第24話・伊緒里の激情

 二分四十五秒。

 次郎が通話を切ってから伊緒里が駆けつけ、息を切らしているその顔を見て吾音が「はやっ」と呆れたまでの時間である。


 「はぁっ、はぁっ…はぁぁぁぁーっ………って、どういうことよこれっ?!」

 「会長、落ち着け。キャラが壊れてる」


 伊緒里が誰に向かって言ったのかは分からないが、三郎太の方は間違い無く伊緒里の剣幕に心配を見せるものだった。何の心配なのかはともかく。


 「こ、これが落ち着いていられるわけ…ないでしょう…?!」

 「いやまー、落ち着かないで話出来るなら一向に構わないけどね。でもそのまま話続けたら、多分誤解が積み重なって終わる頃には次郎とあんたが異世界に召喚されて現地で世界征服するくらいにはなってるわよ。多分」

 「無茶苦茶言うなあ、姉貴…」


 そうは言いつつも吾音は、まだ手を付けていなかった烏龍茶のペットボトルを伊緒里に手渡す。


 「…はあ、ありがとう」


 そこで素直に吾音に礼を言うくらいにはまだ混乱しているのだろう。よほどのどが渇いていたのか、キャップをねじ切って一息でミニボトルを空にし、ごみ箱を探すが見つからなかったので制服のポケットに仕舞う。


 「…で、何があったのよ」

 「ああ、もう…次郎くんのせいだからね!」

 「理由も説明せずに罵倒するのは止めて欲しいんだけど…」

 「それよりあんたが『次郎くん』て」

 「姉さん、話がややこしくなるからそこは後にしよう」


 先程からまともなことを言っているのが三郎太ただ一人、という状況の中。


 「…とにかく、こんなことになって私もどうしたらいいのか分かんないわよ…」


 と、伊緒里の説明が始まった。




 「なに?ただ単に次郎と連れだって歩いてるとこ目撃されてあれやこれや憶測が飛び交ってる、ってだけの話じゃん。あんたが慌てふためくよーなことでもないでしょ」


 掻い摘まめばそういうことである。確かに起きたことだけ説明すればその通りなのだが。


 「…姉さん、仮にも会長は氷鉄なる異名をとる冷静無比な存在だ。男と並んで歩いてるだけでも事件というものだろう」

 「それもそうね。となれば、『大学人文学部長のオープンカーを接収して新婚旅行に向かった』だの『経研棟を借り切って結婚式を挙げる予定だ』だの『子供は既に初等部児童会を掌握しつつある』だの言われても…そりゃあ仕方ないってもんよねー」


 例の噂サイトの記事を読み上げつつ、アホかこいつらは、と呆れる吾音だった。


 「そこまで言われてないわよ!精々…、せいぜい……」

 「『あの阿方会長がすごく可愛く見えた、俺はもう終わりだ』…これか」

 「そうそう、いいとこそれくらい…って何で知ってんのよっ?!」

 「いや知ってるも何も、ここに書かれてるし」


 と、自分のスマホを伊緒里に見せながら吾音は殊の外真面目な顔で言った。


 「見たくないわよそんなもの…」


 心底疲れ切った表情の伊緒里。


 「けどおかしいわねー。次郎と二人…ってのは珍しいかもだけど、今までも無かったわけじゃないでしょ?何で今さらこんなことになってんの」

 「知るわけないでしょ、私が。またその腐りきったサイトのせいよ…ああもう、次選挙出るならそのサイトぶっ潰すのを公約にしてやるからっ!」

 「んなことしたら落選するわよ。卒業まで日陰者になるのがイヤならソレは放っておきなさい」

 「…そんなこと言ったって」


 もう立っているのも億劫になったか、ベンチに腰を落として俯く。

 吾音は三郎太に一つ目配せをする。これからやることにきっちりフォロー入れなさいよ、と。

 三郎太はちらと姉を一瞥しただけでその意を汲み、半歩下がった。


 「…伊緒里、あとはわたしらに任せときなさいよ。あんたがこーいうことの役に立たないのはよーく知ってるから」

 「……それどういう意味?」


 顔を上げて伊緒里は吾音を睨む。役立たず呼ばわりされたことに腹が立った、というだけではないのだろう。


 「言葉通りだけど?あんたはねー、予定調和的な『お仕事』には向いてるかもだけど、突発的事態…それもあんたが不慣れなオトコ絡みの事件になんか、出来ること何も無いんだからね」

