第12話

 その日、俺は眠れぬ夜、ならぬ眠れぬ朝を過ごした。何となく、何となくではあるが、アキのことを分かってやりたいという気がして、どうにも落ち着かなかったのだ。ベッドに仰向けに横たわり、両腕を後頭部の下で組む。


 あいつは俺と同じで、人の心を汲み取るのが下手だ。咄嗟の判断で動いてしまう。それが功を奏した場面だって多々あったが(それだけショットガンが役に立ったということだが)、もっと落ち着いて、冷静に立ち回らなければ、とても救うべき相手に安心感を与えることはできない。


 そう、安心感だ。俺も月野姉妹も、もしかしたらアキも、他人に安心感を与える一方、自分のことも安心させてもらいたいと思っているのではないか。そもそも心の平安というのは、一体何なのだろうか。


「ん……」


 僅かに朝日が窓から差してくる時間になって、俺はごく久々に、デスク横の本棚に向かった。ざっと目を通す。暗いが、電灯をつける前にその本は見つかった。『人間心理学序論』という薄い、ハードカバーの本だ。

 俺が引きこもりになる前に講義で使っていた教科書で、要点のまとめが上手い、と教授が褒めていた。


 俺はパラパラとページをめくり、目次に沿って目的の箇所を探した。すっかり夜目モードになっていた俺には、この薄暗さは問題にはならない。


「えーっと、なになに……?」


 俺なりに要約すると、次のようになる。

 

 人間は社会的動物である。社会とは、他者との交流があって成り立つものである。それゆえ、他者とのコミュニケーションなくして生存することは不可能に近い。

 では、コミュニケーションから何を得ているのか。それは、自分の価値や立場である。それらは自分の中には存在せず、他人との交流の中で培われていくものである。それが、健全な精神活動の核である。


 早い話、コミュ障を治せば、あとは『他人との交流』という軌道に乗って元気に過ごせる、というわけか。

 俺は、どはあ、とため息をついた。もしこの本に書かれているのが事実なら、俺は今日中にでもくたばってしまう。まあ、ネットがあるこの時代で、若者の完全孤立化というのは珍しいかもしれないが。

 しかし、人工知能も孤独を感じるのだろうか。だとしたら、先ほどの俺との口論は、アキにとって大打撃になったかもしれない。


「あてどない人助けだよな……」


 教科書の本文を、噛み砕いて脳内で復唱する。自分の居場所は、他人の認識の元にある。だったら、アキのことは俺が認めてやるしかないのではなかろうか。他にどんなパートナーと行動しているのかは知らない。だが、涙を浮かべた、どこか哀願するような瞳を思い出してしまうと、俺にも考えさせられるものがあった。

 俺はまた大きなため息をつき、教科書をデスクの上に投げ出してから、再びベッドに横たわった。


 その日の夕刻。

 ピンポーン、とインターフォンが鳴り響く。今度の俺の覚醒は早かった。『はあい』とそれなりの声量で応じ、廊下を抜けて玄関ドアに手をかける。鍵を開ける前に、念のためにドアの向こうを覗いてみた。そこに立っていたのは、誰あろうアキだった。


「アキ? 今日は段ボールじゃないのか?」


 無言のまま、アキは上下に首を振る。昼間の現場から歩いてきた、ということだろうか。この暑いのに、ご苦労なことだ。

 それはまあいいにしても、明らかに昨日のアキとは様子が違う。姿形は間違いなくアキのデフォルト状態だが、唇をきゅっと結び、視線がきょろきょろと足元の方を彷徨っている様は、彼女には何とも不似合だ。


「ん、まあ、入れよ」


 俺は鍵を開け、チェーンを外してアキを部屋に入れてやった。


「お邪魔、します」


 軽くぺこりと頭を下げながら、アキは俺に続いてリビングへと足を踏み入れる。らしくねえな。


「まあ座れよ。ウーロン茶ならまだあるぞ」


 そう言いながら、コップを手に一旦冷蔵庫の元へと戻る俺。


「いい。大丈夫」

「大丈夫ったって、今日の最高気温、三十八度だぜ? そんな中を歩いてきて大丈夫、なんてことは……」


 と言って、二つのコップにそれぞれウーロン茶を注いだ俺は、リビングに戻ろうとして、コップを二つとも床に落としてしまった。


「アキ!」


 アキが、ぐったりとテーブルに突っ伏していた。眠いとか疲れたとか、そんなレベルではない。これは、


「熱中症じゃないのか!?」


 人工知能が熱中症、なんて馬鹿げた話だが、飽くまでアキの身体は物理的に存在している。人間に近い設計をされているかもしれないのだ。そうそう変な話でもないのかもしれない。

 って、そんなことより。


「おい、アキ! アキ!!」

「……大丈夫」

「そう見えねえから肩揺すってるんだろうが!! どうしたらいい? お前なら、熱中症の対処法とか、頭に入ってるんだろ!?」

「検索しないと出てこない……。全部記録してハードディスクの容量超えると大変だから……」

「くそっ、どうしろってんだ!?」


 このままではアキは衰弱してしまう。最悪、人間にとっての『死』みたいなものに襲われてしまうかも。


「ええい、畜生!!」


 俺はエアコンを冷房設定で全開にした後、アキの上半身を引っ張り起こし、お姫様抱っこでベッドの上に寝かせた。それから、清潔なタオルの上に冷凍庫の氷をぶちまけ、春巻き状にしてアキの額に載せた。


 全部付け焼刃、どころかなんの知識もない状態でやってしまったことだが、何もしないよりはマシだ。いや、何かしないではいられなかった。

 正しいかどうかなんて、分かりやしない。できることをやる。それだけだ。

アキが『逃げ出してきた』人工知能である以上、警察や病院の世話になるわけにはいかない。本当に今この場でできる最大限のことをやるしか、俺には手がない。


「そうだ、水!」

「飲みたくない」

「馬鹿野郎、酔っ払いと熱中症には水って決まってんだよ!!」


 我ながらわけの分からない理論を振り回す俺。とにかく、これだけアキが汗だくになっているところから察するに、水分補給は絶対に必要だ。

 俺は一旦その場を離れ、新しいコップを取り出し、水をなみなみと注いでアキの元へ。


「ゆっくり傾けるから、飲め」


 しかしアキは、ぷいっとそっぽを向いてしまう。


「おい、苦しいかもしれねえけど、このままじゃずっとおんなじ状況だ。復旧できねえぞ」

「飲みたく、ない」


 ふと、その言葉に俺は違和感を感じた。アキのことだ、本来なら、さすがにこの状況下で俺の指示を無視する、ということはないだろう。まさか――。


「お前、この期に及んで、何か意地でも張ってるんじゃねえだろうな?」


 アキは苦しげな呼吸を繰り返すだけ。


「いいか、お前死にかけてるんだぞ? それなのにどうして、どうしてそこまで意地を張るんだ? どんな意地かは知らねえけど」

「……」

「おい、せめてこっち向けよ!!」


 俺はアキの肩を掴み、無理矢理ひっくり返した。その時、ピッ、と軽い音がして、ワンピースの襟元が開いてしまった。


「う、うわ!」


 慌てて後ずさる俺。僅かな隙間から下着が見えてしまったので、慌てて目を逸らす。


「……ねえ、俊介」


 うつろな目に射抜かれ、俺はその場で立ち尽くした。


「私の身体には、自己冷却機能がある。あんたたち人間が、汗をかいて熱を逃がすのとおんなじ」


『原理は違うけどね』と続ける。

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