後八 子宇、皇后を守り孤軍奮闘する

「くそっ」

 子宇は悪態をついて、潜んでいた場所から飛び出した。

 それは皇后を害しようとした兵士たちの意表をつき、二、三名を突き飛ばして、皇后をその包囲の輪から連れ出すことに成功したのだった。

「何だと⁉ 子宇かっ」

 玄単は意表を突かれた。


「陛下、こちらにっ!」「あっ」

 子宇は皇后の手を取って舞台袖に上がった。彼は潜んでいたときから、脱出は裏手の楽屋の方からするしかないと考えていたのだ。

 が。

 玄単を至近で見たとき、子宇は一瞬迷った。

 今、自分の手の届く範囲に大逆人である玄単がいる。今飛び掛かれば、その首を落とすことが出来るのではないだろうかと。

 実際に子宇の能力をもってすれば、それは可能だったのだ。後ろの皇后が子宇の袖をきゅっと握りしめ、ごくわずかな間、子宇がそちらに気を取られていなければ。


 玄単はまたしてもさっと手を上げた。

 すると玄単と華蓉妃の座る玉座を中心に、半径一丈(三メートル)の円形の範囲が舞台からするするとせり上がり始めた。そのような仕掛けがここにはあったのである。

「皇后は舞台袖だ! 皆の者、奴の首を取れっ!」

 玄単の叫び声に、四方から兵士が殺到してきた。


「くそっ」

 子宇はまたしても悪態をついた。千載一遇の機会チャンスを皇后に潰されたからである。 

 玄単は華蓉妃とともに、既に二丈(六メートル)もの高さまで上がっていた。もはや剣の届く範囲ではない。


「陛下、その階段をお上り下さい!」

 子宇が指示したのは、舞台袖から上方に延びている階段である。もはや舞台裏からも、観客席側からも兵士たちが接近してきており、逃げ道は上にしかなかったのだ。

 皇后を先に行かせ、追いすがる兵士たちを剣で払いつつ、子宇と皇后は階段を上がっていった。

 この階段は、舞台装置の操作の為に設けられているもので、それを上がり切ると舞台の真上に位置する踊り場に出た。劇に使う機材が色々と置いてある。

 ちょうどせり上がった玉座にいる玄単の真上だった。


 子宇は階段を閉める蓋を落として、後続の兵士たちを遮断してから、踊り場を見渡してつぶやいた。

「っ! 駄目だ、ここは広すぎるっ!」

 子宇たちが上がってきた反対側の階段から、別の兵士の一団が踊り場に現れたのが見えた。ここにいれば、すぐに挟み撃ちにあってしまうだろう。

 さすがに剣に自信のある子宇も、囲まれたら終わりであることは承知している。


 子宇は素早く周囲に目を走らせると、天井近くに一本の大きなはりがあるのに気が付いた。そこに至る梯子はしごが置いてある。

「陛下! あの梁の上にお上り下さい!」

 子宇の後ろに座り込んだ皇后は、疲れ切った表情で答えた。

「もう、動けません……」


 それを聞いた子宇の血は沸騰した。

 それでも努めて冷静に、皇后に向かって言ったのだった。

「陛下っ! 貴女様には生きのびる義務が御座いますぞ! 貴女様が倒れられたならば、この椋の国はまた内乱の渦に巻き込まれますっ! それでは何の為に『不育の令』を出したかわからなくなりますぞっ!」

「もう、無理です……」


 子宇は激昂した。

 彼は激しい口調で皇后を怒鳴った。

「立てっ! 貴女には楽に死ねる権利などないんだっ! 貴女は最後まで、惨めにあがいて、あがいて、あがき切って、それから虫けらのように死ぬんだっ! それが貴女に忠誠を捧げた者全員に対する務めなんだっ!」

 それは子宇の本音だった。実母と無理矢理離れさせた女に対する恨み節だった。

 子宇は今までに、腹に溜まりに溜まっていた激情をこの場で皇后に叩きつけたのだった。


 その言葉を聞いた皇后は絶望的な表情を浮かべた。

 彼女はのろのろとその疲れた身体を動かして、息を切らしながら何とか梁の上に乗った。

「陛下、梁を伝って奥に進んで下さいっ!」

 そのとき、反対側から走ってきた兵士たちと、蓋を破って上がってきた兵士たち十数名が喊声をあげて迫ってきた。

 囲まれる直前に、子宇も何とか梁の上に脱出した。

 

 子宇と皇后が乗った梁は、幅が三尺(九十センチ)ほどある太い柱で、”劇場”の端から端まで渡っていた。梁は舞台と観客席の真上を通り、子宇たちが上がってきた反対側の端は、天井付近の壁で行き止まりである。つまり奥に進んでも袋の鼠になるだけであり、逃げ道はなかった。

 子宇は時間かせぎをするつもりなのだ。

 あとは自分が最も信頼する侍従が、何とかしてくれることを信じつつ。


 梁から地上までは優に十丈(三十メートル)はあって、落ちたらただではすまない。その上を子宇は後ろ向きにすり足で、皇后は四つん這いになってのろのろと奥に進んでいった。


