中六 子宇、後宮の暗部を小蘭に明かす

「いいか、自薦他薦、試験、拾い上げその他諸々の要因により選抜された娘たちは、まず下妃として後宮に入る」

「ふむふむ」

「外交的理由からここに来たもの、特殊事情がある者は、最初から中妃、上妃として入宮する場合もあるが、これは極めてまれな事例だ」

「ふむふむ」

「現在ここにいる下妃は、行方不明のふたりを除けば二百五十三名いる」

「にひゃく……!」


 小蘭は現帝ひとりの為だけに、それだけの女性が囲われていることに驚いた。

 過去に炎龍帝が一万の愛妾を囲ったと言われても、それは単なる知識としての数字であり歴史の一頁であって、実感は湧きづらい。

 だが、二百五十三名という具体的な数字と、彼女らがここに居て生活しているという至近の事実は、小蘭の中にある種の感慨を呼び起こすのだ。


「この下妃は、一度でも主上の寵愛を受けると中妃に昇格する」

「たった一度でも?」

「そうだ」


 そう同意して子宇は目を瞑る。

 小蘭は彼の態度から、そこにここ、後宮の残酷な事実を嗅ぎ取った。

 帝の寵愛を受け、下妃から中妃に昇格する。彼女は狂喜するだろう。ここから自分の将来が開かれると。

 だが、帝からの寵愛はそれ一度きりで終わるかもしれないのだ。


「妃嬪たちは日々、習い事をして過ごしている。宮中の礼儀作法から始まって、舞踊、歌謡、楽器などの礼楽や、裁縫、刺繍、細工などの実技、歴史、天文、地理、易学、詩歌などの知識に関することを毎日学んでいる」

「ひええ~」

 小蘭は悲鳴を上げた。

 確かに妃たちが習い事をしている光景は、小蘭も目にしたことがあった。しかしそれがこんなにも多岐にわたって行われているとは、思ってもいなかったのである。

 妃になったからといって、のほほんと毎日、日中にお茶などを飲んで過ごしているわけではないのだ。

 もしかすると彼女たちはゆくゆくは貴妃になり、帝の隣に座ることになるかもしれない。そのときは、それに相応しい素養を周囲から求められるのである。


「下妃には年季が設定されている。二十歳に達するまでに、主上の寵愛を受けられなかった者は、ここを去ることになる」

「厳しい現実ね……」

 小蘭はため息をつく。優勝劣敗の法則は、どこにいても適用されるのだ。


「と、思うだろう。だが、後宮に入っていたという経歴は、かなりの恩恵を彼女たちにもたらすのだ。まず汚れていない。次に一般では得られないだけの素養を身につけている。妃に選ばれるほどだから、容姿も端麗だ。彼女たちを求める者は実に多いのだ。彼女たちの大多数が、豊かな第二の人生を送っている」


 禍福はあざなえるなんとかというヤツだろうかと、小蘭は思った。人間、何が幸いするかわからんものだと、爺がよく言っていたのである。


「対して、中妃に上がった者は、もう後宮からは出られなくなる。一度でも至尊の寵愛を受けた者は、下賤な者たちの手には触れさせない、ということだ。彼女たちは生涯をここで終える。そのような中妃は、現在四十五名いる」


 権威がどうたらこうたらというのも、爺がよく言っていたものだった。

 権威を保つために飼い殺し。一度だけ抱かれて生涯を終えた中妃も大勢いるのかもしれない。


「そして主上の子をなして、産んだ方々が上妃に昇格する。まあ、懐妊すれば上妃になるのだが。主上の正妻が皇后陛下。正式な側室が夫人。現在は三名おられるな。三夫人と呼ばれている。その下に八嬪という位の妃たちがいる。これらの方々は貴妃と称されることもある」


 史書に名が記されるのは上妃だけ。それも一部の方々のみである。

 他の大多数の妃嬪は記されることもなく、歴史の海に埋没する。 


「下妃には室が、中妃には堂が、上妃には宮が与えられる。宮を持っているのは皇后陛下を含めて十二名。主上の住まう主宮に最も近いのが、皇后陛下のおわす松鶴宮だ。そしてその周りに三夫人、八嬪が宮を構えている。そこから大分離れて中妃の堂が並び建てられ、その外側に下妃たちが集められている宿宮がある」


 小蘭は子宇の説明を聞いていて、めまいがしてきた。

 後宮というのは帝という”雄”ひとりの為に”雌”を集める場所だと、知識として爺から教えられてはいた。だが実際にひとりに対して、三百名超の数の相手を揃えている現実を見てしまうと、何かが歪んでいるような気がしてならないのだ。


「さて、ここからが本題なのだが……」

 子宇はここにきてためらいを見せた。余程広めたくない事実らしいことが、小蘭にも想像出来た。

「楚汀妃はおそらく――主上に抱かれたのだろう。替玉の方のな」

 それを聞いて、小蘭はあっ、という顔をした。

 子宇は無表情で続ける。


「主上の替玉は、お前が看破した通りふたりいてな。ひとりは無口で真面目な奴なのだが、もうひとりがとにかく好色な男でな。替玉の権利を十二分に行使しているのだ」

「替玉の権利って何よ?」

「下妃ならば好きなようにしてよい、という権利だ」

「! それ……って!」

「尤もそれは無条件で、というわけではない。自分が主上の替玉であることを下妃に告げて、彼女がそれでも良いと同意したときのみだ。この際には守秘義務が発生することになる。そして替玉を受け入れた下妃は、主上から愛される資格を失うことになるのだ」


 今度は小蘭が黙った。

 普通に考えれば、下妃は替玉など受け入れる筈はないのだ。

 だがどうだろう。ここに来たのは良いが何年も放置され、一度も寵愛されず、またされる見込みがないと悟ってしまった下妃は、どう考え、どういう行動をとるだろうか?

 (アタシにはわからない……)


 子宇はひと息ついてから言った。

「替玉と契ってしまった下妃は別宮に移される。鴝鵒宮がそれだ。待遇は中妃扱いになる。その後は、彼女は替玉の愛妾として、一生をそこで過ごすのだ」

 はっと小蘭は気が付いた。あの、鴝鵒宮を指したときの皆の、歯にものが挟まったような反応をである。

 あの宮に住まう妃たちは、国母になるのを諦めた者たちなのだ。


 そういえば、と小蘭は思い起こす。

 華蓉妃と対峙したとき、小蘭は彼女と目を合わせない為に、焦点を後方の鴝鵒宮に移したのだが。

 小蘭は建物の窓から、青白い顔をした数人の妃たちが、じっとこちらを覗いているのに気が付いた。その目はまるで死者のように光りなく、虚ろだった。 


(あの建物の周りに渦巻くえた空気と、愛らしい華蓉妃のすさんだ所作は、そういうことだったのか……)

 自分の顔を鞭で打った、華蓉妃のきつい目つきを思い出して、小蘭は何となく納得した。

(やっぱりここは、何か歪んでるよ……)

 子宇の説明により合点がいった小蘭は、やるせない気持ちになった。

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