

「ふふ、何だいそれは?」

「言葉遊びさ、丸い三角の様な。『幸運の四角形』読んだかい?」

 彼の新作だ。せっかく貰ったのに本棚に放り込んだままだ。

「ああいや、すまない、まだなんだ。」

「俺の小説って、文章が簡潔で表現も単純って言われてるからさあ。難解な文体にしてやれって書いたら、全然受けなかったなあ。参ったよ。」

 軽い調子で言いながら彼は立ち上がり、遠くの山を見やる。

「本当に大切なものは目に見えないんだよなあ。」

「『星の王子さま』、だったかな?」

「よく知ってるな、オオカミさん。」

 背を向けたまま彼は答える。

「それでもヒトは言葉でしか伝えられない。本当に大切な想いは言葉でしか伝わらないんだよな。」

 私は立ち上がり彼の背中に近付く。彼は何か、心の内を語ろうとしている。私に。そんな気がした。

「…俺には、物語の中にしか居場所が無かった。物語の中にいる時、世界の主人公でいられた。見捨てられていないんだと。だから、俺も誰かのために物語を紡ぎたかった。」

 彼の大きな背中がその時だけは虚ろに見えた。私はその背に触れた。以前に彼がそうしてくれたように。

「…今は、私がいるよ。私が傍についているよ、智也。だから…」

「大丈夫だ。」

「大丈夫。」

 振り向いた彼と目が合う。

「ありがとう、オオカミ。君のそういう所す…」

 一瞬心臓が高鳴った。

「き、嫌いじゃないぜ。」

「あ、ああ。どういたしまして。」

 彼が目を逸らす。私も俯いた。何をしているんだろう。大の大人が二人揃って。不意に笑いがこみ上げてきて、私は堪えきれずに笑い出す。つられて彼も笑う。吹き抜ける風に乗って私達の笑い声が青空に響き渡った。

「そろそろ行こう。」

 彼が顎をしゃくって合図する。いつもの癖だ。

「まだ、君とこのまま一緒にいたいからな。」

「ああ。智也、どこまでも一緒だよ。」

「…オオカミさん。それ、別れるフラグじゃないか。」

「ふふ、冗談だよ。」

「全く。」

 再び相棒に乗り、背中に彼の温もりを感じながら私はアクセルを開く。



 青い空の下、風を切って一直線に走り抜ける。人間の造った機械に乗るのはどうかと思ったものだが、今ではこれも悪くはないな。

 ゲートが近付いてきた。黒い鳥居だ。そういえば、前に見た西部のゲートは白かったな。

 神社カミヤシロに似た様式の建物に入るが、管理者の姿は見えない。

 “御用の方は呼び鈴を鳴らして下さい”

 カウンターに貼り紙があり、天井から鈴の付いた綱がぶら下がっている。手を伸ばしたところで何か聞こえてきた。これは、歌?鼻歌か。

 私は外に出て建物の横手にまわる。手入れされた垣根の間の木戸を開けて先に進む。

「いいのかオオカミさん、勝手に入って。」

 そう言いつつも後についてくる智也。彼と共に白い砂利道を踏み進む。ジャリッ、ジャリッ、という音と足裏の感触がどこか心地良い。程無く建物の裏手に出た。

「枯山水か。風情があるな。」

 智也が感心したように呟く。そこはちょっとした庭園になっていた。奥の小高い岩の窪みから虹色に煌めくサンドスターが湧き出ている。小気味の良い音が響いた。

鹿威ししおどしだ。益々もって風流だな。」

 庭園を見回すと、縁側に座って鼻歌を歌っているフレンズが目に入る。彼女と目が合った。

「ふんふふ〜ん、…な、何だ!そなたら!?」

 頭にカメの髪飾りを付けたヘビに似たフレンズだ。以前にも会った。

「呼び鈴を鳴らすように書いてあっただろう。ここはわしの庭だ。勝手に入るな。」

「カメなのにワシの庭とは如何に?」

 智也が茶々を入れる。

「茶化すでない!」

 一喝されたが構わずに、今度は感慨深げに言う。

「それにしても、サンドスターで鹿威しとは実に良い。趣深いな。」

「む。そなた、多少は風流の心得があるな。」

 満更でもなさそうに彼女が答える。機嫌を直してくれたようだ。智也の方を見ると軽くウインクしてきた。やるじゃないか、相棒。私は彼の胸のあたりを拳で軽く突いた。

 建物の中に戻ると改めて所定の手続きを済ます。ポリスの外、環境保護区は野生動物の天国。そしてセルリアンが跋扈するフレンズにとっての地獄でもある。万が一の時の為に遺体や遺品の引取人についても書いておく必要がある。…私の場合はアリツさんだな。

