第35話・潜るヤツらと浮かれるヤツら

 経営研究所研究二課の朝は早い。

 というか、朝も夜もない。大体、どの時間帯においても研究オタクが眠い目を擦りつつ、あるいはそれすらも取り過ぎたハイな状態で蠢いているからだ。


 「~♪」


 だがそれでも、一部で「二課の梟雄」との異名をとる佐方同徳が鼻歌交じりでコーヒーを煎れているところ、などというのは入社して三年以内の研究員に馴染みがあるものではなく、たまたま側を通りがかった若手がビクッと飛び退き怖々と回れ右をするくらいには、非日常的な光景なのだった。


 「……皆が怯えますからやめてもらえませんか?」


 そしてそんな忌み事を鎮める役割は責任者に押しつけられることになる。

 自分とて馴染みのない年上の部下の行状をなんとかしろという室内の空気に背押され、仁藤亜利は及び腰で、オフィスの隅でコーヒーサーバーを操作していた同徳に声をかけた。


 「おや、課長。お早い出社で」

 「早くありませんよ。もう九時を回ってます」


 振り返った部下は、これまた上機嫌の極みのように金属質な笑みを浮かべていた。

 いや、機嫌がいい時が無いというわけではないのだが、普段は爬虫類じみた笑顔で周囲をドン引かせるくらいであり、今日のようにそれこそ歌い出すような…実際鼻歌が出ていたが…陽性な機嫌の良さというのは、短くも不本意ながら深い付き合いのある亜利にとっても経験のない状況なのである。


 「なるほど、もうそのような時間でしたか。ところで何かあったのですかな?」


 抽出の終わったコーヒーを一人分カップにいれ、同徳はてやてやした顔で上司を覗き込む。どうも顔を洗いもせずにいることで脂じみた顔になっているだけでなく、興奮で上気してることもあるようだ。

 そんな顔で距離を詰められると思わず腰が引ける。引けるというか、無意識に後ずさってしまう。なるほど、何かあらぬ事でもあったのかと問われるには充分な態度だ。


 「…こちらは何も?常に無い部下の態度で周囲が迷惑してるくらいのことです。それよりあなたこそ……いえ、なんでもありません。私は忙しいのでこれで」

 「いや、そう邪険にせずともよかろうに。課長の懸案で進展があったことを共に喜ぼうではないかね。乾杯ならこの淹れたてのコーヒーがあることだしな」


 ちっ、と舌打ちする。話しかけなければよかった、という後悔はあるが、いかんせん自分が同徳に持ちかけた神納未来理の件であれば、無視するわけにもいかない。


 「…席で伺いましょう。乾杯は結構」

 「そいつは残念」


 背中を向けたまま自席に向かう亜利。きっと見えないところで同徳は大仰に肩をすくめていたりするのだろう。機嫌がよいと芝居がかった言動の多くなる男であるからして。




 初夏というよりそろそろ盛夏の足音が聞こえてきそうな日差しが差し込む課長席で、亜利は「それで?」と作戦の失敗の報告を受ける将軍みたいな声色で尋ねた。


 「そう剣呑な顔にならずともよかろうに。美しい顔が台無しだ」

 「お世辞はいいです。で、神納未来理の件なのでしょう?あなたの大事な変人同盟とやらが何かしでかしたらしいですが」

 「いや、連中もなかなか目の付け所がいい。手の届く範囲を拡げようとするところなど、実に有望だ」


 そこは本気で感心しているようには見える。にこやかな表情の奥で何を企んでいるのかは知れたものではないが。

 とはいえ、教育に関わる研究に携わるものとしては、子供の成長を喜んでいる姿を毀損するのも本意ではない。

 チェアをギシリと鳴らして亜利は、机に肘をのせて両手を組み、そこに渋い顔を乗せて机の前でしゃちほこ張る部下を見上げる。


 「…その三人、今は?」

 「中等部の教員、それから同級生の動向を見極めているといったところだな。件の少女とは繋がりを維持しているようだ。聞いた限りでは二番目の方が頻繁に神納未来理の教室に顔を出している。…これくらいのことは聞き及んでいるのではないのかね?」

