前三 子宇、色々な問題に頭を痛める
小蘭が子宇の下で働き始めて、早くもひと月が経とうとしていた。
その間、彼女はひたすらに書類と格闘していた。
連日連日、慣れない仕事でこき使われていれば、段々と疲労が溜まってくる。
小蘭は身体を使う労働は苦にしなかったが、事務処理と子宇の細かな(うるさい)指示を受けているうちに、
そうすると、気持ち的にも荒んできて仕事も雑になる。雑な仕事をしていれば子宇からお叱りの言葉が飛んでくる。するとさらに精神的疲労が溜まるという、悪循環に陥った。
「そこ。そうじゃない。一昨日教えたやり方で記述するんだ」
「うう……」
「簡単な計算を間違えているぞ。ちゃんと確かめろ」
「うううう……」
「字が汚いぞ。読む者のことを考えて、綺麗に書く癖をつけるんだ」
「……」
「全く、お前は今まで何を聞いていたんだ。本当にやる気があるの――」
「うがあああーーー! やってられるかあーーー!」
小蘭が両手をばーんと跳ね上げると、書類が紙吹雪のように空中に舞った。
これには子宇も意表を衝かれて、思わず黙り込んでしまった。が、すぐに気を取りなおして小蘭に言う。
「お、お前自分が何をやっているのかわかって――」
「あーーーもーどうにでもしなさいよっ! 車裂きでも火あぶりでも好きにしろーーー!」
床に大の字になってばたばた騒いでいる小蘭を見て、子宇は絶句した。
「まあまあおふたりとも、お茶でも飲んで一休みしましょうか。小蘭、饅頭を持ってきましたよ」
「饅頭!」
小蘭はがばと跳ね起きると、視線は慶文が持ってきた饅頭に釘付けとなった。
そうして素早く椅子に座ると、ぴんと背筋を伸ばして姿勢を正す。
「小蘭、散らかした書類を片づけてからお茶ですよ?」
慶文がそう言うと小蘭は「はいっ」と実に良い返事をして、床に散らばっている書類をてきぱきと片付け始める。
それを見て子宇は頭が痛くなった。
深夜。
ほとんどの部門で業務が終わり、内侍尚の建物内では深閑とした空気が流れていた。そんな大部分が暗闇に包まれる中、明かりが漏れている一室があった。
子宇の執務室である。
そこではその部屋の主と忠実な侍従が、膝を突き合わせて話し合っていた。
「――で子宇様、あの娘を一体どうなさるおつもりで?」
「……正直決めかねている」
「だから、色々なことを試しているのですか?」
「まあ、そうだ」
「ですがあの娘は、事務方には不向きでしょう? 性格的に」
「まあな」
子宇は昼間の小蘭の振る舞いを思い出して、ため息をついた。
「
「あれは軍隊には向かない。やはり性格的にな」
その答えを聞いた慶文は、我が意を得たとばかりに笑顔で進言した。
「では子宇様個人の護衛役が最適ですね!」
「あれに私の身辺の警護をさせるというのか⁉ ありえんっ!」
子宇は思わず立ち上がって、だん! と机を叩いた。
「そうですか? 案外献身的に、身を守ってもらえるんじゃないですかね?」
「馬鹿なっ! 刺客と一緒になって、寝首を搔かれるのがオチだ!」
その言葉を聞いて、ふふと慶文が笑う。
「おい、何故そこで笑うんだ?」
「いえ、随分と子宇様は小蘭を気にかけているなあと」
そこで子宇は押し黙った。これは慶文にからかわれているのだと、やっと気づいたのである。
子宇はむすっとした顔で椅子に座り直した。
ぺらりと机の上の書類を一枚めくる。その表情が曇った。
「またひとり、下妃が懐妊したのか」
その報告書には今月下妃のひとりが妊娠したこと、その彼女が
「これで鴝鵒宮の妃数は何人になったのだ?」
「十二名です、子宇様」
「十二名だと⁉ 上妃たちと同じ数になってしまったではないか! 一体奴は何を考えているのだ⁉」
「そう言われましても、それが彼の唯一の特権ですから」
ふう、と息をつくと子宇は確認するように言った。
「勿論、全員が納得しているのだろうな?」
その問いに慶文は、ちょっと困ったような顔つきをして答えた。
「それが……ここにきて何人かの妃が騒ぎ始めたのです。私はこんなことの為にここに来たんじゃあない、と」
「だろうな。だが合意の上なんだろう?」
その子宇の問いに、慶文の表情は困ったままであった。
「合意せずにやったのか⁉」
子宇は目を瞑って天を仰いだ。
それが本当ならば、その妃がだまされたと激怒するのも無理はない。だが、
一度あの宮に入れられた妃は、一生そこから出られない決まりだった。
この国の負の部分として歴史に記されずに闇に消えゆく、まさに暗部であった。
小蘭が駄々をこね、子宇が後宮の問題点に頭を痛める日常が続く――
そんな中、ひとつの事件が起こる。
後に後宮を揺るがす大事件に至る、端緒のごく小さな事件だった。
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