孔雀石の鱗粉

第1話

「…ですからね、じいさま。何も私は酒が嫌なわけではないんですよ。急に連れ出すのをやめてくれって言ってるんです。私にだって予定ってもんがあるんですからね」


奈落は同席者が席を立った隙に、隣の老人に文句を言った。手元のグラスには泡の抜けたビールがまだ半分ほど残っている。


老人ー極楽院恭助はニヤニヤと笑いながら答えた。


「何が予定だ。店は閑古鳥じゃねえか」


「それを言わないで下さいよ。私だって女なんですから、準備とかあるでしょう」


「ほお、儂のお古を着て化粧でもするのか」


「しませんけど…」


「ほれみろ」


勝ち誇った顔で恭助は電気ブランを口にした。この先代はハイカラなものが大好きで、酒が強い。よくまぁ30度もある酒を飲めるものだと奈落は祖父を眺めた。


人に合わせると言われて連れてこられたのは巷で話題になっているカフェーだった。ここで提供される有名なものは珈琲だが、洋食や酒も供される。祖父の隣には着物に白いエプロンをした女給がニコニコして座り、腰に手を回そうとする祖父の手をピシャリと叩いていた。


「イテテ…サービスが悪いのう」


「じいさま、そういうのは特殊喫茶でやって下さい」


「だったら芸妓と遊ぶほうがええわい…イテッ」


恭助はまた女給に叩かれた。今のは仕方がない。


「しかし、今日は闇医者ですか…珍しいですね、いつもは地方の議員さんとかお偉い方を連れてくるのに」


恭助の人脈たるや凄まじく、奈落がひっくり返っても関わらないような人間を平気で連れて来て奈落に引きあわせる。後継者の務めと思い、奈落はいつも笑顔を顔に貼り付けて対応するのだが、今日の相手は普段と毛色の違う若い医者だった。


「たまにゃ肩肘張らない相手と一緒の方が良かろう。それに儂も若い娘を侍らせて流行りのカフェーに来たかったんでな」


「娘…あの方、女性だったんですか」


「お前がいうか、それを」


「一人称が僕だったから、てっきり男性かと」


「お前は人を見てるようで見てないのう…」


恭助は電気ブランを飲み干すと、空いたグラスとチップを女給に手渡した。女給はニコッと笑って恭助にウインクすると、グラスを持って奥へ戻っていった。


同時に、件の女闇医者が席に戻ってくる。


「いやぁ、失礼しました。どうも慣れないものを食べたせいか、腹を下してしまいまして」


…本当に女なんだろうか。仮にも食事を供する場で厠事情まで明け透けに話す同性を、奈落は見たことがない。


「いやいや、こちらも無理にお連れしてすみませんでした、常盤さん」


恭助が常盤と呼んだ闇医者は、椅子に座り直した。眼鏡の奥に深い隈を刻んでいるのは仕事柄か。年の頃は奈落と同じか、少し上。頬のそばかすをみると、化粧などは特にしていないようだ。


「こんな垢抜けた場所には初めて来ましたよ。流石、極楽堂さんだ」


祖父の知り合いは、恭助を屋号で呼ぶ。それは一線を退いた今もなお、極楽堂は恭助が築き上げたものである事を奈落に知らしめる。この老人はただの好色爺ではなく、偉大な先代であるのだ。奈落は無言でぬるくなったビールを飲み干した。


「いやぁ、うちの孫もおんなじでしてね。女だてらに薬屋の主人をしておりますが、ほっといたら家で1人で燗を…」


「え?」


常磐は驚いた顔をして、奈落を見つめた。奈落はなんとも居心地の悪いその視線に、露骨に顔をしかめる。


「女性だったんですか。男物の羽織だったので、てっきり男性かと」


しばし、気まずい空気が3人を囲んだ。空気を破ったのは恭助の笑い声だった。


奈落は、こいつにだけは言われたくない…と思いながら、苦虫を噛み潰したような顔でビールのグラスを女給に渡した。女給にウインクをされて、奈落は危うくグラスを持つ手を滑らせるところだった。


全く、今日はなんて日だ。

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