 「当然です。その上で好きにさせておくよう指示もしています。高等部の生徒が中等部に出入りするのがあまり好ましいわけでもありませんからね……どうしました?」


 差し出がましい部下を掣肘するように鹿爪らしい顔をしていた亜利は、俄に顔を曇らせた同徳の様子を怪訝に思い、尋ねる。


 「いや、異な事を言うものだと思ってな。高等部の生徒が中等部に出入りすることが云々と仰ったが」

 「言いましたが?当たり前のことでしょうに。風紀や常識に照らして」

 「まあ良識的な大人としては、間違ったことを言っているとは思わんのだがね。ああ、ここから先は良識的でない大人の戯言になるが」


 あなたは良識を語る以前に非常識な存在でしょうに、と思って苦笑する。もっとも、鼻持ちならない年嵩の部下からの批判的な空気を嗅ぎ取って自覚無く虚勢を張った、というものだろうが。


 「先年、三姉弟の末のところに中等部の生徒がお礼参りと称して襲撃したと聞く。けが人も出たようでな、少々始末には苦心したのだが」

 「…聞いてはいます」

 「ま、それは極端だとしても、だ。世代の異なる子供が集まった場に軋轢があるのは当たり前のことだろう。世に出れば大人も老人も若者も各々の言動とその結果によって遇されるのだ。大人が責任をとってくれるうちにそれを学べる場を先んじて奪うというのも、誰のためにもならない話だと思うのだがね」

 「………」


 しれっと言っていたが、実際救急車まで呼ぶ羽目になった乱闘騒ぎを、警察に介入もさせず学園内での出来事として収拾させたのはこの佐方同徳の仕事だ。簡単な話ではなかっただろうに、それを「大人の責任」と事も無げに言ってのける。


 (分からないひとですね…)


 研究しか頭にないオタクかと思えば、教育者…とは少し趣を異にするが、責任と分別のある大人のようなことを言う。しかも口だけでなく実際に手も足も出し、それを誇るようなところも無い。

 その野心のナイフが自分に突き付けられていると思うことも時にはあり、亜利には油断の出来ない男、という印象が強いのだが、こうして事も無げに自分などが考えの及ばないことを平気で言う辺り、また違う意味で油断できない相手だと思う。

 けれど、と亜利は軽く首を振る。


 「…分かりました。あなたの見識に全面的には賛同出来ませんが、彼らが中等部と関わりを持つことについて、関係各所には看過するよう通達しましょう」

 「そういうこととも違うのだがなあ。ま、よいでしょう。それでこの学園の風通しが多少よくなるのであれば、課長と私のこの会話も無駄だった、ということにはなりますまい」

 「あなたと無駄な話をするつもりなどありませんよ」

 「おや、それは光栄な話ですな。では私はこれで」


 片手を軽く掲げて課長席から離れていく男の背中を見送りながら、亜利は思う。

 無駄話をするような間柄じゃないでしょう、という意味なのですけれどね、と。

 ただ、毛嫌いする一方だった相手に対し、少し角度を変えて見た方が良いのかもしれない、という反省に似た感慨は少なくとも亜利にとっては不快なものではない。

 不気味なまでの機嫌の良さは治まっていないのかもしれず、見ようによってはタップダンスにも思えるような奇妙なステップで研究員たちの間をすり抜けていく部下に、遠くから「踊るのは止めなさい!」と小学校の教員のようなことを言う亜利だった。



   ・・・・・



 そんな感じに、ひねた大人の意図が自分たちを取り巻いていることに気づきもしない子供たち…。


 「なぁんか最近気に食わないのよね」

 「また二課辺りと揉め事起こしてるんじゃないでしょうね」


 …ということもなく、吾音は普通に不穏な気配を嗅ぎ取って、然るべき筋に相談しているのだった。それが不倶戴天とも目すべき伊緒里である辺り、事態をおちょくるつもり満点ではあったが。


 「知らないわよお。こっちは平穏無事に過ごしたいのに向こうから厄介押っつけてくるんだし」

 「どの口で無罪を主張してるんだか。いつぞや二課に金銭的に大損害与えた件を忘れたとは言わせないわよ!」

 「あー、あんときは世話になったわね。でも経研ともコネ出来て良かったでしょ?」

 「ほんっとにあんたはああいえばこう言うし…別に経研と親しくお付き合いしたくなんかないわよ」

 「わたしは親しくどつきあいしたけどね」


 しれっと言ってのけると、伊緒里は苦々しい顔つきで冷めた紅茶を飲み干した。

 夕方の喫茶店ということで周囲に人は多くなく、学校関係者に聞かれたくない話をするには好都合だ。もっとも二人とも下校途中の制服姿ということで、高校生などあまり出入りしそうにない店の中では明らかに浮いている。


