第39話

「はあ、はあ、はあ、はあ……」


 一体何度目になるのだろう。俺はぶつかっては跳ね返され、ぶつかっては跳ね返され、を繰り返していた。右肩はまだ骨折や脱臼はしていないが、じわじわとダメージは蓄積されているだろう。

 

 それでも。

 それでも、俺には許すことができない。

 美耶が、自殺という形で両親に復讐することを。

 このビルを、彼女の墓標にすることを。

 そして、麻耶の嘆き悲しむ未来を見過ごすことを。


 すっかり理性の抜け落ちた脳みそで、とにかく目の前のドアを開けることだけを考える。


「畜生ぉぉぉぉぉぉぉ!!」


 すると、俺の願いが通じたのか、ドアはついに、俺の右肩の前に敗れ去った。ギシィッ、と音を立てて開かれる。

 かく言う俺は、何やら奇声を上げながら、雨で濡れた屋上を転がって背中を打った。その時になってだろう、ようやく美耶はこちらに振り向き、俺を視認、そして驚嘆した。言葉はない。


 俺は、掠れ声を何とか聞こえるレベルまで拡声し、美耶に呼びかけた。そして、飛び降りを止めるように語りつつ、詫びた。彼女の気持ちに気づいてあげられなかったことを。しかし、それでも美耶は『黙れ!』と連呼し、話に応じようとはしない。

 こうなったら……。それこそ心理学テキストのパクりだが、やってみるしかない。具体的な話をすることで、相手の気を逸らす。


「……れ、だま……れ……」


 ぐしゃぐしゃになった顔に手を覆い被せる美耶に対し、俺は思うことを述べ始めた。


「君や君のお姉さん――麻耶さんは、両親に捨てられたものだと思っている。そうだろう?」

「……」

「正直、俺もそれには反論できない」

「えっ」


 美耶は顔を上げ、呆気にとられた表情で俺を見た。ズタボロの俺を。

 どうやら美耶は、俺がてっきり愛や希望を語るものだと思って、ここまでやって来たのだと考えているらしい。だが、話はそんな安っぽいものでは済まない。


「麻耶から聞いた時はぞっとしたぜ。何せ、親が厳しいんじゃなくて無関心なんだもんな。『愛の反対語は憎悪ではなく無関心』なんだそうだ。君には分かるんじゃないか、美耶? この言葉の、本当に意味するところが」


 黙り込んだ美耶の前で、頭にある知識と言う名の剣を振りかざし、美耶の自殺願望を少しずつ、少しずつ削ぎ落としていく。


「だからな、死ぬなよ。もし、『死んじまったら記憶も何もなくなっちまう』なんて思って自殺を肯定したいんだったら、一度考えてみろ。麻耶、つまり君のお姉さんのことを」

「お姉……ちゃん……?」


 目を見開き、首を傾げた美耶の前で、俺は大きく頷く。


「美耶、君はお姉ちゃんっ子だ。そうだろう? 他にまともな家族なんていないんだから。その唯一の家族の悲しみに対して、君は無関心でいるつもりか?」


『それは暴力だ』と俺は続けた。


「これ以上ない暴力だ。そうやって無関心に、麻耶の心を踏みにじることは」


 十分語ったな、俺は。そう判断し、


「美耶、一歩でいい。こちらに、俺の方に一歩、踏み出してみてくれないか」


 と告げる。美耶は先ほどから俯いたままだ。


「ゆっくりでいいぞ。とりあえず、俺の方へ」


 そう言ったまさに次の瞬間、


「ふ、ふふっ、あはははははははっ!!」


 美耶が、爆笑した。腹に手を回し、上を見上げ、夜空に向かって笑う。笑って笑って笑い続ける。それはあたかも、道化師を笑うように無邪気で嫌味のない、純粋な笑いだった。そう言うにしては、あまりにも大人びている感があったけれど。


「み、美耶……?」

「あー、笑った笑った」

「一体どうしたんだ……?」

「どうしたも何も、こんなおかしなことってないじゃない」


 すると、ふっと美耶の顔から笑みが消え、真顔になった。


「私が自殺するのに致命的な妨害が入っちゃった。前部で三つ。一つは、あなたが私を止めるために、大怪我をしながらでもやってきたこと。二つ、あなたは私のことで、無関心ではいられない、つまり少なからず大切な人間だと思ってくれていること。三つ目は、これから試す」


 そう言うと、美耶はあっさり屋上の端から離れ、俺に向かって歩み出した。

 美耶の足元で、軽く水滴が跳ねる。一歩踏み出してくれと言っておきながら、しっかりとした足取りで向かってくる美耶に、俺は恐怖すら覚えた。

 そんな美耶が俺に告げたのは、書き文字にして僅か四文字。


「キスして」

「駄目だ」


 俺は、理由は分からないが即答していた。気づいたらそう答えていた。俺の視界の中の美耶に、麻耶の悪戯っぽい笑顔が被る。


「じゃあ、抱きしめて」


 特に望んでもいない、ただ俺を試すような上目遣い。それに向かって俺は、


「駄目だ」


 と再び突っぱねた。


「やっぱり、お姉ちゃんの方が大事?」

「ああ。すまない」


 もう俺に、嘘をつけるだけの余力はなかった。きっと美耶は、自分が優先されなかったことで、俺を恨むだろう。麻耶を恨むだろう。そして、飛び降りを決行するだろう。俺には何も変えられなかった――。

 その時だった。

 美耶の無表情に変化が現れた。頬が微かに赤く染まり、軽く唇を開いて息をつく。安堵だ。


「よかった……」

「えっ、一体何が、何だって?」

「だって困るもの。お姉ちゃんの思い人が、私みたいな妹にも手を出すようなだらしのない男だったら」


 美耶は手を後ろに回し、僅かに腰を折りながら、再び上目遣いで


「俊介さんはそんな人じゃないって、証明してほしかったの。合格、おめでとう」

「あ、ああ、ありが、とう……」


 美耶が自殺を思いとどまる三つの条件。それは、俺が必死で美耶を止めに来ること。美耶を大切に思っていること。そして、だからこそ、麻耶への誠意を示すこと、の三つだったのだ。


「俺にできるのは、これだけだ」


 そう言って、俺は美耶の頭に右手を載せた。


「えへへ」


 美耶の無邪気な笑みを目にした次の瞬間、俺の足元が歪んだ。


「んあ?」


 フラッ、と重力に引かれる。膝に力が入らない。視界が暗転する。


「どうなって……る……?」

「俊介さん! どうしたんですか、俊介さん!」


 美耶の悲鳴が聞こえる。それもだんだんボリュームが下がってくる。そして、何も聞こえなくなった。

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