第7話 死神、淑女と朝食

 朝日の眩しさに目が覚めた。喧騒が帝都を賑やかにさせた。

 二人は屋根を降りてオスカーを迎えに行った。分かっていたことだが、オスカーに後遺症なるものはなく、極めて健康であることが検査で証明された。


 あとは傷口に菌などが入らないようにこまめに包帯を変えることをマーガレット博士に何度も言い聞かされて、三人は病院をあとにする。母親を迎えに行くのは、詳しい検査を終えてからだと釘を刺された。


 オスカーの服は旅行鞄のなかから出して着せた。向こうに居た時に綺麗に洗濯して乾かしておいたのが、役に立ったようだ。


 彼の体調を考慮して三人はタクシーを拾うことにした。自動車に入りきらないアーネストはエヴァンの影に眠っている。エヴァンに影に入れ、と言われた時の彼はとても悲しげに鳴いて潜り込んだ。最新式の自動車に乗るのが楽しみだったらしい。今度の機会を待つしかない。


 オスカーの借りているフラットは赤煉瓦と白煉瓦の十九世紀からのあるデザインの四階建て。技術が高まったことで、火事の対処法は画期的になった。そのため、テムズ川近くでなくとも、四階建ての住居が立ち並ぶようになった。


「懐かしさで泣けそうだな」


 思ってないことを口にする。大戦から五百年経っているが、デザインを踏襲して建てられているのだろう。新品を古く見えるようにするこの国の嗜好は健在だ。そこが好ましく、懐かしい。十数年前に一度だけ大帝国には訪れてはいるが、多忙すぎて朧げだ。

 エヴァンの言葉にオスカーは首を傾げながらも銀色の鍵で玄関を開けた。


「まあ! オスカーくん!」


 扉を開けると淡い緑の壁紙の廊下とシックな階段、一階の部屋の扉が見え、玄関近くには赤毛の女性が立っていた。


 チョコレートブラウンとサンドベージュのバッスルスタイルを模したワンピースドレス。ダイアモンドリリーのように光の反射で輝いているように見える鮮やかな赤い髪はゆったりと腰まで伸ばされ、ほんの少しだけの髪の毛を蝶のバレッタで後ろに留めている。若々しい肌はとても生気に満ちており、唇は蜂蜜の甘やかな艶がある。ピーコックグリーンの瞳はとても大きい。


 オスカーの帰りに胸を撫で下ろす彼女はとても麗しく、エヴァンには本当にダイヤモンドリリーのように見えた。


「昨日は帰ってこないから心配したわ。あなたのお母さまも帰ってこなかったから。──怪我してるじゃない、どうしたの?」


 女性はオスカーに詰め寄って屈み、視線を合わせる。服から覗く包帯を細い指が撫でる。

 なんて言おうか迷っているオスカーの頭を撫でてエヴァンは前に出た。


「どちらさま?」女性が訝しげに見上げる。

「私はエヴァン・ブライアン。オスカーの親戚です。後ろにいるのは妹のシャーロット・ブライアン。今日からオスカーとともに住むことになりました」

「親戚の方……そうなの?」


 オスカーが肯定する。


「僕の親戚で、丁度ロンドンに来てて、ホテルに困ってたから連れてきたんです。ダメでしたか?」

「いいえ、そんなことはないのよ、オスカーくん」


 女性は微笑んでエヴァンとシャーロットに会釈する。似てない兄妹なのに、そのことを笑顔の奥に押し込めたようだ。


「レイチェルです、はじめまして。ここのフラットの大家のマーサさんと一緒に住んでいる者です。何かありましたら私に頼ってください」

「はじめまして」


 オスカーが右手を差し出す。漆黒の革手袋を外さないまま差し出された手を、レイチェルはにこやかに握り返した。思った以上に固い触感に、首を傾げながらも追及はしなかった。そのあとにシャーロットと握手を交わした。