 「…けど伊緒里にしては渋い店しってるのねー。悪くない趣味だけど」

 「そう?まあ、ちょっとね…」

 「ふーん」


 向かい合わせに座った伊緒里が、居心地悪そうに身動ぎするのを見逃す吾音でもないのだが。


 「…なによ」

 「べつに?どうせ次郎辺りに連れてきてもらったんでしょ、とか思っても言わないしぃ」

 「?!…ん、ぐっ……、って言ってんじゃないのよっ!!」

 「落ち着きなさいってば。うちの弟と仲良くしてくれてありがとねー、くらいは思っても別に茶々入れたりしないから」

 「うう……」


 これで吾音に思い人のひとりもいれば、伊緒里も逆襲の足がかりくらいは得られただろうが、あいにくとこの傍若無人野を行くが如しのしっぽ娘に、余人に気取られるような相手などいないのだった。


 「…いつか見てなさいよ」


 向かい側の相手に聞こえないよう伊緒里が呟いたように、その分恨みも目に見えない形で積み上がるものだったが。


 「それでわたしを呼び出した理由ってなによ。次郎のことじゃなければ他に心当たりないんだけど」


 紅茶が冷めるほどの時間が経ってから訊くには今更過ぎるような気もしたが、それでも旧友だか悪友だかとの会話をそれなりに楽しんだ末、吾音はようやく本題に入る。


 「次郎くんが無関係ってわけじゃないけど…そうね、あなたたちが今動いてる件。中等部の神納さん、って子のことよ」

 「未来理ちゃん?どーせ次郎があんたに相談するだろーとは思ってたけど、あんたの方から話持ちかけてくるとは思わなかった。しかもわたしに、さ。どーゆー風の吹き回しよ」

 「加納さんの境遇を聞いてわたしなりに調べてみた。そしたら、きっとあなたが一番感情移入して衷心で動いているんだろうな、って思ったから。違う?」

 「んー、いつもなら違わなくはないけど。でも多分、今回の件は三郎太の方が思い入れあるんじゃないかな」

 「三郎太くんが?」

 「そ」


 奇態な出会いから未来理が高等部の変人扱いされてる三人のところで出入りするに至った経緯を、伊緒里は次郎から聞き及んでいる。それでも、あまり恵まれた境遇とはいえない中等部の女の子のこととなれば、何を置いても吾音が一番気にかけるだろうと思ったのだ。

 それが、家族や身内以外には頓着した様子を見せない三郎太が一番思い入れている、というのも聞いただけでは納得のいかない話なのだ。少なくとも姉弟を家族以外では一番近くから見てきた伊緒里にとっては。


 「三郎太もさー、あんまりそういうトコ見せる子じゃないからそう思われても仕方ないと思うけど、あれでもわたしなんかよりよっぽど優しいとこのある子だしね。あの体格だからなかなか理解されなくって」

 「…あなたがそういうのならそうなんでしょうね。ごめんなさい、三郎太くんに失礼だったわね」

 「まったくよ。あんたが失礼ぶっこくのはわたしだけにしときなさい。次郎に愛想尽かされたくなかったらね」

 「次郎くんはそんなひとじゃないわよ!……ってそうじゃなくて。で、三郎太くんが一番気にしてる、ってどういうことなの?」

 「どうもこうもね。未来理ちゃんみたいに、周りから微妙な扱いされることに三郎太なりに思うところがあるんじゃないかな、って。あの子も似たようなとこあったしね」

 「…そう、ね」


 魁偉な外見が災いして、人を寄せ付けないことの多い三郎太だが、吾音はもとよりそれなりに付き合いのある伊緒里も、見た目通りの少年ではないことくらい分かっている。

 ただ、余人もそのように思うかどうかとなると、会話すら避けている者にとってはやはり見た目通りのイメージしか抱けないのだろう。

 一人物静かに文庫本などを開いていることの多い三郎太の姿を思い浮かべ、伊緒里は寂しさのような腹立たしさのような、複雑な感情が胸に浮かぶ。


 「…それで、三郎太くんとしてはどうするつもりなの?っていうか、あなたもそうだけど」

 「その辺は次郎と話したんじゃない?とにかくね、未来理ちゃんはとてもいい子だと思う。三郎太ほどじゃないにしても、わたしだってあの子が学校で楽しく過ごせていけるようにしたい。だから、やっぱりあの子の側にいて、話を聞いたりしてあげたりする存在がいるんじゃないかと思う。わたしたちはさ、あの子にそういう存在が出来るようにしたいだけなのよ」