「近頃はセルリアンの動きが活発になっておるようだ。いつだったか、店を開いておった奇特なフレンズどもが襲われた事があった。」

 手続きを終えた私に彼女が話しかけてきた。

「更にハンターどもが何人か行方知れずになったとも聞く。そなたは腕に覚えがあるだろうが、くれぐれも勇気と無謀を違えるなよ。」

 そう言うとお守りを渡してくれる。私と智也の分だ。

「多少は加護があろう、持って行け。」

「ありがとう。何だか悪いな、勝手に庭を覗いたりしたのに。」

「ふん。ここは存外退屈でな。次は気を付ける事だ。…戻って来たら茶ぐらい出してやろう。」

「ああ、楽しみにしているよ。」

 彼女に別れを告げ、私達はゲートをくぐって保護区へと向かう。どこか懐かしい私の故郷に…



 俺は真っ白い画面を見つめている。頭の中も真っ白だ。いざキーボードを叩こうとするも、指は中空で止まってしまう。

「進捗はどう?コーヒーを淹れたわ。」

 ギンギツネが机にカップを置く。

「ありがとう。」

 俺はカップに口をつける。奇妙にぬるい、味のしない液体が喉を通る。カップを置くと再びタイプライターを…、タイプライターってどう叩くんだっけ?

「少し休憩したらどうかしら。」

 ギンギツネが俺にしなだれかかってくる。彼女の指が胸をまさぐる。何故か悪寒がして、俺は彼女を振りほどいて離れる。

「どうしたの?機嫌が悪いのかしら?」

 彼女の表情は変わらない。妙に抑揚のない声だ。

 俺は手に持った本を見る。『星の王子さま』だ。本当に大切なものは目に見えない。

 不意に熱さを感じ、ポケットに手を入れる。これはお守り?

 もう一度本の題名を見る。見た事のない文字だ。読めない。が、意味は分かる。

「…ギンギツネ、この話はしたかな。人間の脳は左右で働きが違う。左脳は言語と論理、右脳は感情と直感だ。ところで、夢は右脳で見ている。だから夢の中では文字が読めない。」

 ギンギツネの顔を見る。感情のない人形の顔。机の上のカップ。ぬるい、味のしない珈琲。白い原稿用紙と万年筆。窓を見るとピンク色の空。

 これは夢だ。目覚めるには。

 俺は窓を開けるとベランダの手すりに登る。背後で叫び声がしたが構わず飛び降りる。身体が宙に浮く感覚がした。道路に叩きつけられる、よりも先に身体が何かにぶつかった。



 私は街の通りを歩いていた。人影の無い静かな街並み。路上に車が停まっている。私は車の側で彼を待つ事にする。

「やあ、奇遇だな。タイリクオオカミさん。」

 彼が声をかけてきた。

「そうだ、コーヒーを飲みに行こう。」

 そう言って彼は通りの向こうを指差して合図する。

「ふふ、いいとも行こう。」

 私は彼の背中について行こうとして立ち止まる。何かが引っかかる。気が付くと何かを握りしめている。これはお守りか?

「どうしたんだ?タイリクオオカミ。」

 目の前の男が振り返る。

「お前は智也じゃないな。」

「何を言ってるんだ。最近構ってやらなかったから拗ねてるのか?ギンギツネとは何もないよ。そうだ、ここで二人きりで過ごそうよ。俺達夫婦なんだから。」

 作り物めいた笑顔で男がまくしたてる。夫婦か。いつの間にそんな仲になっていたんだ?

「お前が本物だったら、それも良いかもしれないが。」

「オオカミ、俺は君が…」

「黙れ!その顔で喋るな!不愉快だ。」

 私は右の手刀を男の胸に突き立てる。彼の姿を模したセルリアンは粉々に砕け散った。

 その時私は路地に駆け込む人影を視界の端に捉えた。

「待て!」

 咄嗟にその影を追い私も路地へと駆け込む。



 気が付くと俺は床の上に倒れていた。起き上がり周りを見回す。ここはどこだ?見覚えのある場所だ。

「石炭袋か。いつからここに。…タイリクオオカミ!」

 返事はない。薄明るい店内には誰の姿もない。物音も聞こえない。

 俺は店の奥にある扉を開ける。暗い室内に足を踏み入れると、ベッドの上にタイリクオオカミが仰向けに横たわっていた。

「オオカミ!」

 駆け寄ろうとする俺の前で彼女は半身を起こしあくびをする。

「どうしたんだい。そんなに慌てて。怖い夢でも見たのかい?」

 悪戯っぽく笑うオオカミ。その顔が妙に艶かしい。

「いつまで突っ立っているんだい。さあ、おいで。私が欲しいだろ?」

 生唾を飲み込む。俺は手の中のお守りを握りしめる。

 なおも立ち尽くす俺を見て、オオカミはベッドから降りて立ち上がる。彼女の裸体が白く浮かび上がった。両腕を広げて俺を誘う。

「さあ、二人で愛し合おう。」

 嗚呼、これが夢でなかったら迷う事なく彼女に抱きつくのに…

「お前は!タイリクオオカミじゃない!」

 俺は叫ぶ。自分自身に言い聞かせるように。

「ネイティブのタイリクオオカミがヒトと同じように寝るものか!くそ、これもまだ夢だ!」

 俺は自分の頬を平手で叩く。力を込めている筈なのに痛みを感じない。

「どうして?これがあなたの望みなのに。幸せから目を背けるの?」

 タイリクオオカミの両目が紅く光る。

「黙れ!その姿で喋るな!虫酸が走る。」

 俺は拳を握り腰を落とす。オオカミの姿をしたものが跳びかかってくる。左拳を突き出す。一瞬金属の質感が伝わるも、すぐさまブニャリとした奇妙な感触があり、フレンズ型セルリアンは全身を波立たせ闇に溶け込むように消えた。

