9.思い出の香り

誰もいない教室というものは見慣れた場所であっても落ち着かない。

それもそのはず、新しいクラスになってからまだ一週間余り。


学校の三階から見える景色と、一階から見える景色は大きく色を異にしている。

去年までは街の全景が見えたけれど、いま見えるものはせいぜい掠れた校庭だけだ。


イメージを膨らませるきっかけとして窓の外を眺めることがワタシの日課だった。

高いところから見下ろすと全てを見通した気分になる。

実際はそんなことないのだろうけど、単純な自分にとってそんな思い込みは大事な原動力だ。


反対に、一階の、校庭と地続きの窓からの景色はすべて等身大でワタシの筆づかいでは到底描ききれない、恐怖心のようなものが生まれてしまう。


見たままを描くのは苦手だ。



「腕がなまっちゃうし何か描かなきゃなあ……」


外では野球部の部員たちが列をなしてランニングをしていた。

中学時代に部活動の関係でウグイス嬢なるものを任されたおかげで野球に対する思い入れは人並みの女の子よりはあると自負しているが、プレーヤーに対しては何とも言えない嫌悪感を抱いていた。


なんだかうるさそうだし、砂だらけのユニフォームは見ているこっちも汚れそうだし、グラウンドでは真面目だけど一歩外に出たらやんちゃな人が多いし、なによりもあの身体の大きさは『同い歳の男の子』と形容するにはいかんせん言葉が貧弱すぎる。



そこでワタシはためしに、その野球部員と相対する文化系男子を想像してみた。

数年前に見たアニメに出てきたのは、読書が好きで頭のいい男の子だったっけ。


身体は細くて、でも私よりかはしっかりした体型で、少し長めの前髪に、ベタな黒縁メガネ。


目の前にある白紙にそんなイメージをもとにしながらサラサラとラフを描く。

お、割とカタチになってるか?



 集中していた矢先、教室後方のドアが控えめな音を立てて開いた。


今年のクラスはワタシのほかにも早くに登校する子がいるのかと、ちょっと複雑な心境のなかで、横目に誰が教室に入ってきたのか確かめた。



あの子は、たしか……。



名前を思い出すのに少しだけ時間を要したが向こうはワタシに対して興味はない様で、ロッカーに荷物を入れてすぐ席についていた。


今年初めて同じクラスになった子だっけ。

あの子も割と重度の文化系女子だったよね。


そんなことを考えながら、目の前の紙に貼り付いた男の子に手を加えていく。



「……さん。……さん」



はっとして後ろを振り返ると、重度の文化系女子ちゃんがワタシのことをしっかりと見据えていた。


おいおい、結構グイグイくるタイプじゃない。

まさか二人っきりのこの場面で声をかけてくるとは。


「えっと……鏑木かぶらきさん……だっけ?」


「なに描いているの?」


「えっ!こ、これ?」



突然、予想外の質問を投げかけられ自分でもわかるくらい

上ずった声を出してしまった。


鏑木さんと話すのはこれが初めてなのに、いきなり間合いを詰められて

しどろもどろに答える。


心臓がこれまで感じたことのないほど大きく暴れている。

鏑木さんがこちらに近づいてくる足音が、ワタシの心をわしづかみにする。

このままでは確実に握りつぶされるだろう。


どうしよう、この絵は隠すべきか、と悩んでももう遅い。

しっかりとワタシの真横に立ち止った重度の文化系女子ちゃん

もとい鏑木さんが机上のイラストを覗き込んだ。


「これ、あなたが描いたの?」


「う、うん。ちょっと部活用にね……」


自分の意思が脳にたどり着かない。

無意識のようにそれっぽい言葉を取り繕っているのがわかる。



 これまでの人生で自分から接近して無理やり友達になったケースは多々あるけれど、ほぼ他人と言っても差し支えない人に声をかけられるのがこれほど緊張することだとは思わなかった。


