前九 小蘭、鬱憤が溜まりに溜まる

「小蘭!」

 突然、大声で自分の名前を呼ばれた小蘭は、びくんっと身体を跳ねさせた。

 その拍子に彼女の目の焦点はぼやけ、目前の妃の顔はくっきりとした愛らしいものから、ぼんやりとした物体に切り替わる。

 ふたりの目と目は合わなかった。

 小蘭が声のした方に振り向くと、林の小路を息せき切って走ってくる慶文が見えた。


 彼は小蘭のところまで来ると、庇うように少女と小蘭の間に立ち、言った。

華蓉かよう妃様! この娘は子宇様直属の者です! 貴女様といえども無体な仕打ちは許されませんぞ!」

 その語気の強さに少女――華蓉妃は少しひるんだようであった。が、すぐに持ち直して、慶文にうそぶいた。

「ふん、礼を知らぬそやつを教育しておっただけのことよ」

 悪びれない少女は、そう言ってそっぽを向く。

 小蘭は、この鼻持ちならない少女は華蓉妃というのか、覚えておこうと思った。


 慶文は落ち着いた、ゆっくりとした口調で言う。

「華蓉妃様。噂では貴女様は日常的に宮内で、至尊の色の衣を羽織っておいでだとか。あくまで噂の範疇であれば良いのですが、そのような振舞いが実際に行われているとすれば、大問題になりますぞ。貴女様はご自分の――」

 慶文の言葉が終わる前に、華蓉妃はくるりと身をひるがえし、鴝鵒宮の方に歩み始めた。

「慶文、間抜けな飼い犬のしつけは主人の務めぞ。子宇に良く言っておくのだな」

 と、後に言い放って。


 間抜けな飼い犬、と言われた小蘭は、

「な、なな、なんですってえ~」

 と頭から湯気を出し、憤懣ふんまんやるかたない様子であったが、慶文から、

「小蘭、帰りますよ」

 と促されて、頬を膨らませつつその場を離れた。


 鴝鵒宮が木陰に隠れて見えなくなるまで離れたとき、小蘭は不満を爆発させた。

「あの女、何様よっ! 華蓉妃と言ったわね! ムカつくうっ!」

「小蘭、怒気を収めて下さい。あの華蓉妃様は本当に可哀想な方なのです」

「可哀想? はッ、飢えたこともない奴が可哀想だなんて、とても思えないよ!」

「いえ、あの方は飢えを知っている筈です。西方辺境の出ですから」

「へ?」

「まあ小蘭、何はともあれ無事でよかった……」

 その慶文の安堵した表情と声に接して、ようやく小蘭は冷静に考える余裕が出来たのだった。


 小蘭は歩きながら自問した。

 あのとき、自分は何をしようとした?

 慶文に声を掛けられなければ、あの生意気な華蓉妃は今頃どうなっていたのだろうか?

 頭が冷えると、とんでもないことをしようとしてたのだと思い至った。

 夏だというのに小蘭は身震いをし、両肩を自分の手で抱いた。

 前を歩く慶文の背中を見ながら、この男が自分と華蓉妃の間に割って入ったのは、もしかするとあの少女の方を守る為だったかもしれないと、今になって気付いたのだった。慶文も小蘭の龍眼の威力を知っているのだから。

 

 内侍尚の執務室に戻り、小蘭が慶文から手当てを受けていると、ちょうど子宇も戻ってきた。そして小蘭の頬の傷を見ると、呆れたように言った。

「どうしたんだ、その傷は? お前、またドジ踏んだのか」

 その言い方にむっとした小蘭だったが、慶文が傷が出来た理由を説明をする。

「華蓉妃様に鞭で叩かれたのですよ、子宇様」

「何だと⁉」

 子宇の表情が厳しいものに変わった。

「お前、鴝鵒宮に行ったのか」

「いなくなった妃の行方を追っていたら、そこにたどり着いたのよ」

「鴝鵒宮に……そうか……」

 

 そうつぶやいて子宇は、それっきり動かなくなった。

 物思いに沈む宦官をじっと見ていた小蘭に、慶文が声をかける。

「はい、終わりましたよ小蘭」

 軟膏を塗り終えた小蘭の頬には、蚯蚓みみず腫れが出来ていた。

 その傷は二、三日は残るだろうが、この程度で済んだのは、華蓉妃の使っていた鞭が柔らかかったことと、彼女が非力だったことが幸いしていた。


「慶文には助けられたね。ありがとう」

「いえ、元はと言えば私の不手際ですから。」

「ホント、助かったよ」

 小蘭は二重の意味でお礼を言ったのだった。

 ふたりは笑い合った。


 そのやり取りを面白くなさそうに眺めていた子宇は言った。

「お前、今日はもう休め」

「え? 捜索はどうするのよ?」

「鴝鵒宮が絡んでくるとなれば、私の独断ではこれ以上事を進めることは出来ん。上にお伺いを立てなければな」

「はああ、アンタ偉そうにしてるけど、いちいち許可をもらわないといけないの?」

「ふん、世の中はお前の頭の中と違って、色々と複雑なんでな」

「ああ、そうですか。はいはいどーも」

 そう言って小蘭は椅子から立ち上がった。


「じゃあ慶文、今日はありがとう。また明日ね」

「はい小蘭も気を付けて」

 小蘭は笑みを浮かべて、部屋を出ようとした。

 ふたりをじっと見ているうちに、いつしか不機嫌な気分になっていた子宇は、小蘭に言葉を投げかける。

「おい、その顔の傷には気を付けろよ。お前も一応、女なんだからな」

「はあ? アンタ何言って……」

 小蘭が振り返り、子宇はさらに言葉を重ねた。

「それでなくてもお前は瘦せぎすで洗濯板なんだからな。このうえ顔に傷でも付いたら、それこそとつぎ先がなくなってしまうぞ」


 そう言いたいことを言って、子宇はすっとその場を去っていった。

 あとにはぽけっと口を半開きにした小蘭と、頭を抱えてうつむく慶文が残された。

 熱さがようやく脳みそに届いたのか、子宇が言い残した言葉の意味を理解するにつれて、小蘭の顔が紅潮していった。そして大きく息を吸い、

「ふふふふざけんなあああっ!」

 と怒鳴って壁をがん! と思い切り蹴飛ばした。


 その怒鳴り声が子宇の耳に届いたかどうかは、定かではない。

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