 玄単と華蓉妃の座る玉座は、五丈(十五メートル)ほどにせり上がって止まっている。玄単はそこから梁の上を逃げる皇后と子宇と、追いかける自軍の兵士たちを見て喜んだ。

「ほうっ、いい見世物を特等席から観られるわ。お前らっ、皇后の首を獲った者は百金を与えようぞ!」

「前皇后ですわ、陛下」華蓉妃が、すかさず訂正する。

 そして用意してあった杯を玄単に手渡し、芳醇な香りの果実酒を注いだ。

「おう、そうだったそうだった。お前らっ、前皇后を倒して富を手にせよっ!」

 その言葉に発奮した兵士たちは、次々に梁の上に上って、子宇たちに追いすがる。

 だが、それは子宇の思惑通りであった。

 狭い梁の上では仮に兵士が百名いたとしても、ひとりずつしか攻められないからだ。


 子宇はじり、じりと後退しながら兵士たちを待ち受ける。 

「いえああああっ!」

 裂帛れっぱくの気合を発して、ひとりの兵士が斬り込んできた。左上方からの斬撃が子宇を襲った。

 子宇はそれを剣で受けると同時に力を抜いて斜めに逃がし、刀身上を滑らせるようにいなした。衝撃が来ると思っていた兵士は、そのまま体勢を崩して前のめりになる。子宇はその兵士を外に押し出した。

「うわあああっ」

 という悲鳴とともに兵士が下に落ちていく。そして、一瞬の間のあとにぐしゃっという音。


 仲間の末路を見た後続の兵士たちはひるんだ。子宇は猛禽を思わせる笑みを浮かべながら凄んだ。

「報奨が割に合うものかどうか、よく考えてから向かってくるんだな」

 兵士たちはごくりと喉を鳴らし、一時ためらったが、再び剣を構えて肉薄してきた。百金という金額は、しがない一般兵士にとっては一生遊んで暮らせる金額である。一攫千金を夢見て、命を賭けるに足る額であった。

 子宇はそれを見てちっと舌打ちするが、すぐに無表情になった。戦いにおいては感情を一切相手に見せるなと、剣術の老師せんせいからきつく言われていたのだ。


 狭い梁の上で子宇と兵士たちは向かい合った。

 次の兵士は子宇の顔面を狙って突いてきた。やはり彼はそれを刀身を合わせて斜めに受け、意図的に滑らせる。相手の剣が子宇の左頬のすぐ外を通り抜け、子宇はすかさず近接した兵士の足を払った。バランスを失った兵士は、頭を下にして梁の外に姿を消す。

 その最後を見届ける前に、後ろの兵士が躊躇なく踏み込んできて、下方から斬り付けてきた。しかし子宇の柔らかな手首は剣をくるりと回転させ、その下からの剣の切っ先にきっちりと合わせ、軌道を変えさせて上に弾き飛ばした。結果、万歳する形になったその兵士の腹を子宇は思い切り蹴飛ばした。

「うわああっ」「ひいいっ」「あああっ」

 その兵士に巻き込まれて、後方の兵士ふたりももつれ合うようにして下に落ちていく。


 さすがに矢継ぎ早に、仲間が墜落死するのを見た兵士らの中には、怖気づき始めた者も出てきた。

 子宇は額の汗をぬぐうが、その動作も老師からは禁止されていたものだった。それ以前に彼は、汗自体を掻くなと言われていたのだが。

(全く、無茶ばかり言う老師せんせいだったな……) 


「子宇、息をするな」

「はあ⁉ 老師せんせい、窒息して死んじゃいますよ!」

 子宇はぽかりと杖で頭を叩かれた。「痛い!」

「阿呆。呼吸を相手に悟られるなと言っとるんだ。息を吸うとき、吐くとき、止めたとき。全てその時に行える動作が違うのだ。呼吸を覗かれることは、手の内を見破られることに等しいと知れ」


 息をするな、汗を掻くな、拭うな、瞬きをするな、身体を動かすな表情を出すな人間らしい仕草は全て禁止だ……。


 そうして幼い頃からずっと、長くその老師に師事してきた子宇は、日常生活においてもあまり他人に本心を見せない、また配慮しない青年に成長してしまったのだ。

 だが、ひとりの少女が子宇の側に現れて、遠慮会釈もない生のままの感情をぶつけてきた。子宇は知らず知らずのうちに、その少女によって生来の気質をむきだしにされた。

 その含みのないやりとりが、実は彼には心地よくもあったのだ。


「うわおおおっ」

 と喊声を上げて数人の兵士たちが一度に突っ込んできた。子宇と兵士たちは交錯し――あとに梁の上に残ったのは子宇ただひとりであった。彼の頬、腕、わき腹に剣の傷跡がついていたが、それらはわずかにかすっただけの、深刻なものではなかった。


 地上にいる上妃たちも、兵士も、侍女も息を呑んで、梁上の戦闘を見守っていた。

 あのふたりはいつ、数の暴力に飲み込まれてしまうのか……

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