第17話 君の中心で甘き恋を叫びたい

「どうして黙ってるの?」

「その、先輩は……?」

「先輩? 丁重にお断りしたよ」


 その言葉を聞いてほっとした。もしその先輩がこの屋上にいたらどうしようと思っていたからとても助かった。修羅場になんて絶対に立ち会いたくない。

 夕日でより濃く紅色に染まった津布楽さんはくすっと笑った。


「だって好きじゃないもん。好きじゃない人となんか付き合える? もちろんお金で惹かれるって人はいるけどそんな低俗な理由で私は人を好きにならない。これから好きになるっていう努力も私にはできない。だから断った」


 彼女はフェンスから手を離すとこちらに歩み寄ってきた。おれはその魅力的な足運びと女性らしいシルエットにただただ見とれた。なぜ女性はこんなにも造形が美しいのだろう。同じ生き物なのに神様は理不尽だ。

 互いの手を伸ばせば届く距離に彼女は立ち止まった。


「船倉くん。世の中ってたくさんの作品で溢れてるよね」

「そうだな」

「漫画、映画、音楽、図画、小説、詩。出力方法は違えど、創作物という共通点はみんな同じ。そんな創作物たちの間で必ずと断言できてしまうくらい共通していることがあるの。何だと思う?」

「……何だろう」

「タイトルだよ。どんな作品にも名前がつけられてる。創作物にとって名前はとっても大事な要素なの。中身と関係ないって思われるかもしれないけど、その中身を読んでもらうために重要な仕事を担っているのがタイトル」

「なるほど。確かに良いタイトルだとそれだけでも惹かれるからな」

「うん。それでね、そろそろ私たちのラブコメにもタイトルが必要かなって思って。一度もタイトルに関して船倉くんと話し合ってなかったよね」


 そういえば触れたことすらなかった。登場人物の設定、舞台、物語の流れ等はずっと練っていたがタイトルに関しては話に上がってこなかった。


「前からずっと考えてた。この作品に相応しいタイトルは何だろうって。船倉くんは何か考えてた?」

「悪い。何も考えてなかった」

「いいの、気にしないで。私はお願いしてないから――」


 すると津布楽さんは急接近してきた。少し背を曲げれば頭がぶつかり合ってしまうほどの近さにたじろぎ、一歩足を引いた。けれど彼女の上目遣いに意識が吸い込まれて逃げ出すことはできなかった。未知の重力が発生しているとしか思えない。彼女の瞳に、自分の全てが奪われるような気がした。


「君の中心で甘き恋を叫びたい」


 彼女はそう言うとおれの袖をつまんだ。


「ヒロインは昔からずっと主人公のことが好きだった。でも主人公はヒロインのことを幼馴染みとしか思っていない。それ以上でも以下でもないの。こんなにも好きなのに振り向いてもくれない。気持ちにも気付いてくれない。君のいない人生なんてありえない、内臓ごとぐちゃぐちゃに混じり合って、君と私の境界線を消して一緒になりたい。でもヒロイン――須々木もみじはそれを伝えることができない。この甘い恋を受け止めてくれるはずの主人公――板垣千春はこちらを向いていない」


 強く、しがみつくようにおれのワイシャツを掴み続ける。架空の物語をただ述べているとは思えないほど彼女の顔に切なさ、儚さ、憂い、そして恋い焦がれる気持ちが紡がれる言葉に沿って次々と表れた。

 数週間前の彼女とはまるで違っていた。こんなにも顔を赤らめる人だっただろうか。こんなにも――可愛かっただろうか。


「誰よりも君に近い、君の中心で。ただの恋ではなく、じっくり熟成された甘い恋。届かないかもしれない、伝わらないかもしれない。だから私は喉が裂けるくらい君に叫びたい。そんなヒロインの気持ちを表現したタイトルが『君の中心で甘き恋を叫びたい』。……どう思う?」

「……すごくいいと思う。ヒロインの真っ直ぐな想いが伝わってくるし、話の内容とも一致してる。ヒロインが頑張っている姿を見ればきっとこのタイトルが鮮明に脳裏を駆けめぐるだろうな」

「良かったぁ。じゃあタイトルはこれで決まり! 略称は何にしようかなぁ。やっぱり『あまさけ』かなぁ。語呂が良いし」

「甘酒みたいだな」

「確かに~! 覚えやすいしこれにしよ! まだWebにも載せてない上に一コマも描いてないけどねー」


 屈託のない笑顔に戻る。

 とても愛想が良くて、ちょっと大胆で、運動もできて、BLが大好きな可憐な女の子。これが普段の津布楽さんだ。そんな誰もが羨む女子高生と放課後の屋上に二人っきりでいるおれは何なのだろうと解らなくなる。放課後を一緒に過ごして、家までお邪魔させてもらって、おれは一体彼女にとって何者なんだ。