 俺は大きく息を吐いた。心臓が高鳴っているのが分かる。

「ひいばーちゃんは言っていた。恐怖から目を背けてはいけない。暗闇の中にこそ光があると。」

 俺は腹をくくると目の前の暗闇に向かって駆け出した。



 暗い路地を駆け抜ける、間も無く目の前に人影が向かって来る。二つの影は交差し、背の高い影がもう一方の影をビルの壁に押し付ける。

「離せ!セルリアンめ!」

「俺はヒトだ!きさまこそ!」

「私はフレンズだ!」

 月明かりの差さない暗いビルの谷間で智也とタイリクオオカミは互いを敵視する。

 タイリクオオカミが智也の腹に膝蹴りを叩き込む。智也がタイリクオオカミの両手首を強く握りしめ壁から引き離すと、反対側のビルの壁に叩きつける。

 タイリクオオカミが口を開けて智也の喉笛に嚙みつこうとする。寸前で智也が左腕で喉を庇う。

 智也が左腕に噛みついたタイリクオオカミの脇腹に右拳を何度も叩きつける。ようやくタイリクオオカミが智也から離れた。

 二人は距離を取り互いに殺意に満ちた瞳で睨み合った。智也の顔が憎しみに歪む。タイリクオオカミが獣じみた唸り声をあげる。

 互いの瞳が虹色の光を帯びる。タイリクオオカミが地を蹴って跳ぶ。智也が右拳を引いて構える。二つの影が再び交差する。刹那、虹色の閃光が二人を包んだ。



 私は母親にすがりつく。

「おかあさん、いかないで。いかないで。」

 母が私を抱きしめる。

「ごめんなさいね。でもこれはお母さんにしか出来ないお仕事なの。」

 母は私を置いて去って行く。私はただ泣くことしか出来ない。

「いかないで、おかあさん。ひとりにしないで。」

 これは君の記憶なのか、智也。君は私と同じ…

 俺は見慣れた筈の土地を歩いていた。木々や肉の焼け焦げた臭いが満ちている。群れの、家族の匂いはどこにも無い。

 俺は遠吠えをする。応えは無い。俺は遠吠えをする、幾度も幾度も。応えは無い。俺は遠吠えをする、声が枯れ果てるまで。それでも応えは無い。

 これは君の夢なのか、タイリクオオカミ。君は俺と同じ…

 私は虹色の光の中を揺蕩っている。これも夢か?

 いや、君は夢でも幻でもない。

 智也か?

 サンドスターが俺達の心を繋いでいる。それだけは分かる。

 智也、君はどこか私に似ている。

 俺達は似た者同士なのかもな。

 だから惹かれ合うのか。



 月明かりが差し込むビルの谷間で私と智也は向かい合っていた。

「ここはあの場所か。」

「あの時、俺と君が出会った場所だな。」

 まさかこの場所で彼と戦うはめになるとは。これもセルリアンの仕業か。

 智也は俯き加減で何か考えているようだ。

「サンドスターとは一体何だろう?」

 先程の体験の事か。あれはセルリアンのせいではない。お守りの加護だろうか?違うような気もするが。

「今はそれを考えている場合じゃない。まだ私達は夢の中にいるんだ。」

 恐らくはセルリアンの作り出した夢の中に。私達は互いに頷き合うと走り出す。私が前に出て加速する。後ろから彼が叫ぶ。

「待ってくれ!タイリクオオカミ!独りで…」

「智也?」

 気が付くと私は何も無い荒野にいた。頭上にはピンク色の空が広がる。辺りを見回すが智也の姿は見えない。

「貴女は?フレンズになって幸せ?」

 声の方を向くとそこには私によく似たオオカミのフレンズ。

「お前はあの時の。どうしてここに。いや、ここは夢の中だったな。」

「どうして幸せから目を背けるの?ここならどんな願いも叶うのに。」

「紛い物の幸せなんて欲しくない!私は私の現実を生きる!それがどんなに苦しくても、痛みも私の一部だ!」

 私は地を蹴る。右手に意識を集中させ、けものプラズムの刃を目の前のセルリアンに振りかざす。奴は身じろぎ一つしない。雄叫びをあげ、すれ違いざまに袈裟斬りにする。手応えはあった。