 「要するに、神納さんに友だちを作ってあげたい、ってことじゃない。どうしてそう面倒くさい言い方するのよ、あなたは」


 無駄にややこしい言い回しをする吾音の口振りに辟易した伊緒里のざっくりっぷりに、言われた方は渋い顔をする。

 つまり、照れくさいのだろう。傍から見れば良いことをしているのに、そうとられるのが面白くないのだ、この天の邪鬼は。


 「べっ、べつにいーでしょっ!そんなのどーでもっ!」


 との意を込めて若干意地悪く見やったら、あっさり顔を紅潮させて憤慨する吾音だった。

 大人を簡単に出し抜く機転を見せたり邪悪で手前勝手な行動で迷惑を振りまくと思ったら、ヘンなところで可愛げのある顔も見せる。

 これが幼馴染みだとは口が裂けても言いたくはないけれど、面白い友だちだと言われれば難しい顔をしながら首肯するだろう。

 阿方伊緒里にとって鵜ノ澤吾音とは、そういう存在である。


 「はいはい、確かにどうでもいいから本題に入りましょう。次郎くんにも言われたけれど、あなたとしては私に何を期待しているの?って話」

 「そういうとこよあんたの気に食わないとこわっ!……いいけど。ってもね、次郎に頼まれたことがあるんなら、それでいいわ。中等部に関わり持て、みたいなことでしょ、言われたことって」

 「まあ、ね」

 「わたしがあんたに期待することがあるとすれば、それだけよ。それよりこっちにも気になることがあってね」

 「なんか気に食わない、って言ってたやつ?次郎くんが構ってくれないからつまらないだけじゃないの?」

 「次郎のことはどーでもいーっつーの。煽られた恨みにしてもしつっこいわ」


 口を尖らせてそう言い募る吾音は、ケンカ友だちという目で見ても愛らしく映る。これが未来の妹になる場面を想像して手足をじたばたさせたことなど何度かあったりもしたが、今はそれをおくびにも出せやしない、と真面目にキリリと顔を改め、勤め帰りの寄り道、といったサラリーマン風の客が増え始めた店内で声を潜める。


 「…心当たりでもあるの?」

 「ハッキリとは言えないけど、どーも二課の紐くさいのがうろついてる気配があんのよね」

 「根拠は」

 「今は言えない」


 口調に迷った風は無かったから、吾音の中ではそれなりに確信はあるのだろう。それを伊緒里に告げないのは、信用がないというよりは伊緒里の心情を慮ってのことか。

 気遣われるのが嬉しくはないとは言えないけれど、正直面白くはない。裏も表も相照らす仲……ってこともないか、と伊緒里はわざとらしいくらいに大きなため息をつき、一つだけ文句を言うことにする。


 「だったら何故そんな話を私にするの?言えないなら匂わせる必要なんか無いじゃない」

 「あんたも気をつけなさいよ、ってだけよ。これも今んところ言えないけど、あんただって二課に目をつけられてたんだからね」


 つけられてた、か。直近の心当たりを胸の内で探る。無いことも無い。腹が立つ。自分の知らないところで吾音は自分を守ってるつもりでいたのか、と。


 「分かったわ。言える時が来たら教えてもらえるんでしょうね」

 「それは覚悟が要るかもね」

 「誰の」


 わたしの、と少しばかりイタズラっぽい笑みを取り戻して、吾音はそう言った。

 ならいいか、と伊緒里は得心してソファの背もたれに体を預け、テーブルの上の伝票に目を落とす。

 裏返されていたそれを手に取ってひっくり返すと、自分の分の紅茶と吾音の分のオレンジジュース。メニューより一割ほど安い値段が手書きで書き込まれていた。学生料金なのかな、と呑気に思い、そのまま立ち上がった。


 「あれ、奢ってくれるの?珍しい」

 「そんなわけないでしょ。自分の分は自分で払いなさ……いえ、いいわ。今日は私が出しておく」

 「あとがこわい話よねー」


 自分で言い出しておいて何を言うのやら、と思いつつ鞄を持って立ち上がった吾音を背中越しに見る。相変わらず背は低い。その分態度の大きさは三人分だけど。

 そう思ってクスッと洩れた笑みを、吾音が見とがめたように睨み付ける。


 「なんかムカつく笑い方したわよね」

 「被害妄想も大概にしないと背がのびないわよ」

 「それを言うなバカ伊緒里!」


 ぼすぼすと力なく叩かれる背中の感触をむしろ心地よく思う。

 ビジネス街の老舗喫茶店で、吾音はきゃーきゃーと抗議の声をあげ、伊緒里は澄ました顔でそれを適当にいなし、場にそぐわない賑やかさを伴って二人は店を出て行ったのだった。

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