前七 小蘭、宮仕えの洗礼を受ける

 見習い宮女たちの実地研修が始まった。

 その中で小蘭たちの組は、最もきつい仕事が割り当てられた。若荏をやり込めたしっぺは強烈に返ってきたのだ。

 下水道の汚水処理を命じられた。奴婢たちも嫌がる、最も汚い仕事である。若荏という女狐(小蘭が命名)は、やられたらきっちりとやり返す主義らしかった。


「うぎいい、臭いが目にみて痛い~」と涛瑛が泣き言を言えば、

「これは小説でも描写しきれない酷さだわあ」と珊妙が力なく返す。

「気が……臭さで気が遠くなる……まさに陥穽かんせい……」と雨依が茫然自失につぶやいている脇で秀麗は、

「こ、この服、奴婢用の粗布で出来てるじゃない! こんなものを着せられるなんて……はじだわ……」

 と、この場に至っても用意された服装にこだわっていた。


 小蘭はそんな秀麗のことを感心した目で見た。

「う~ん、あれはある意味大したものだわね。全くぶれてない……」

 小蘭は隣でせっせと掃除に励んでいる梓明に声をかけた。

「梓明、ごめんね。アタシのせいでこんなことさせられて」

 梓明は手を止めずに笑顔で言った。

「んん。小蘭には感謝しかないよっ。だって小蘭のおかげで後宮ここに残れたんだから」

「そう言ってもらえると、気が楽になるけどね」

 傍らでひーひー言っている四人組は当然の報いとしても、真面目な梓明までとばっちりを喰うのは、何かおかしいんじゃないかと小蘭は思うのだ。


 それから五日間、小蘭の組はひたすらに汚物処理をやらされた。

 小蘭と仲間たちは若荏の粘着性に辟易しながらも、文句をつけられないように仕事をこなしていった。いつしか汚物の酷い臭いは、それほど気にならなくなっていた。ひとの順応性というものは馬鹿に出来ないのである。

 だが。


 見習い宮女たちは大食堂で一斉に食事をとる。食事が出るのは朝と夕の二回だった。その際は組ごとに同じ食卓で食事をするのだが、何故か小蘭の組の周りからはじりじりと、常にひとが遠ざかっていった。例え食堂内がどんなに混んでいてもである。

 理由は勿論――


「どうして皆さん、私たちを遠巻きにするのかしら?」

「成績上位者というのは、常時狙われるもの。謀に気を付けないと」

「通俗小説に照らしてみると、これは私たちは明らかにハブられていると出たわ」

「誰も協定を結んでくれないのっ! 私が近づくと皆逃げるのよっ」


 そりゃそうだろうと小蘭は思った。

 彼女らは慣れてしまって気付いていないが、自分たちは今、とても酷い悪臭を周りにばら撒いているのだ。

 風呂は下級宮女ならば、三日に一度は入れるきまりである。

 後宮ここには昔から湯が湧き出る源泉があり、それゆえに最初に後宮を造った緑耀帝は、この場所に決定したと伝えられていた。それで末端に至る奴婢たちにもその恩恵が与えられ、他所にはない頻度でお湯につかれるのである。


 それだけ恵まれていても下女、奴婢らが風呂を使えるのは一週間に一度だった。現在の小蘭たちの立場は奴婢のそれであるから、自然と待遇もそのようになる。

 したがって小蘭ら見習い宮女たちは、ここに来てからまだ一度も風呂に入っていなかったのだ。結果、仕事で染みついた臭いは取れない。

 そうした彼女たちに対する周囲の同輩の反応は、先に述べた通りである。


「梓明は臭いは大丈夫なの?」

 ひとりおいしそうにご飯を食べている梓明に、小蘭は訊ねてみた。

「ん~、好きになれない臭いだけど、気にしてもしょうがないし」

「大物だ!」

 小蘭はこの普段ほんわかしている梓明に、たくましさを見た。

(自分の肩に、家族の命が掛かっているひとは強いなあ)


「で、あいつらの様子はどうなんだ?」

 子宇は内侍尚内に設置された自分の執務室で、報告者にそう質問した。あいつらとは小蘭を含む、成績優秀者六名のことである。

「今のところ何とか我慢してやっているようですが、遅かれ早かれ彼女らは音を上げるでしょう」

 子宇は報告に来た若荏の物言いに、若干の引っ掛かりを感じた。若荏は優秀な女官だが、いささか自尊心プライドが強すぎるきらいがあると、彼は認識していた。

「若荏、あいつらに対して余計なことはやってないだろうな?」

「勿論で御座います。全ては子宇様の御心のままに」

 (しごいておりますよ)

 と若荏は、胸の内で密かに付け加えた。


 さらに二週間が経った。

 秀麗は才色兼備の良家のお嬢様だが、その彼女が下水道の隧道内部で汚物相手に奮闘している姿は、凄絶ともいえる光景であった。

「もう何でもござれですわよっ! おっほほほっ」

 彼女は半ばやけくそになっていた、というのが本当のところなのだが。

「謀が汚いのは重々承知。だけどそれは現物のことじゃない……」

「うら若き乙女を虐める通俗小説があるのは知っているけどもさあ……汚物まみれってのはいささか変質者マニアック狙い過ぎじゃない?」

「気乗りしないけど、あの指導官と協定を結ぶ手立てを早急に考えるべきよお~」


 騒がしい四人組からちょっと離れたところで、小蘭と梓明は作業をしていた。

「あんの女狐~。何時まで根に持つつもりだ!」

 小蘭はむかむかしながら、柄杓で汚物を汲み取る。がぽん。ばしゃっ。

「春蘭、仕方ないよお。馘にならなかっただけ、運が良かったと思わなきゃ」

 それとは対照的に、梓明はあくまでも謙虚だった。彼女は耐えることを知っているのだ。


 しばらくは黙って作業していたふたりだが、手を止めて唐突に小蘭は叫んだ。

「決めた! あの女狐を泣かせてやるっ!」

 その言葉に他の五人が一斉に顔を上げる。

「だっ、駄目だよう~。また変なことをしたら、今度こそ馘になっちゃうよお」

 梓明はそれを止めようとしたが、小蘭の気持ちはすでに固まっていた。

 あの女に仕返ししてやるのだ。


 小蘭はこの汚物処理の仕事は、完全に若荏の私怨であるとわかっていた。彼女は多少のことは我慢しようと思っていたが、もうすぐひと月が経ってしまうのだ。いくらなんでも酷すぎる仕打ちだと思った。とはいえ、もう六名全員がこの環境に順応してしまった悲しい事実があるのだが。


「大丈夫大丈夫。アタシに任せて!」

「春蘭~……」

 小蘭は爺から「とりあえず『大丈夫大丈夫』と言っときゃええ」と教わった通りの言葉セリフを吐いた。梓明はそれを全く信じていなかったが。

 そして小蘭は、どのようにあの女狐を罠に嵌めようか、と考え始めたのである。

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