「ふうん。やっぱりおバカさんね。おとなしく夢を見ていればいいのに。」

 奴の姿が揺らぐ。オオカミの精悍なシルエットが丸みを帯びていく。厚手のマフラーにダウンジャケット。先端が丸くなった特徴的な髪。

「オオカミの皮をかぶったヒツジとはな。皮肉のつもりか。」

「本当は臆病な寂しがりやさん、頼りになる相棒はいない。ひとりぼっちでどこまでやれるかしら?」

「智也をどうした!」

「貴女達、二人だと厄介だわ。だから彼には出ていってもらったの。」

 出ていった、夢から覚めたという事か。

「望み通り現実で苦しめばいい。貴女はここで夢を見なさい。覚めない夢を。」

 私は右手の刃を構える。だが、唐突に刃は消えてしまう。意識を集中させるが、けものプラズムが形成出来ない。

「無駄よ。ここは私の世界。全て私の意のままに。」

 鉤爪の付いたキノコのような形のセルリアンが姿を現す。迎え撃とうとするが、身体が重い。思うように動けない。これも奴の仕業か。

 鉤爪を躱し、手刀を振り下ろす。我ながらスロー過ぎる。重い足を上げ蹴りを放つ。駄目だ、まるで効いていない。

 私はセルヒツジに向かって疾走はしった。つもりだったが、ノロノロと鉛のような脚を引きずるばかりだ。それでもどうにか奴に右拳を叩き込む。セルヒツジは避けようともせず、薄ら笑いを浮かべている。くそ!力を込めているのにまるで手応えが感じられない。

 気付けば私は地面に両手をついて跪いていた。立ち上がろうにもどうにも力が入らない。

「もう苦しむ必要はないわ。ほら、受け入れなさい。貴女の望みを。」

 不意に懐かしい、優しい声が聞こえた。顔を上げるとそこには…

「お父さん。お母さん。」

 微笑みながら佇む二人の姿。自然に足が動いた。私は父の胸に飛び込む。懐かしい温もり。懐かしい匂い。私は静かに目を閉じる。

 遠くから私の名を呼ぶ声がした。



「タイリクオオカミ!独りで行くな!」

 自分の叫び声で俺は目覚めた。どこだここは。現実だ。それは分かる。そうだ、保護区に入った俺達は…、確か喫茶店に…、それから?

「タイリクオオカミ!」

 テーブルの向かい側で彼女が静かに寝息を立てている。初めて見る寝顔。すごく可愛らしい。…いや、見惚れてる場合じゃない。

「タイ…」

「ダメですよー。皆さん、いい夢を見ているんですー。起こさないで下さーい。」

 エプロンを着けた耳の大きなフレンズが姿を見せる。ゆったりとした口調が、この場ではかえって不気味だ。

「あらあら、起きてしまったんですかー。いけませんねー。ヒツジさんはどうしたんでしょー?」

 俺は椅子から立ち上がり身構える。こいつは恐らくセルリアンだ。

「仕方ありませんねー。では、あなたから仲良くしましょうねー。」

 フレンズ型セルリアンの両目が紅く光る。足元からワラワラと小型のセルリアンが湧いてくる。

 次々と跳びかかって来るセルリアンを殴り、蹴りつける。息つく暇もない。寝起きの運動にしては激し過ぎるぞ。

 それでもどうにか全て片付けてやった。少し息があがったか。だが休んでる時間は無い。俺はフレンズ型セルリアン目掛けて駆け出した。握りしめた拳を振りかぶる。

 横っ面を殴られた。何だ!?視界に飛び込んできた影をはたき落とす。コーヒーカップ?グラスやボトル、椅子にテーブルまでもがガタガタと揺れ始める。飛んできたナイフとフォークを躱し、皿を叩き落とす。おいおい、これじゃまるで…

 椅子が飛び跳ねながら迫って来る。まだ夢の中にいるのか?椅子に左拳を突き出す。妙な感触があり椅子が砕け散る。これはまさか。

「乱暴はいけませんよー。おとなしくして下さいー。」

 フレンズ型セルリアンの方を見る。奴のエプロンのポケットから黒い塊が飛び出してきた。虫?俺は両腕を顔の前で交差させる。いやこれは、葉っぱか!

 俺は体に付いた葉っぱを払い落とす。奴に向かって走ろうとしてよろめいた。何だ?脚が言う事を聞かないぞ。酔っ払ったかのように千鳥足でふらついた挙句、座ったまま眠っているタイリクオオカミにぶつかった。二人共床に倒れる。

「大丈夫ですかー?ユーカリの葉には毒があるんですよー。気を付けて下さいねー。」

 ふざけやがって。ユーカリの毒は神経毒じゃないだろう!くそっ、身体が動かない!

