第8話

 摩羅上街(キャット・ストリート)の入口についたタイセイは、店が立ち並ぶ方向を恐る恐るのぞいてみた。

 彼女の姿はなかった。当たり前の結果に、ただうなずくタイセイ。それは、見方によれば、何かを自分に言い聞かせている仕草と言えないこともなかった。

 さて気持ちも新たに、次の街へ行くかと摩羅上街(キャット・ストリート)に背を向けた瞬間、遥か遠方の道端でスケッチブックを胸にだきかかえ、途方に暮れたようにしゃがみこんでいる彼女を視界の端に捉えた。

 キッチュな雑貨に心を奪われて、タイセイを見失った彼女は、せっかくきれいに付けた眼帯もはぎ取って、彼を探して走りまくったに違いない。汗ばんだ額と乱れ気味の髪、そして息で大きく上下する彼女の肩がそれを物語っていた。


 継母と連れ子の姉たちにメイドとして奴隷のようにこき使われ、結局、舞踏会に行けず、家の屋根裏部屋に取り残されたシンデレラ。落胆するエラの姿は、なぜがタイセイにそんなイメージを想起させるのだった。日本流に表現すれば、わずかではあるが、彼女に情が湧いてきたというところだろうか。もっとものちに彼は、そんなおとぎ話をイメージしてしまったのは、香港に来る途中で全日空の機内で観た映画のせいだとぼやいてはいたが…。


 タイセイはうずくまるエラに近づくと大きくふたつ咳をした。

 その音につられてエラが顔を上げる。その視線の先にタイセイをとらえると、もしかしたら泣いていたかもしれない潤んだ瞳に、パッと灯が灯った。実はタイセイのまったくの勘違いであった確率が高いのだが、男は本当に馬鹿だから、こんなことで簡単に警戒という名の扉のロックを開けてしまうのだ。


 エラは跳ね上がるように立ち上がった。

 タイセイは彼女に近づくと、また、優しく彼女の瞳をチェックし、眼帯をセットしなおす。そしてそれをやり遂げると、何も言わずに回れ右をして歩み始めた。今度の彼の歩みは、ゆっくりとしたものだった。その背は、エラについておいでと語りかけていた。


 新街(ニューストリート)、普仁街(ポーヤンストリート)、そして太平山街(タイペンサンストリート)へ。タイセイは歩みを進め、エラはその背に従っていった。


 新街(ニュー ストリート)は、ギャラリーからレストラン、アンティーク家具など、香港の新鮮な感覚が集う隠れ家スポット。

 高級志向の人々は、セントラルに留まり、歩ける距離ながらここまで足を伸ばしてこない。だからだろうか、ストリートはリーズナブルでアットホーム、そしてお得な発見がある香りがしてくる。


 新街(ニュー ストリート)から進み、普仁街(ポーヤン ストリート)に入った交差点。交差点といっても車が往来するような交差点ではないのだが、360度見渡しても楽しい景色が広がる。

 交差点の角に何やらおしゃれなお店。そのまま進行方向をみれば、お寺らしきものが数件。山側には、のどかな風景。こんな場所をエラが喜ばないわけがない。

 さっそくスケッチブックを取り出しては、鉛筆を走らせていた。タイセイは、今度はエラを見捨てることなく、近くの縁石に腰を掛けて、エラがスケッチをしている様子をのんびりと眺めていた。

 しばらくして、我に返ったエラが慌ててスケッチブックを閉じて、きょろきょろタイセイを探す。そして縁石に腰かけている彼と目が合うと、エラの瞳がくりっとひかり、タイセイはまたゆっくりと歩みを進めはじめた。

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