フジヤマ・ダイブⅡ

「『フジヤマ・ダイブ』?」


 パラパラと原稿用紙をめくっていくと、繰り返し出てくる言葉がいくつかあった。


  お凛。

  蔵。


「これ、小説ね――」


 原稿用紙の上では、お凛や蔵たち、何度も登場する人物の会話が続いている。カギカッコで囲まれた台詞が、なんとなく懐かしいなと、夜音子よねこは思った。小説の中のキャラクターの喋り口調に、聞き覚えがある気がしたのだ。


『南宿にいい店があるよ。今度、いこうじゃないか。千住の大橋を渡ってさ』

 お凜は言った。しかし、蔵は黙ったままだ。

『また、だんまりかい、蔵さん。その口下手をもうちっとどうにかしないと、静かすぎてあくびが出ちまうよ』

 やはり、蔵は喋らない。お凜は笑った。

『仕方ないねえ。蔵さんのぶんまであたいが喋ったげるよ。そうしないと、つまらないじゃないか』


 時代劇風の世界で、お凛という名の女性が、蔵という名の男性を「もっと喋りなよ」とけしかけている場面に見えた。


 千住、大橋、南宿、遊郭――と、どこかで耳にした言葉も幾度となく登場する。


 日に焼けて黄色くなった原稿用紙をぱらぱらとめくりながら、夜音子は首をかしげた。


「これ、お義父さんの字? お義父さん、歴史小説なんて書いてたのね。すごい。――あら?」


 めくっていくうちに、原稿用紙の升目を埋め尽くす字のそばに、べつの筆跡で小さな字が並んでいるのを見つけた。手書きの小説に入れられた、注意書きのようだった。


  当時の居酒屋のトレードマークは入り口の縄暖簾。うちの店と一緒だね。


 その字には、見覚えがある。夫婦で営んでいた定食屋のカレンダーに書き込まれていたのと、同じ筆跡だった。


「これ、お義母さんの字ね」


 入院中の、夫の母親のものだ。豪快で明るい気性のわりに丁寧で小さな字を書く人だと、何度も思ったことがある。


 その字は、手書きの小説との会話を楽しむように、あちこちに見えた。


  調べてきたよ。千住大橋の欄干と橋板は檜製。きっといい木の香りがしただろうね。


「――ふたり、仲良しね」


 思わず、ふきだした。


 歴史小説を綴るカクカクとした気難しい字のそばに、そっと寄り添うような細かな字。この小説の作者はおそらく義父だけれど、物語には、冒頭から原稿用紙の終わりのほうまで、義母の字が追いかけっこをするようにずっと続いていた。アドバイスを与える助っ人のようでも、熱心に声援を送るファンのようでもあった。


「お義母さんが探していた本って、これよ。間違いないわ」


 まさに、ふたりの思い出の品だ。病院に届けなくちゃ――と、目をかがやかせた。


「いい大きさのビニール袋があるかしら。あと、紙袋も――」


 包みの心配をはじめた夜音子とはうらはらに、直人は動こうとしなくなった。


 「貸して」と紙束を自分の手にとると、パラパラとめくって、「やっぱり」といった。


「この『お凛』は、母さんだ」


「お義母さん?」


「ああ、母さんは看板娘――とはいわないか、あの年で――店の名物だったから、常連さんから『お凜の姉御』って呼ばれてたんだ」


「お凜の姉御?」


「ハキハキよく喋って、姉御肌だったから。父さんが歴史好きで、むかし、常連客を相手に『この人は気位の高い花魁みたいな人だからな、名前はお凜様かな、お凛の姉御だ』って話したらウケて、そのまま広まっちゃって、一時はみんな『お凜さん』って呼んでたって」