 なんとか床に両手をつき立ち上がる。身体が鉛のようだ。テーブルに手をついて身体を支える。

「まだ動けるんですかー?しぶといですねー。」

 俺はマフラーで椅子を掴むと奴に向かって投げつける。

「あーれー、危ないですー。やめて下さいー。」

 床に倒れこむフレンズ型セルリアン、いやこいつはコアラか。続けて椅子を投げようとするが、また皿やグラスが飛んで来る。両腕で払い落としたものの俺も床に倒れてしまう。

「もー、ダメですよー。仲良くしなきゃー。」

 立ち上がったセルコアラがポケットに手をやる。俺はテーブルの縁を掴む。ユーカリの葉が飛んで来る。力を振り絞ってテーブルを引き倒し盾がわりにする。

 俺はタイリクオオカミに向かって手を伸ばした。

「目を覚ませ!タイリクオオカミ!」

 彼女の手を握る。

「起きてくれ!オオカミ!」

 強く彼女の手を握りしめる。残された力を込めて俺は叫んだ。



「助けてくれ!タイリクオオカミ!」

 私は目を見開いた。間違いない。智也の声。誰かが手を握りしめてくる感触。この感じ、この温もりは彼だ。

「どうしたんだい?」

 思わず声の主を突き飛ばした。

 父の顔をした男はなおも笑顔を浮かべている。その顔はどこか能面のように見える。

「違う!お前は、お前達は紛い物だ!これは夢だ!セルリアンが作り出した夢なんだ!」

「だったらどうだと言うのかしら。ここでなら、大好きな人達とずっと一緒にいられる。幸せな時は繰り返し、再現される。そう永遠に。」

「確かに、何度も夢に見た。その度に思ったさ、夢なら覚めないでくれと。でも…」

(…命っていうのはそんなにちっぽけなものじゃない。繋がって受け継がれていくものだ。私達は血の繋がりはなくとも家族だ。君にもいつか好きな人が出来て子供が産まれるかもしれない。そうしたら語り継いでくれ。私達のこと。君自身のこと。そうすれば命は永遠に続いていくんだ。)

 お父さん。私、忘れないよ。二人のこと。

(…悲しいことは多いけれど楽しいことだってたくさんあるわ。あなたもこれからきっと大切な人達と出会う。私達とあなたが出会ったように。例え離れ離れになったとしても私はこの出会いに感謝しているの。だから別れを受け入れて、出会いを怖がらないで。)

 お母さん。私も出会ったよ。かけがえのない友達に。

「二人は私と共に今も生きている。いつでも会える。だからお前達は必要ない。消えろ。」

 父と母の幻は消えていった。未練がない訳じゃない。でも今はもっと大切なものが、私を必要としている人がいる。

 セルヒツジの舌打ちが聞こえた。私は振り向き奴を睨みつける。

「お前は私を本気で怒らせた。オオカミを怒らせるとどうなるか、その身で思い知れ!」

「威勢はいいけれど、貴女一人で何が出来るの?ここは私の世界よ。」

 キノコ型のセルリアンが鉤爪を振り回して迫って来る。

「独りじゃないさ。」

 私は右手の刃で鉤爪を斬り落とし、返す刀でセルリアンを貫いた。

「どうして!?貴女の力は封じた筈なのに!」

 私には分かっている。智也のサンドスターだ。サンドスターを通して、彼の想いが私に力を与えてくれている!

 伝わってくる。智也の手の感触、手の温もり。大好きだ。君も、アリツカゲラも、アミメキリンも、私のかけがえのない友達。もう奪われたくない。失くしたくない。だから…!

「セルリアン、お前は殺す!」

「ひっ!?」

 セルヒツジは背中を見せて逃げ出す。その姿が透けて消えていく。

「逃がさない!」

 私は両手を広げ、けものプラズムの刃を伸ばす。夢の世界の地平線まで伸ばした刃を縦横無尽に振り回す。手応えがあった!左右の刃で奴を挟み込む。

「神をも喰らう魔狼のアギトから逃げられると思うな!」

「グエエエッ!た、食ゔぇッ!」

 セルヒツジの身体が圧し潰され微塵と消える。

魔狼咬殺フェンリルバイト。」

 周囲の景色が瞬く間に色を失い溶けるように消えていく。白く染まる視界の中、一瞬だけ父と母の笑顔が見えた。



 目覚めた私の目に倒れ伏す智也の姿が映った。

「智也!」

 起き上がり彼を抱え起こす。

「しっかりしろ!目を覚ませ!」

「あれあれー?また起きてしまったんですかー。一体ヒツジさんは何をしているんでしょー。」

 感情の無い間延びした声。フレンズ型セルリアンが紅い眼光をこちらに向ける。

 私は立ち上がり彼を庇うように一歩踏み出す。

「甘えん坊のヒツジなら眠ったよ。永遠にな。次はお前だ。」

 飛んで来る食器を払い落とす。更に踏み出そうとして腕を掴まれた。

「待て、タイリクオオカミ。気を付けろ!」

「あなたも仲良くしましょー。」

 フレンズ型セルリアンがエプロンのポケットに手をやると、そこから黒い塊が飛び出し…

 視界が塞がれる。智也が私を抱きしめていた。彼の大きな体が私を覆い、セルリアンの攻撃を防ぐ盾になっている。

「智也!」

「葉っぱに触れるな!毒だ!」

 そうは言うが、このままじゃ君が…

 彼の襟元のマフラーが目に入る。私はマフラーを掴む。そうだ、私のサンドスターを使えば!