「オスカーくんたちは朝ごはんはもう食べてるかしら?」

「ううん。だからお腹がペコペコだよ」

「それなら、作ってあげる! 出来上がったら持ってくるね。それからエヴァンさんたちのことは、私からマーサさんに話しておくから」

「何から何まで……ありがとうございます、レイチェル先生」


 何度も礼を言うオスカーにレイチェルは首を横に振って、頭を撫でて応えた。そして一階の部屋の奥へと、料理をしに消えていく。扉が開閉する間に猫の鳴き声が聞こえた。


「あの人が君の先生か」


 すでにオスカーの人生を大まかに把握しているので、レイチェルがどんな人物であるかを知っている。少なくとも、オスカーの視点からすれば、悪い人間ではない。


 レイチェル。苗字は明かしていないが、オスカーと近隣の子どもたちに勉学を教えている。語学に優れ、時にはピアノや刺繍を教えているほど上手で、そこから推察できるのはそれなりの裕福な家庭出身であること。過去についてはあまり話さないので、本来の家と折り合いがつかず、家出したのだろう。


 思えば、彼女の姿勢は美しかったし、発音に訛りは一切ない綺麗なものだった。いや、他にも何か、胸にくるものがあった気がしたが、出てこない。記憶を巡っても、彼女に会ったことはないはずだ。

 レイチェルを気にかけるエヴァンの隣でシャーロットが、ニヤニヤとした顔でオスカーを小突く。


「可愛い先生じゃない。周りが放っておかないでしょ?」


 下世話な話にオスカーの顔が赤く染まる。まだまだ子どもで、この手には初らしい。

 思わずエヴァンは笑ってしまう。


 からかわれたオスカーは逃げるように階段を登った。二人は初心な彼の反応に、顔を見合わせてから少年のあとを追う。

 オスカーの借りている部屋は三階にある。荷ほどきを済ませ、エヴァンとシャーロットは体を清めるために水道はどこにあるかを聞いた。


「体を洗うなら、ちゃんとしたシャワー室がありますけど?」


 何を言っているのだ、とオスカーに言われて、エヴァンとシャーロットは、現代にはシャワーがあることを思い出した。生活環境が他の国よりも遥かに進んでいるヴィクトリア大帝国は、どの世帯にもシャワー室が設置されている。懐かしいデザインのフラットでも、完備されているのだ。


 ついつい昔の習慣をしようとしてしまう癖に、口元が引きつる。

 十九世紀、朝起きたらすることは体を清めることだった。水を沸かし、タオルをそれで濡らして体を清める。それから着替えるのだ。時には経済的理由で寒い朝に冷水でする時もあった。


 今やビフレフト鉱石の恩恵と技術の進歩でシャワーが生まれて普及された。死神としては複雑なものだ。

 シャーロットから先に、あとからエヴァンがシャワーを済ませた。悔しいが、ビフレフト鉱石で温められた湯は心地よい。


 小さな浴室で汚れを落とし、義手を鏡ごしに見る。肩の根元からつけられた白金色のそれは、濡れても大丈夫なもの。頑丈で、生身の腕よりも機敏に動ける。義手でヴァイオリンを弾けるのはなかなかの技量が必要だった。生身とは違う重みと動きに悪戦苦闘した思い出が蘇る。


 シャワー室を後にし、タオルを下半身に巻いたままリビングの長椅子の前に座る。既にシャワー室から上がったシャーロットはリビングのテーブルを占領し、タイプライターで書類作成に入っている。義手の手入れを始めたエヴァンの髪にオスカーが慌ててタオルをかける。トランクを開けて漁り、工具を出した。


 球体関節人形の腕を参考に作られたそれの二の腕のネジを取り、内部を開放する。なかの綿密さに、覗き込んでいたオスカーが目を剥く。小さな歯車とネジ、動きに対応できるように伸びたコードが敷き詰められている。隙間はない。