「――そういえば、お義母さんの名前は『りん子』ね」


「父さんも、あだ名は『くらさん』だったしな。――つまり、この小説の登場人物は、お凛と、蔵。つまり、母さんと父さんだ。ふたりで、空想の世界で遊んでたんだ」


 直人が「あまり見たくないものを見つけてしまった」と、ため息をつくので、夜音子は笑った。


「どうしてよ。ふたり、幸せそうじゃない」


「ああ、喧嘩されてるよりずっといいよ。でも、なんていうかな、両親の交換日記を見つけた気分というか――まあ、息子としては、恥ずかしいよ」


「あっ、そういえば」


 夜音子が、夫の手元を覗きこんだ。


「この小説のラストシーンはどうなってるのかな。最後の原稿は?」


「――どうだろうね」


 直人の手が、原稿用紙をめくっていく。見たいような、見たくないような――というゆっくりとした手つきだった。


 最後に残った一枚――ほかと比べると日焼けによる黄ばみが薄い、一番下にあった原稿用紙は、半分くらいの行が埋まったところで終わっていた。


 夜音子は目をまるくした。自分の名前があった。


 直の祝言の相手は、おヨネ。

 両国の水茶屋ではたらく看板娘だ。

 吉太きちたがつれてきた器量よしの娘だ。

「       


 最後に書かれていたのは“「”。セリフを書く時につかう記号、カギカッコだ。


「これからセリフを書き入れていくところ――書き途中っていう感じね」


「飽きたんだろう」


「おれまで登場させられてるとはね」と呆れつつ、直人はいくらかほっとしたふうに笑った。


「空想の世界だったはずが、現実が混じりすぎて、遊ぶに遊べなくなったのかな?」


 考えるまでもなかった。「直」は直人から一字をとった人物だから、夫の直人のことだ。「おヨネ」は、おそらくその妻となった夜音子――自分のことだ。なら――。


吉太きちたは――ああ、吉太郎さんか」


 夜音子が、夫になる直人と出会ったきっかけになったのは、その人だった。直人のいとこで、勤め先の先輩だったのだ。


「たしかに『吉太がつれてきた』ね。『器量よし』って、美人っていう意味よね。うまいこと書いてもらってるわ」


 苦笑したついでに、頬がゆがむような、ふしぎな気分を味わった。


「――ほっぺたが驚いてる。ひさしぶりに笑ったからね、きっと」


 ずっと、行方不明になった息子のことで気が気ではなかった。笑ったのは、息子がいなくなってから、はじめてだった。


「さ、いい休憩になったね。元気が出たし、また慧探しに頑張らなくちゃ」


 見つけた原稿用紙を丁寧に包んで、戸締まりを確認して、ふたたび玄関へ。


 住む人がいなくなってしまった家は、数日前にきたときよりもずっと老け込んだ気がした。暮らしている人の息遣いがないと、空間はぐんぐんと古びていくのだ。


 靴箱の上には、義母手作りのドライフラワーや、土産物の飾り、フレームに飾られた写真が、行儀よく並んでいる。


 さび付いていく空気を励まそうと懸命にエールをおくるようで、古い靴箱の上に力強く居座った飾りたちが、やたらといとおしかった。


 飾られていた写真に、ふと目がとまる。少年が玄関先の前庭に座り込んでいるところだ。


 カメラに目線を向けることなく、風景にうまくなじんでいるので、うっかりすると売り物のポストカードのようにも見えたけれど、写っているのは、夫の直人。


「あの子にそっくり。慧はあなたに似てきたね」


 写っているのは横顔だけだったけれど、いなくなった息子と、子どもの頃の夫は、よく似ていた。


「建て替える前の家だ」


 直人も、写真を覗きこんだ。


「むかしは玄関前に庭があったんだよ。建て替えたときに潰して部屋にしたんだけど――これ、なんのときだっけな」


 いいながら、悔しがって笑った。


「飾ってるくらいだから、母さんにきけばわかるだろうけど、いまはなあ――もうわからないのか。――思い出せない思い出なんか、なくなったも同然だな」


「なくなってはないわよ。お義母さんの頭の中のどこかには、きっと残ってるよ。――大切な『本』を届けにいきましょう。届けたら、もしかしたら――」


 夫の背中を押して、夜音子は「出ましょう」と直人を家の外へと押し出した。古びていく気配に、夫までが毒されていく気がした。

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