 胸に当てた掌から彼の鼓動が伝わる。私は意識を集中して自分の手と彼のマフラーとが一つになるようにイメージする。私のサンドスターが彼のマフラーに流れ込む。

 蒼い輝きを帯びたマフラーが黒い葉の渦を貫いた。

「ぎぇっ!」

 フレンズ型セルリアンが悲鳴をあげる。飛び交っていた葉が舞い落ちる。智也が床に膝をつく。

「行け!オオカミ!」

 私は床を蹴って跳躍する。うずくまるセルリアンの脳天にけものプラズムを纏った右手を振り下ろす。蒼く輝く刃が奴の身体を真っ二つに斬り裂いた。

「智也!大丈夫か?」

 小走りに彼に近寄る。立ち上がろうとする彼に肩を貸す。

「心配するな。前に言ったろ、俺は頑丈に出来ているんだ。」

「もう、無茶なんだから。…ありがとう。君がいなかったら私は。君は本当に頼りになる。最高の相棒パートナーだ。」

「助けられたのは俺の方だ。ありがとう、タイリクオオカミ。…惚れちゃいそうだ。ははは。」

 彼が笑う。私も笑い返す。周りで何人かの客が意識を取り戻し始める。

 安堵した途端に異変が起こった。店全体が揺れ始め、床がまるで生き物の様に蠢く。

「何だこれは?まだセルリアンがいるのか!?」

「そうじゃない、いやそうだ!くそ、嫌な予感がしたんだ。」

 食器やボトル、椅子にテーブルまでもがカタカタと音を立てて動いた。なんだか笑い声の様に聞こえる。

「俺達は既にセルリアンに。この店そのものがセルリアンなんだ!」

「なんだって!冗談だろう!?」

 彼の言葉を裏付けるように壁や天井が狭まってくる。くそ!一難去ってまた一難か!どうする?もう時間は無い。

「済まない、智也。力を貸してくれ。」

「今更あらたまることもないだろ。どうするんだ?」

「二人のサンドスターを合わせて壁を破壊する。一か八かの賭けになるけど。」

 以前出会った大型セルリアンと同等の奴だとすれば、正直厳しいが。他に手は無い。

「お安い御用だよ。」

 こともなげに彼が言う。全く、状況が分かっているのか?この男は。でも、今は心強く感じる。

「いいのかい?君も予防接種を受ける事になるぞ。」

「平気さ、オオカミさんが手を握ってくれればね。」

 彼が不敵に笑う。本当に頼もしいよ、相棒。

「よし!やるぞ、智也。私に合わせてサンドスターを…」

 その時、壁の一部が白く輝き始めた。白い輝きは強くなり広がっていく。これは…

 天井、床、私達の周りが白い輝きに包まれた。視界が白く染まる。その中に大きな黒い影。見覚えがある。あのシルエットは…、彼女だ!

 不意に足元の感覚が無くなり、身体が宙に浮く。一瞬の後、私は地面に尻餅をついていた。

「何がどうなったんだ。セルリアンは?タイリクオオカミ、君がやったのか?」

「ほう、懐かしい匂いだと思ったら、お前だったか。」

 私よりも一回り以上大きなオオカミのフレンズがこちらを見下ろしていた。

「久し振りね。ダイア師匠。」

 彼女は私に戦い方を教えてくれた師匠だ。北部環境保護区の管理官としてセルリアンを駆逐し、獣術ケモバリツの師範として私達オオカミのフレンズを鍛える、四つの保護区に存在するZOO級フレンズの一角、それが…

「このあたし、史上最大のオオカミ、ダイアウルフだ!」



 私の蹴りが空を切る。

「遅い遅い!」

 蹴りの勢いを利用して放った裏拳も躱され、逆に脇腹に重い一撃を受ける。天と地が回転する。起き上がった私の視界が一瞬のうちにダイアウルフの姿で一杯になる。私は歯を食いしばり覚悟を決める。視界が迫ってくる彼女の拳で埋まる。

 間一髪で拳が止まった。ダイアウルフが飛び退る。いや、彼女のもう片方の腕にマフラーが巻き付いている。視界の先に智也の姿が見えた。よし!私は地を蹴ってダイアウルフの身体を追う。

 だが、智也に引っ張られたかに見えたダイアウルフは空中で身体を回転させ、彼に回し蹴りを食らわせる。智也の身体が吹き飛ぶ。着地した彼女の背中に私は右拳を打ち…

 込んだ筈だったが、火花が飛び散り、私は壁に押し付けられていた。ダイアウルフの姿が見えない。この壁は何だ?足元から彼女が壁を垂直に登ってくる。…そうじゃない。壁じゃなくて、私が地面に倒れているんだ。仰向けに。