 「…別に男の子絡みだなんて……」

 「どーせ縁無いでしょ?そりゃあまあ、次郎がお情けで口説くのも無理ないって」

 「そんなこと無いわよ!次郎くんは、その…っていうか自分こそどうなのよ?!あなただって浮いた噂の一つも無いじゃない!『燃える赤』なんてご大層なあだ名つけられるくらいの有名人のクセしてさ!」

 「わたしはいーのよ。ほら、これでも声かけてくる男の子には事欠かないし?…って、どーしてあんたたちが驚いてんのよ?!」

 「いやだって…なあ?」

 「…ううむ、由々しき事態だ」


 吾音としては伊緒里を煽っただけなのだが、真に受けた弟たちは何故か青い顔をする。


 「…それはともかく、もうあんたは噂通りに次郎と乳繰ってなさいよ。ほら、ヒトの噂もナントカっていうじゃない。ほっときゃ静かになるって。で、あとはわたしに任せておき…」

 「うるさいっ!」


 勢い良く伊緒里は立ち上がり、吾音の目の前に立つ。


 「あんたに何が分かるってのよ!私が、どれだけこの学校の悪いところを直そうと頑張ってるかって、学生の自治を謳うくせしてすぐに子供扱いして横から上から口出しして、そんなふざけたやり口をなんとかしようとしてる私のことを、あんたにどうこう言われる理由なんかこれっぽっちも無い!!」


 自分より背の高い伊緒里の叫ぶような告白を、吾音は正面から受け止めて微笑みすらしていた。


 「阿方…」


 次郎はその必死な形相を横から見て、かける言葉も見つからないうちに名前を呼び止める。


 「あの、さ…姉貴もそういうつもりじゃなくって」

 「次郎、あんたは黙って。伊緒里には言わせときゃいーのよ。どうせ口ばっかりで何も出来やしな…」

 「黙るのはあんたよっ!」


 手が出た。

 三郎太や次郎が止める間も無く、伊緒里は前動作も見せずに吾音の頬を張っていた。


 「…痛い」

 「ええ、痛いでしょうね?!でもね、私だってこんなことずっとされてきたのよ?!直接手出しなんかされなくっても、陰口ならいっぱいたたかれた!すれ違って後ろから笑われたことだって何回もあった!その度に泣くのを堪えてた私の気持ちが、あんたに分かると思うの?!」