しかもこの鏑木さんとかいう人はいわゆるお嬢様タイプの人間だ。

そうでなければ『あなた』なんて二人称はそうそう使わない。



「とても上手ね。イラストレーターみたい」



ありがちな褒め言葉を受けて、自然なモーションで鏑木さんの表情を窺った。

特に人を見下すような表情ではない。

本心なのか形式的なのかはわからないが、人を褒めるときの典型的な優しい笑みだった。


「あっ、ありがとう……」


どうやら悪い人ではないみたいだ。

褒めることができる人間に悪い人はいない。

昔から根付いているワタシの考えだ。


「なかなかいい人物像をしているけれど、モデルはいるの?」


「モデル……。考えたこともなかったなあ」


「そうなの?私と同じ部活の須藤くんに似ているわ」


メガネは掛けてないけれど、と付け足した鏑木さんの言葉にワタシは食いついてしまった。


「要くんのこと?鏑木さんって要くんと知り合いなの?」


「同じ文芸部ってだけよ。あなたの方こそ、下の名前で呼んでるくらいなんだから

深い付き合いがあるんじゃないの?」


「ワタシと要くんは出身中学が同じで……うん、それだけかな」


「私はてっきり意図して須藤くんをモデルにしてるのかと思ったわ」


いやいやそんなことないって、と大げさに否定したが

内心その気はなかったと言えばうそになる。





きっと心の奥底では、ワタシは要くんのことが好きなのだろう。

これが恋愛感情なのか、はたまた一緒にいて居心地のよさそうな人だからなのか、

本質は自分でもわからない。



それでも描いたものが自然と彼に似てしまうのなら

きっと要くんを手中におさめたいという欲望がそうさせているのだ。


白紙の上でなら、ワタシのさじ加減でどうにでもなる。

白紙の上でしか、要くんに触れられない。



 おそらく中学生の時の自分は、いまごろ要くんに好意を抱くなんて

つゆほども思っていないだろう。

なにせあの頃は友達欲しさに道行く人全員になりふり構わず

声をかけていたのだから。



あのころの、そしていまのワタシは要くんになにを見出したか。

それはきっと単純で、でもいくつもの解釈があるものだろう。



以前、要くんから直接聞いたことがある。

『好きなアーティストの書いた歌詞を読むとすべてを見透かされたような気分になる』と。


その時にワタシは確信した。

要くんも表現を愛する人物なのだと。

彼も自分と同じ世界にいるのだと。



ワタシの絵を、表現を、要くんに理解してもらいたい。

感じてもらいたい。



「あまり軽々しく言うことではないと思うけど、須藤くんに対してそれなりの感情を抱いてるんじゃない?」


「ちょ、ええっ!?」


鏑木さんの爆弾発言に思わず飛び上がってしまった。

軽々しく言うことではないことを軽々しく言うなんて只者じゃない。

この子はいわゆる危険な子だ。


「いやいや、そんな好き嫌いなんて感情は持ってないですけど!モデルにしたわけでもないし、ただ偶然似ちゃっただけであって!実際、こういうひとって学校でもたくさんいるじゃん!」


なんで動揺してるんだと心で悔やんでも、口から出る言葉は揺れに揺れ動いていた。

これじゃあ図星ですと言っているようなものだ。

ワタシはなんてわかりやすい人間なんだろう。



「自分では意識してなくても、ずっと絵を描いてきたその指は素直みたいね」


恥ずかしくなって言葉に詰まる。

その様子を気にすることなく鏑木さんは言葉をつづけた。

表情は微笑んだままだった。



「私も恋愛小説はたくさん読んできたけど、あいにく現実ではそういう場面に出くわした経験がないのよね。世間だと恋情を抱くことは青春だなんだと騒ぎ立ててるけど、その感情を目に見える形で示す子はそうそういない。恥ずかしいのか知らないけれど、私としてはその先が見てみたい。誰かを好きになった人はどんな行動をするのか、材料にしたい」


「材料……?どういうこと?」



「京華さんが絵を描くように、私は小説を書くのが好きなの。自分の世界を文字に換えることがどれだけ素敵なことか、きっとあなたにはわかるはず。私の世界を構築する要素は、他の誰かの行動を反映した価値観によるものに他ならない。人よりも文章に惹かれた私にとって恋愛事情はその最たる例よ。人を好きになれない私に、人を好きになることがどういうことか教えてほしい」



いつのまにか『京華さん』と名前で呼ばれて驚いたが、要約すると彼女もまたワタシと同じ世界にいるということだろう。


絵で表現するワタシと、文章で表現する鏑木さん。

表現を愛する者がワタシと要くんのほかにも身近にいたのだ。



「……っていうことは、ワタシが鏑木さんの書く小説のモデルになるってこと……?」


「話が早くて助かるわ」


「ちょっと待ってよ!なんで今日知り合ったばかりの人のモデルにならなきゃいけないの!?」


つい語気が強くなってしまう。

ただそれも仕方がないと言ってもいいほど、ワタシにとって支離滅裂な内容なのだ。


「なんでって、京華さんは私と同じ香りがするからよ」


鏑木さんが背後からワタシの肩に手を伸ばし、耳元でそうささやいた。

艶やかな髪から香るほんのりと甘い妖艶な芳香が鼻をくすぐる。


この色っぽさは本物だ。

ワタシはとんでもない相手にロックオンされたみたいだ。

ここで拒否しては最悪このまま生き血を吸われてしまうかもしれない。

せめて話だけは聞いておかなければ。



「モ、モデルって言ったってなにをすればいいの?」


「何も意識することはないわ。自然体で京華さんのやりたいように要くんに接してもらいたいの」


「でも要くんって女子人気高そうだし、たぶん鏑木さんが思うような都合良い展開はないと思うけど」


「それならちゃんと対策は練ってあるの」


少しの間をおいて鏑木さんが続けた。



「私が須藤くんの彼女のふりをしてあげるわ」

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