 倒れた私の顔を目掛けてダイアウルフが足を踏み下ろす。顔のすぐ横で地面を踏む音がした。

「今ので死んだぞ。タイリクオオカミ。」

 冷徹な声で彼女が告げた。

 セルリアンとの戦いの後、私と智也は強引にダイアウルフの訓練に付き合わされていた。

「はっはっは!ヌルイヌルイ、お前達そんな強さではあたしの足元にも及ばないぞ。」

 その場の岩に腰掛けて上機嫌で彼女は言う。

「大丈夫か、智也。済まないな、師匠は鍛練の事となると人の言うことを聞かないんだ。」

「心配するな、俺は頑丈に出来ているんだ。」

 青痣の出来た顔で彼が言う。

「お前は今日太郎と莉伽の息子だろう。もっとホネのある奴だと思ったが、まだまだ父親に及ばないな。」

「父さんを知っているのか。」

「知っているもなにも、あたしにとっても父親のようなものだ。あたしは今日太郎の持ってきたサンドストーンによって生まれたフレンズだからな。」

「サンドストーン?」

 何だそれは?初めて聞く。

「タイリクオオカミ、技はまだ未熟だが…」

 ダイアウルフは私の目を見つめてくる。

「どうやら、過去と向き合う覚悟は出来たようだな。せっかくだ、お前達に話してやろう。あたしとお前達の父、サンドストーンとZOO計画について。」

「…その前に師匠、両脚をきちんと閉じて。」

「ん?どうしてだ?」

 智也の方を見ると彼は目を逸らしている。顔が赤いのは打ち身のせいではない。彼の様子からダイアウルフも察したようだ。

「ああ…、いいだろう減るもんじゃないし。むしろヒトのオスは好きなんだろう、メスの…」

「師匠!」

 全く、こっちが恥ずかしくなってくる。

「恥じらいのない女は男にモテないよ。そうだろう、智也?」

「え?ああ、うん、そうだな。」

「そうなのか?それは困る!繁殖出来ないじゃないか。」

 慌てて両脚を閉じるダイアウルフ。

 気を取り直して、私達は彼女の話を聞く。

「これがサンドストーンだ。」

 ダイアウルフの掌から虹色に煌めく立方体の結晶が浮かんでくる。

「未来今日太郎が古代の遺跡から見つけたもので、望月和彦はこれをヒトの技術で複製しようとした。彼らはサンドストーンであたしをフレンズ化させ、そのレプリカであるZOOストーンによって絶滅したケモノ達を蘇らせようとしていた。これがZOO計画だ。」

 私も智也も静かに耳を傾ける。私達の知らない父の過去。

「だがオリジナルのZOOストーンと共に今日太郎は消息を絶った。セルリアンに襲われたらしいが、詳しくは分からない。それから二十年余り、和彦はZOOストーンを復元しようと研究を続けていたが…」

 ダイアウルフは私を一瞥して続ける。

「三年前にセルリアンの襲撃によって和彦は命を落とし、完成していた十二個のZOOストーンも消えた。」

 智也がそっと私の肩に触れる。私は軽く頷いてみせる。

「あたしが思うにZOO計画に関わる一連の事件は繋がっている気がする。あたし達の知らない所で何かが動いている。」

 ふと気付いた。以前読んだ父の手紙。あれは父から智也の父に宛てたものだ。書かれたのは私と出会ってからだから。

「父は今日太郎さんの行方を知っていたんじゃ…」

「母さんも父さんの事を知っているようだったな。」

 私と智也はダイアウルフに目で問いかける。

「二人についてあたしが話せるのはここまでだ。ZOO級フレンズのあたしは保護区から動けん。お前達に直接力を貸してやる事は出来ない。」

「そう…、ありがとう師匠。父の事を話してくれて。それだけでも充分よ。」

 智也の方を見ると、彼は襟元から何かを取り出している。ペンダント?虹色に光っている。まるで…

「それは、ZOOストーンの欠片か?何故お前が…、そうか今日太郎が。」

 ペンダントの光はダイアウルフのサンドストーンと共鳴しているかの様だ。

「今日太郎はお前のことを想っていたんだ。だからそれをお前に。」

「父さんが、俺を…」

 今度は私が彼の肩に触れる。

「お父さんは君を、…見捨てた訳じゃなかったんだよ。」

 彼が頷く。その瞳が微かに潤んでいた。



 私は相棒に跨りエンジンをかける。

「これからどうするんだ?」

「研究所に行ってみる。気持ちの整理をつけるいい機会だと思うから。」

「そうか。お前は以前に比べ変わったな。心にゆとりが出来たようだ。」

 ダイアウルフは智也の方を見るとニヤリと笑う。

オトコを知ったか。」

「…師匠、それはセクハラよ。」

 高笑いをするダイアウルフ。全く、このフレンズもアリツ属か。

 近付いて来た智也に彼女が話しかける。

「タイリクオオカミを頼むぞ。今日太郎の息子のお前が、和彦の娘のこいつを助けてやれ。」

「師匠…」

 彼女は智也に顔を近付けると声を低める。

「それと、今度来る時に若いオスを紹介してくれないか?」

「師匠!」

 ダイアウルフの笑い声を背に、私達は絶滅生物研究所へと向かう。

「…悪いな、智也。私の都合に付き合わせてしまって。」

「気にするな。望月のおじさんの事は俺にとっても他人事じゃないしな。」

「ありがとう。」

「どういたしまして。」

 小一時間程して、私達は再建された研究所に辿り着く。研究所の建物からは三年前の傷痕は見受けられないが、堅牢な外壁と警備のフレンズがそれを思い起こさせる。

 中庭に建てられた慰霊碑に黙祷を捧げた後、私達は応接室に通される。応対に当たったのは女性の研究員だ。見覚えがある気がする。スギタと名乗った彼女は智也を見て絶句する。

「どうかしたのかい?彼がなにか。」

「いえ、ごめんなさい。その、変な話だけど、三年前に私を助けてくれた人と、似ていると言うか…」

 私と智也は顔を見合わせる。

「その人は、未来今日太郎というんじゃ…?」

「…分からないわ。名前も告げずに行ってしまって。他にも助けられた人がいたけれど。事件の後、捜したのにその人は見つからなかった。」

 人助けをして名前も告げずに去って行くか。そういえば、あの夜の智也も…。いや、何だろう、ずっと前に、そんなことがあった、ような?助けられた、人?私はあの時、どうやって、私も?