 「会長」


 もう一度振り下ろされようとした手は、三郎太の殺気を押し殺した声で止められた。


 「…俺は女を殴るつもりはない。が、それ以上姉さんに手を上げるというのなら、力尽くで止めることも否定はしない」


 三歩、後ろに下がった吾音を庇うように三郎太がその前に立った。気圧されて一歩下がる伊緒里。ふくらはぎがベンチに当たったが、腰が砕けることだけは、意地で堪えた。


 「な、何よ…吾音ばっかり、みんなに守られて…私なんかずぅっと一人で……どうして、どうしてあんたはそうやって守ってくれる人が、いっぱいいるのよ?!」

 「待て待て待てって!おい三郎太!阿方に手を出すってんなら俺が相手になっぞ?!」


 凶悪とも言って差し支えない三郎太の形相を睨み上げながら、涙がすっと伊緒里の頬を流れ落ちる。

 それを見て次郎は、慌てて三郎太と伊緒里の間に割って入った。


 「手を出す?先に手を出したのは会長の方だろう。俺は姉さんを守ろうとしているだけなのだがな。お前は違うのか?」

 「おっ、俺は…俺は、その……」

 「…いいよ、次郎くん。私は平気。一人で平気。今までずっと一人だったし、これから一人でも平気。だから、どいて」

 「いやだからさ、もどうしてそうやって依怙地に…ああもう、おい三太夫!俺が相手になってやっからここは退け!」

 「ほう、面白い。では俺が勝ったら、姉さんを叩いた分くらいは、会長をぶたせてもらおうか。それと三太夫ではない。三郎太だ」

 「おめーが叩いたら伊緒里の首から上が無くなっちまわぁな。まあいいわ。おめーとやり合うのなんざ何年ぶりか覚えちゃいねーけどよ、リベンジといかせてもらうぜ!」

 「中三の夏だな、確か。ちなみにその時は次郎は土を舐めてたぞ」

 「ほざけ。おいこっちじゃ狭いからそっちに行くぞ」


 余裕綽々の弟を睨み、次郎は砂場の方に移動する。

 ふん、と鼻を鳴らして三郎太が続く。


 「…ふふん、伊緒里?よく見ておきなさいよ。うちの弟どもの心意気ってやつを、ね」


 それを見送って吾音は、伊緒里を不敵な眼差しで見やる。

 ふざけるな、と伊緒里はそんな吾音の横顔を睨んだが、睨まれた方は平然とそれを受け流した。

 そんな中、砂場の中央で兄弟の対峙は始まっていた。


 「…で、どうするつもりだ?ケンカの仕方も知らないお兄様は」

 「ケンカなんてのはなぁ、最後に立ってた方の勝ちなんだよっ!」


 言うや否や、次郎は腰を落として突進を開始する。

 迎え撃つ三郎太はそれを受け止めようと重心を下げて待ち構えたが、ために位置の下がった顔に目掛けて次郎の手が振るわれ、屈んだ時にさらった砂が、三郎太の顔にぶちまけられる。


 「なっ…!目潰しとは卑怯だぞ次郎!」

 「うるせー体格差があんだからちょうどいいハンデだよ!食らえ!」

 「…などという手に引っかかるわけがないだろう、アホが」

 「はぁっ?!」


 好機到来と三郎太の腰にしがみつこうとした次郎は、逆に腕と袖をとられて柔道のように地面に叩き付けられた。


 「あだっ!!」

 「ふん、下が砂場で良かったな。次郎、こちとらケンカの場数は踏んでいるんだ。そんな見え透いた手を使ってくるバカが今までどれ程いたと思っている」

 「くっそぅ…卑怯手すら使わせてくれねーのかよ!」


 三郎太の言う通り、砂場に転がってもさほどダメージは無かったらしい。追撃を避けて立ち上がった次郎の転がっていた位置に、三郎太のスタンピングが落ちた。


 「…けっ、おめー馬鹿力はあっけどスピードはねーもんな。こうなりゃ避けまくっておめーが疲れるのを待ってやるよ!」

 「スタミナで言うのならな、去年俺が相手にした中坊どもとは…三十分ばかり立ち回りをしていたのだがな。次郎はそれ以上動いていられるのかな?」

 「………あー、やってやるよ。やってやりゃあ、いいんだろっ?!」


 ヤケクソのように動き回る次郎と、それをとらえようとする三郎太。

 しかし三郎太が次郎に向けて身体の向きを変えるだけなのに比べて、次郎はその周りをグルグル回るしかない。止まったら捕まる。捕まったら、終わりだ。


 「おい次郎、結局お前の方が動いているじゃないか。それで俺を先にへばらせようとか無謀にも程があるというものだろうが」

 「…うっ、うるせーよ!こっちにも作戦ってものが……」


 そんな真似をして三分も経てば、先に息が上がるのは次郎の方に決まっている。


 「次郎ー、お姫さまがハラハラしてんだからもーちょいいいとこ見せてやりなさいよー」

 「べっ、別にハラハラなんかしてないわよ!」

 お姫さまの立場であることは否定しない伊緒里と、煽りまくる吾音。


 原因のくせして最早傍観者と成り果てた二人の勝手な言い草を背中に、追いかけっこを続ける男二人。

 だが。


 「…だいぶ逃げ足が鈍ってきたじゃないか。そろそろお終いだな」

 「うっ、うるせー…はぁっ、はぁっ…くそ、なんで俺がこんな…」


 息を切らしながら愚痴をこぼす。そんな真似が、次郎からごっそり体力を削ぎ取った。


 「おわぁっ?!」


 もつれた足を堪えることも出来ず、すっ転びかける次郎。


 「…終わりだな、兄貴」


 好機とみて掴みかかる三郎太。


 「かかったなアホ!」


 だが、最後の最後で踏みとどまり、その足を軸足にした次郎は…。


 「なんと?!」


 転がる勢いをそのまま、反対側の足に乗せて後ろ回し蹴りの要領で三郎太の顔に蹴りを入れる。

 そしてそれは狙い過たず三郎太の横っ面に当たり、そしてそのことにホッとしたのも束の間。


 「…見事」


 渾身の蹴りもものともしなかった三郎太の右フックが、次郎の顔にキレイに入れられた。


 「…んな、マジか……」


 呻き、そのまま次郎は崩れ落ちた。そのきわに伊緒里に向けられた一瞥は伊緒里の隣に立っていた吾音の口元に微笑みを浮かべさせたのだが、次郎がそれに気付くことはなく。


 「次郎くんっ?!」


 ただ伊緒里の叫びだけが、耳に届いていた。

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