 しかし答えは彼女しか知らない。

 そろそろお互いのことをハッキリさせる時だ。この場はそのために演出されているはずなのだから。


「おれは津布楽さんにとって何者なんだ」


 真剣な問いだった。彼女にとっておれは何なのか。この奇妙な関係性の真意に迫るストレートな質問で裏は一切ない。

 ご機嫌良くニコニコとしていた彼女は静かに目を伏せた。そして少し間を置いてから再び目を開けた。


「船倉静真は、私の好きな人」


 心臓を打ち抜かれたような衝撃が全身を走る。


「入学してすぐ君に一目惚れした。いつも落ち着いてて性格も良くて、ちょっとした仕草も私は好き。私を見る目も声も好き。いつもどうやって話しかけようって考えてた。でも私たちに接点はなかったし、きっかけもなかった。夏休み前にはせめてお友だちになりたかったなぁ。船倉くんと一緒に夏を過ごしたかったから……。叶わなかったけどね」


 絶句するしかなかった。この半年間、津布楽さんがそんなことを考えていたなんて信じられなかった。彼女とは世間話をする仲でも席が隣だったこともなかった。夏休み前に彼女と話した記憶すら曖昧だ。


「私は船倉くんにとって何者?」


 今度はおれが答える番。

 彼女の瞳が一心に答えを求めていた。振り返ればその潤った瞳を過去に何度か見ていた。お仕置きという名目で行ったゲーセン、自分を好きになれるかと訊いてきた放課後、と彼女は事あるごとにその目をした。

 あぁ……。そういう意味だったのか、そんなことを考えていたのか。あまりにも気付くのが遅すぎた。恋を知らないのはおれの方だった。


「津布楽紅羽は、おれの好きな人だ」





 手は第二の脳と呼ばれるほど非常に優れた器官らしい。

 確かにそうだ。手以外でこれほどまで自由自在に複雑な動きをできる器官はない。動きだけでなく感覚だってとても研ぎ澄まされている。

 さらに第二の脳という異名が伊達じゃないことは津布楽さんが得意とする分野でも表れている。架空の世界を想像するとき、人はその世界を飛躍させるために手で描こうとする。思考を飛躍させる手段として『手で考える』のだ。

 そんな有能な手で恋人繋ぎをしたら人はどうなるのか。

 無論、激しい動揺に襲われる。大袈裟な表現になるが、これはお互いの脳を絡め合っているようなものだろう。まさに、それこそ津布楽さんが言っていた「内臓ごとぐちゃぐちゃに混じり合って」に近い状態だと思う。

 恋人繋ぎって恐ろしい。だが他人事ではなく、現におれは津布楽さんと世界の終わりを見届ける男女のように校舎の屋上で恋人繋ぎをしていた。


「私のこと好きだったんだね。もっと早く知りたかったなぁー」


 おれたちはフェンス越しにグラウンドを眺めていた。おれは左手で、彼女は右手で指を交差し合ってただ時間の流れを感じていた。自然とこうなっていた。おれでも何が起こっているのか未だに把握できていない。

 

「私のどこが好き?」

「……」

「ねぇ答えてよー。いいじゃん、もう好き同士なんだしぃー」

「……全部」

「や、やばぁい……」


 彼女の手からも感情が流れ込んでくる。やはり手は第二の脳だ。

 どこかで仕入れた情報を思い出して冷静さに努めていたがもう決壊寸前だった。

 

「おれたちこれからどうするんだ」

「えっ、どっ、どうするってもしかして私とこの後ナニかしたいってこと!?」

「違うわ!! 今後の関係だ!」

「もぅ、そういうことね……。ドキドキしちゃったじゃん……」


 彼女は揉むように手を握った。もうそれだけでも声が漏れてしまいそうで大変だった。とても柔らかい手でお構いなしににぎにぎされたら誰だってこうなる。いや、そう思いたい。おれが恋愛初心者だなんて彼女に思われたくない。事実だけど。


「改めて付き合うなんてことしなくてもいいよね。だって両思いなんだもん。わざわざ言葉で契約する必要ないと思う。安っぽいし。でも浮気なんてしたら監禁しちゃうよ?」

「しないしない」

「それに変な噂が立ったら面倒だから隠れて愛し合ってるってことにしよう!」

「愛し合うって……、何かとんでもない表現だな」

「だって事実だもーん。本当に内臓ごと混じり合いたいくらい船倉くんが好きなんだもーん」


 浮気はしないだろう。おれだって津布楽さんが誰よりも好きだから。 

 

「学校生活はいつも通りに過ごそうね。だから放課後も一緒に集まってラブコメ作り。これは変わらないから。男の子の意見は本当に貴重なんです」

「解った」

「本当に解ってる? 船倉くんって喋ったとしてもすぐ口閉じちゃうから不安だなぁ。私のこと本当に好きなんだよね?」

「好きだって。津布楽さん以外誰も見えてないよ」

「やば、癖になっちゃうかも……。毎晩電話しちゃうかも……」

「メンヘラっていうやつですか」

「そうだ! 早速ラブコメ作りに協力してほしいことがあるんだけどいい!?」

「いいけど……」


 彼女はおれのワイシャツをすがるように掴んだ。


「『あまさけ』の物語後半で入れたい描写があるの。もみじが千春に好きって伝えるシーン。こんな感じに掴んでおでこを胸に当ててね、思いっきり叫ぶ。だいすきーって」

「な、なるほど……」

「タイトル通り千春の中心で叫ぶようなイメージだね。ずっと叫びたかった恋をやっと伝えられる重要なシーンだからどうしてもやってみたかったの。実際にやってみて解ることって多いからさ」