「父さんがここに来ていたのか?タイリクオオカミ、君は…、オオカミ?どうした!大丈夫か?」

 顔を上げると、二人が心配そうにこちらを見ていた。

「大丈夫だよ。実は私もその時ここにいたんだが、よく覚えていないんだ。未だに思い出せない。」

「気分が悪いようなら少し休んだ方が…」

「そうだオオカミ、無理するな。」

「ありがとう。本当に大丈夫だよ。気を遣わせてしまったね。」

 智也の掌が私の手に触れる。

「これでも大分良くなったんだよ。今では火に怯える事もなくなったし。アリツさんや、君のおかげだ。」

 見上げると彼の優しい眼差しが私に注がれる。

「智也。」

「タイリクオオカミ。」

 私達は見つめ合った。

「あの、話を続けてもいいかしら?」

「あ、はい。」

「すいません。」

 しまった、どうしてこんな事に。ダイアウルフのせいだぞ!

「これは望月博士の遺品よ。娘の貴女が持っていた方が良いと思って。所長の許可は貰ってあるわ。」

 そう言ってスギタさんがテーブルに置いたのは、ビニール袋に包まれた大きめの手帳だ。表紙が焼け焦げている。それにメモリーチップとファイル。

「内容を復元したデータがこのチップに。こっちはそれを、一応プリントアウトしたものよ。」

 父の手帳。私はそれをそっと手に取った。

「差し出がましいようだけど、いいんですか?娘とはいえ、彼女は部外者だ。貴重な研究資料なのでは?」

「内容は簡単な日記か、覚え書きのようなものよ。研究に関する事もあるけれど、差し支えないと判断したわ。」

 智也は興味深げにファイルを見つめている。

「君も興味があるだろ。読んで構わないよ。」

「いいのか?」

 頷くと彼はファイルを手に取ってパラパラとめくり始める。

 私はスギタさんとしばし話をした。主に研究所での父に関する逸話を。

「…それじゃあ、そろそろお暇しようか。今日はありがとう。父のことが聞けて良かった。」

「こちらこそ。貴女と話せて良かったわ。」

 彼女に見送られて私達は研究所を後にする。



「そのファイルは君が持っていてくれ。」

 研究所を出たところでタイリクオオカミが俺に言う。

「君にとっても他人事じゃない、だろ?」

 いつものように悪戯っぽい笑みを浮かべる。

「そうか。なら、これは俺が預かっておくよ。」

 不意に腹の虫が鳴る。

「なんだか腹が減ったな。そういえば、結局昼飯を食い損ねたな。」

「はは、そうだった。すっかり忘れていたよ。じゃあ、早く帰ろう。途中のゲートで茶菓子ぐらい出して貰えるかも。」

 一路ポリスへ向かう道すがら、俺は彼女の背に体を預けていた。…正直に言う。凄く良い気持ちだ。

 ふと、研究所で目を通したファイルの一節が頭に浮かんだ。


 これから書く事はあくまで私の思いつきに過ぎない。

 一研究者の取り留めのない仮説を書き連ねていくだけだ。

 これまでの研究からサンドスターと人間の精神との間に……………………が明らかになった。フレンズ化の際に……の…………が……されるのはこの為である可能……非常に高い。

 サンドスターには生物の記憶や情報を…………し、それらを……し伝…する性質がある。

 これを利用すれば人類とフレンズ…………に有益だ。

 ここからは仮説ですらない、良くて研究者の直感だ。

 仮にヒトとフレンズの間に強い感情的な…………が生まれた時、……的な表現を使えば、両者が……愛………信…………た時に、物理的……合……たし、新た……命…へ…進………だろう。


 完全には復元出来なかった様で、正確な内容は分からない。分からないが、最後の部分が意味するところは。俺とタイリクオオカミが…、いや、そういうことじゃないだろう。

「…智也!」

 彼女の声が耳に入る。

「はい!?」

「…もうじきゲートに着くよ。」

「お、おう。そうか。そうだな。」

「どうしたんだい?変な奴だな。」

 タイリクオオカミの笑い声が風に乗って過ぎ去っていく。

 まあ良いか。黒い鳥居が近付いて来る。今は彼女の温もりを感じていよう。実に良い気分だ。



 あたしが史上最大のオオカミ、ダイアウルフだ!

 近頃の若い連中はなっていないな。そんな子供だましの強さではセルリアンには勝てないぞ。よし、退屈しのぎにあたしが鍛えてやろう!あたしの言う通りにすれば素手で自動車を壊せるぐらいには強くなれるぞ。はっはっは!



 次回 『Troublemaker』

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