前終 小蘭、帝に出会って一言つぶやく

 実習もふた月目に入って、一週間が過ぎた。

 当初は予想外のことを言い渡されて、混乱していた見習い宮女たちだが、すぐに肚を据えなおして与えられた仕事に向かっていった。脱落した者は皆無で、その結果に指導官たちは満足したのだった。


 小蘭たちは長らく続いた下水処理から解放され、今は宮殿及び周辺部位の清掃を命じられていた。

 あの一件から若荏は秀麗たちと仲良くなり、一緒にお茶をしたりする仲になっていた。当然その中に小蘭は入っていない。


「はあ~、世の中って理不尽だよね。努力したひとが報われないなんて……」

「え~、努力は報われるよ? 諦めなきゃ夢はいつかかなうと思うよ?」

「……梓明はいつも前向きだね。アタシゃもう終わりだあ~」

 そう言って小蘭はぐたっとする。

「春蘭~、だれちゃ駄目だよ。仕事中なんだから」

「真面目すぎる! 梓明はもっと怠けるべきだっ!」

「何わけのわからないこと言ってるの? さ、仕事を頑張ろう」


 回廊の手すりや柱、梁などのほこりや蜘蛛の巣を取り除いてから、丁寧に拭き掃除を進めていく。

 小蘭たちの居場所は、地獄から天国へと大幅に改善された。

 代わって最初に軽作業を割り当てられた組は、徐々に重労働になっていき、例の汚物処理を命じられた組の少女たちは、やはりというべきか食堂で皆から遠巻きにハブられる憂き目にあうのだった。確かに傍で嗅ぐと、凄い臭いである。

 幸いにも、最悪の労働環境から逃れられた小蘭たちの嗅覚は、正常の働きに戻ったようである。 

 いやはや因果は応報するものだねえと、小蘭と梓明は頷きあうのだった。


 と。

 小蘭たちが回廊の次の場所に移動して、さあ掃除を始めようとしたときに、遠くからじゃーん、じゃーんという銅鑼どらの音が小さく聞こえてきた。その音は徐々に大きくなってくる。

 小蘭たちと周りにいた宮女らは、急いで回廊の両端に整列してひざまずいた。そして皆額を床に付けて、そのままの姿勢で動かなくなった。

 帝と皇后に対してのみ行われる稽首けいしゅ(額を地に着ける)礼である。

 銅鑼の音が段々と大きくなり、ひとの行列が近付いてくる。

 小蘭はこれが帝の一行が移動する際の作法だと教えられていた。


 銅鑼の音は先ぶれである。

 帝は銅鑼だが、皇后はしゃんしゃんという鈴の音と決められていた。三夫人もまた皇后とは別な鈴の音を持っているのだ。誰が近づいてくるのか、音だけで判別出来るようにする為の配慮である。

 後宮に務める宮女たちは、ある階級以下の者は帝と貴妃たちを直視することは絶対に禁止されていた。下賤な者の視線で、尊きお方たちを汚してはならないということである。

 この禁を犯した者は首がとんだ。職を失うということではなく、物理的に首がとばされたのである。


 ひんやりとした床に額を付けて、待ち受けている小蘭のすぐ側を帝の一行三十人ほどが移動していく。

 まず先頭の銅鑼の音が通り過ぎて、続いて厳つい規則正しい足音もまた小蘭の頭のすぐ先を過ぎていく。おそらく帝直属の保介ほうかい(護衛兵)だろうと小蘭は見当をつけた。

 そして――

 その中に帝とおぼしき気品ある気配を小蘭は確りと感じ取ったのだ。その姿は当然目に出来ないが。


 それは小蘭が想像していたような覇気のあるものではなく、尊いものではあるが、一国の頂点としてはいささか弱々しく感じられるものだった。

 その気配は小蘭から段々と離れていき、そのあとに軽い足音(これはお付きの侍女や宦官だろうと彼女は推察した)が続き、最後にまた力強い靴音(後備の保介らしい)が過ぎて一行は去って行ったようだった(未だ額を床に着けている為に、直接は見れない状態)。


 徐々に銅鑼の音は遠ざかり、遂にその音は聞こえなくなった。

 若荏が「もう宜しい」と声を発すると、それまで跪いていた宮女たちは顔を上げて各々立ち上がった。そして清掃作業を再開する。

 小蘭が見回しても帝の一行の姿はもうなく、痕跡もなかった。

 彼女はさっき通り過ぎたのは、本当に帝だったのだろうかと、首を傾げたのだ。


「ほらほら春蘭、きょろきょろしないで仕事しよ」

 との梓明の催促の言葉に小蘭は、

「あ、はあい……」

 と生返事で答え、帝の一行が去ったとおぼしき方向を見据えた。


 小蘭は現在、自分がここにいるのは姐の病気という、ただそれだけの偶然の産物だと思っていた。そして期間が経てば、お役目は終わりとなり故郷に戻るのだと、そう信じていたのだ。

 だが、どうだろうか。

 今、自分が考えていることを実行してしまえば、本当に以前のように過ごせるのだろうか。それは余りにも楽観的すぎないかと、考えをあらためるようになったのだ。

 小蘭はため息をついた。

 そして周りにひとがいないのを確認してから、ぼそりと小さくつぶやいたのだった。


「あのひとをころさなくちゃいけないのかあ……」

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