「おれは何をすればいい」

「腰に手を回して。そっと自分に押し寄せればいいから」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。難易度が高すぎないか? 流石に心の準備に十年くらいかかりそ――」


 突然屋上のドアが大きな音を立てて開いた。咄嗟にそちらを向く。教師が来たと思って焦ったが、現れたのはうつ伏せに倒れ込む喜太郞だった。


「だから押すなって言っただろうが小蔦かのぉおおおん!!」

「ごめんて。だってあんたの身体デカいんだもん。邪魔だし」


 喜太郞は小蔦さんに激怒しているようだった。ずっとおれたちは盗み聞きされてたらしい。きっと先輩も控えているだろうな。

 津布楽さんはむぅっと膨れて彼らに指をさした。


「ちょっと松本くん! こんな展開は聞いてないよ!」

「わ、悪い。だが全てはこの白ギャルビッチのせいだ」

「かのんは清楚!」

「人の大事な部分蹴り上げるやつのどこが清楚なんだよ!!」


 喜太郞は頑張って弁解しようとしていた。いつも自信満々に校内を闊歩しているから彼のオロオロとあわてる姿は珍しい。割と申し訳なく思っているようだ。だが小蔦さんに首を掴まれ、強引に校舎に引き戻された。無事を祈っている。

 屋上は再び静まりかえった。津布楽さんは先程の一幕について特に触れず、視線をおれに戻した。

 彼女の細い指がおれの胸板をそっと圧する。息づかいが鮮明に聞こえ、徐々に呼吸のリズムが求め合うように近づいていく。


「どくどくいってる……」

「そりゃ生きてるからな」

「ふふ。同じこと私の家でも言ったよね」

「言ったかもな」


 津布楽さんは匂いを擦り付ける猫みたいに頬を当てた。激しく鳴る鼓動を聞かれている。それが数秒続き、そして彼女は額をおれの胸に押し当てた。

 おれはそっと彼女の腰に手を回した。とても細くて滑らかな曲面だった。

 そうして彼女は声高々に甘い恋を叫んだ。世界の隅々まで響き渡る温かい叫びだった。





 校舎内に戻ると椿先輩が壁にもたれかかっていた。


「あら奇遇ねぇ」

「本当に奇遇ですね」


 先輩は腰に手を当て、おれたちを非常にいやらしい目で見た。


「ちょぉっとー、あなたたち屋上で何してたのよぉー。屋上は立ち入り禁止なのよー。お姉さんに教えなさいよー」

「先輩、ありがとうございました」

「可愛くないわねぇ。ほら、さっさと帰りなさいな。鍵を閉めるわ」

「解りました」


 先輩はしっしっと手で追い払い、おれたちが階段を下るまで上から俯瞰していた。白い歯を覗かせるその妖艶な笑みはBL本を読んでいるときと同じだった。変態で意地悪だけど、後輩思いの良い先輩だと思った。


 教室にはほとんど人が残っていなかった。しかしおれの椅子には喜太郞が足と腕を組んで堂々座っていた。ちなみに津布楽さんの席には小蔦さんが座っている。彼女も喜太郞と同様、足と手を組んでニヤニヤしていた。


「喜太郞、おれの席だぞ」

「おっ。おうおう悪かった。どこ行ってたんだ?」

「……まだ何か続いてるのか?」

「何のことだ? オラわっかんねぇぞ。あっ、帰る時間だ。じゃあな静真」


 喜太郞は自分の腹を叩いて笑いながら教室を出て行った。小蔦さんも津布楽さんをからかっているようで、話が終わると両親指を立てウインクを残して教室から去った。全ては目論み通りだったわけか。だが悔しさはこみ上げてこなかった。

 津布楽さんは今になって恥ずかしさがこみ上げてきたらしく、ずっと俯きがちだ。きゅっと唇を閉じ、桃のように頬をほんのり染めて静かに隣を歩いている。

 昇降口から出て校門へと歩いているとやっと彼女が口を開いた。


「今日はありがとうね。嬉しかった」

「こっちこそ」


 おれも照れ隠しで忙しかったから気の利いたことは言えなかった。それでも彼女にとっては満足だったらしく、じゃれ合うように肩をぶつけてきた。


「あーそうだぁ。船倉くん、腰じゃなくて私のお尻に近かったよ?」

「えっ!? 悪い……」

「もー、変な声出ちゃうところだったんだから。よく教室であざとく咳き込む女子みたいに。あれ絶対可愛く意識してるよねー」

「例えがリアルで怖えな」

「もっと女の子の身体勉強してよねー」

「難しい注文だ」

 

 帰るのがこれほどまで惜しいと感じたのは今日が初めてだった。

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