「義手ってそうなってるんですね」すっかり敬語になってしまった。

「人間の作った義手がどうかはしらないが、これは機関で作られた道具の一つだ」

「あの時のヴァイオリンも?」

「ああ。だから構造が普通のヴァイオリンとは違う」

「そういえば、シャーロット……さんが使っているタイプライターも見ました」


 名前の部分でシャーロットが睨んだ気がした。気のせいだろうか。


「修正可能なタイプライターは出てますけど、シャーロットさんの使っているものは、修正の後が綺麗ですね」


 インクリボンが二種類搭載されたタイプライターだ。一本は黒のインクで印字することができる。もう一本は白のインクで、一文字分を覆い隠せる。修正用のレバーで箇所を指定して対応したキーボードを打てば白のインクが間違えた箇所を消してくれる。修正の後が気にならないほど自然に消せる。死神機関と人の世の共通点として、修正用のインクリボンはカーボン紙によって変えられるように、様々な色のものがある。


 ここまで打ち心地がいいのはなかなかない、とオスカーが熱弁する。半分聞き流しながら、エヴァンはネジの調節を頷きながら進めた。指、手首の自然な動きと違和感のなさを確認する。滑らかに、うっとりしてしまいそうな艶かしい動きで握ったり開いたりを繰り返す。ドアのノックにも気づかない。


「え、エヴァンさん? 何故裸なのかしら?」


 上ずった声がした。振り向けばレイチェルがトレイを手に入り口で固まっている。トレイにはパンケーキが出来立ての状態で乗せられていた。

 義手の動きに違和感がないことに満足げに頷いて立ち上がる。


「どうもありがとう」


 トレイを受け取り、エヴァンはテーブルの上にあった書類を床にどかして、置いた。窓際にいたアンネが音に驚いて天井を飛び、シャーロットの肩に止まる。アーネストは呆れた様子で窓際の日向ごっこを続けた。


 あまりの乱雑さに唖然となるレイチェルとオスカー。更に大きな犬のアーネストがいつの間にか増えていることに気づき、レイチェルの困惑の表情は濃くなる。

 シャーロットは慣れてます、と言わんばかりに平然と種類を拾い上げてこれまた適当に一箇所にまとめておいた。


「オスカー、朝食が来たようだ。食べよう」

「え、待ってください!」


 慌て出す少年を不思議そうに見下ろす。

 レイチェルも未だ入り口にいることに気づき、首を傾げた。首まで真っ赤にしており、鯉のように口の開閉を繰り返している。


「他に何か御用でも?」


 無自覚にいるエヴァンに、レイチェルはハッと我に返った。


「ふ、服を着なさい! この変態!」


 それだけ叫んで部屋を出ていく。くぐもった「信じられない!」と言う声が聞こえたが、首を傾げるばかりだ。


「変態? タオルで隠してるのに?」


 心外だ、と漏らしてもエヴァンのそれに賛同する者はいない。オスカーは気まずげに目を逸らし、シャーロットは無言でエヴァンの旅行鞄から服を漁って差し出した。


「その……流石にそのままで対応するのは、ちょっと、失礼かと思います」

「ふぅん? 公衆の面前ではないから大丈夫だと思ったんだが」


 仕方ないのか。

 不満げに着替えて、席に着く。


 レイチェルが作ったパンケーキは分厚く、お手製の柑橘のジャムとクリームチーズがトッピングされている。ふんわりとした生地はフォークを滑らかに受け入れ、口の中で心地よい食感を与えた。甘すぎる朝食だと眉を潜めていたが、想像していた甘さはなかった。ジャムの酸味が強く、クリームチーズのまろやかさが丁度いい。素材の味が砂糖という愚かな人工物に負けていない。なんと素晴らしいことか。


 美味しさのあまりに泣いたことは言うまでもなく、食後の紅茶を持ってきたレイチェルに驚かれることになる。ダージリンの紅茶の湯気は笑うように揺蕩うのだった。

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