第10話 休日(4)
晩飯を食べ終わり、風呂の時間になる。運動したからということで、俺が最初、松川が二番目、そして佳乃子が最後という順番になった。
「ふうー」
お湯を張った浴槽に肩までつかり、深く息を吐く。特段取り上げるべきことではないが、風呂は俺にとって、日々の中の贅沢だった。
まず、ひとりになれる。
普段生きていると嫌でも人が目に入る。そうすると、まず、相手の視線を意識する。すれ違う人に対してさえも、だ。21年間で自意識だけは立派に成長したから、こればっかりは治らない。
つまり、人が視界に入ると俺のパーソナルタイムは音を立てて崩れ去るのだ。
別にいつもひとりでいたい、というわけではない。俺だって時々は人と話したい。というか、俺はコミュニケーション自体を嫌悪しているわけではない。ただ、いつもそうやって対人関係に気を張るのが嫌いなだけである。わがままだが、ひとりの時間も欲しいし、人と一緒の時間も欲しい。佳乃子はそのあたりの俺の要望をよく分かってくれているらしく、ちょっかいかけてくる頻度もさほど高くない。ありがたい。
次に、考えごとに集中できる。
その日一日あったことを振り返って、あれはどうだ、これはこうだ、といったことを考えることができる。そうして得られた何かを、明日からの人生に生かす。無論、実際に生かせたことは一度もない。
今日一日あったこと……。
「松川、ちゃんと馴染めるかな……」
俺が言えた義理ではないが、やはり松川は人づきあいが少々下手らしい。過度に干渉されると、そのうち堪忍袋の緒が切れる……気がする。それに対してどうこういう権利はもちろん俺にはないが、それでもやはり、サークルに誘った人間としては、相手がきちんと馴染めるか、馴染めなかったとしても深く傷つかないか、こればかりは気になる。
「まあ大丈夫だろう」
根拠もなく言ってみる。閉ざされた密室の中で、言葉は反響して水へ溶けていった。
浴槽を出る。
扉を開ける。
そこに、松川がいた。
「あ……」
「……」
固まる二人。どちらも、今起こった出来事に対して脳の処理が追い付いていないようだ。
最初に動いたのは俺だった。あられもない姿をさらけ出した息子を手で隠す。情けないもの見せてすみませんでした。でも、小さいんです、俺の……。
「す、すみません……」
「こちらこそ……」
再び変な沈黙が流れる。
「……あのさ、出てってくれないか?」
「え?」
え? じゃなくて。流石に出ていってくれないと俺が身動き取れないし。
「そ、そうですね! 失礼します!」
なぜか頭を下げて出ていった。
なんだったんだ、今のクソイベ……。ラッキースケベなら普通逆の立場だろうが。初めて女の子に裸を見られてしまった。
ボーっとしていると湯冷めをするので、早めに頭を拭いてドライヤーで乾かしてから部屋に戻った。
松川と佳乃子は隣の部屋でガールズトーク?に花を咲かせているらしい。佳乃子のテンションも上がっているのか、普段よりも少しだけ声がやかましい。読書とネットサーフィンの支障になるからできれば音量を下げてほしいが、大学に入ってできた友達と遊んでいるのだから、声がデカくなるのも無理はない。そこまで無理強いする理由も権利は俺にない。
そんなこんなで、漫画を読んだりSNSを眺めていたりして時間を過ごす。『だらけきった生活! 日本の大学生はなぜ堕落するのか?』と新聞記事にでもなりそうだが、俺の場合普段講義やらで神経が張り詰めているのだから、家での時間くらい思いっきりだらけたい。ほめられたことではないかもしれないが、この時間は俺にとってのゴールデンタイムなのだ。
「もう10時か……」
そろそろ歯を磨こうか。などとベッドから立ち上がった時、隣室の扉が開いて、その間から、松川が顔を見せた。心なしか気まずそうな表情を浮かべている。
「あ、あの……少しお邪魔してよろしいですか?」
「ん? ああ」
「失礼します」
松川はおずおずと部屋に入ると、カーペットの敷かれた床に座った。絨毯があるといってもフローリングなので脚が痛くなるだろう。
「ベッド、座っていいぞ」
「いや、でも……」
俺と並んで座るのが嫌なのかな? なんか泣きそうになってきた。
松川は遠慮していたが、結局隣に座った。よかった、嫌われてないっぽくて。
「さっきは、その、すみませんでした」
開口一番、謝罪の言葉が発せられる。
「いや、別に謝ることでもないだろ。見られたら死ぬもんでもないし」
「でも、逆の立場だったら私、すごく怒ってたと思います」
「まあなあ……」
俺は女ではないので分からないが、男と女だったら、貞操観念が固いのは女性の方だろう。男なんて真冬でもふんどし一丁で神輿担いでるし。見られたらいけないものが少ない分、心理的な抵抗はない。
「そりゃ女の子だからな」
「……あの、私、そういう『男だから』とか『女だから』とかいうの、あまり好きじゃないです」
ジェンダーレス、いわゆるフェミニストというやつだろうか。が、日本においてフェミニストは幾分蔑称の意味合いが強いし、目の前のけなげな女の子にその汚名を着せるのは酷だ。
「悪かった」
「いえ。わがまま言ってすみません」
「別に。俺だってそんなことにこだわる理由がないからな」
「うふふ」
松川が笑った。
控えめだったが、確かに笑ったらしい。松川らしい控えめな微笑みである。
それを隠すそぶりもなく、目をニヤつかせたまま
「先輩って、ちょっと変わってますよね」
「……よく言われる」
「別に、悪い意味じゃないです。私も少し世間とズレてるところがありましたけど、先輩はそれ以上ですよね」
「自分に忠実に生きているだけだよ」
人脈が狭い俺は取り繕う必要もないからか、そう見えるのだろう。
「言ってみただけですよ」
「そうか。で、話はそれだけか?」
「それは……その……」
なぜか、松川がもじもじし始める。そんなに言いづらいことなのだろうか。
ややあって、
「私、あまり友達が多くないんです。ちょっと仲良くなっても、すぐにぶつかり合って険悪になっちゃって……でも、先輩とお話ししていると、こっちが少し主張してもすぐに折れてくれるので、あの、自分勝手なんですけど、居心地がいいなあって思って。だから、これからももっと仲良くしていきたいです。以上です」
「おお……」
なんか、漫画みたいな自己開示をされてしまった。それを受け入れるだけの度量は俺にないぞ? すぐ折れるのだって、ありていに言えば、面倒ごとが嫌いなだけだし。
とりあえず松川の自己開示は横に置いておくとする。
「俺もぜひよろしく頼むよ。ついでに佳乃子とも」
「何言ってるんですか。佳乃子が本命で、先輩はおまけですよ」
「お前……」
「冗談です」
小悪魔めいた微笑を浮かべる。こいつ、こんな顔もできたのか。なんだかこの松川彩音という存在について、俺も何かしら究明したくなってきたぞ。こんなに人に惹かれたのは初めてかもしれない。
これからは、もっと生活に彩が生まれるのかもしれない。そう思うと、もう大学三年生ながら、新入生なみに心がときめいてしまう。いいことだ。心はいつだって若く保っておかないといけないのだ。
「じゃあ、私はそろそろ寝ますね」
「佳乃子が大人しく寝かせてくれるとは思わんが」
「じゃあ、その時は先輩の部屋で寝ます」
「俺が気まずいわ……」
最近の女子のそういうところ、よくわからない。
「冗談です。では、おやすみなさい」
「おやすみ」
扉が閉まる。時計を見ると、22時半になっていた。思いのほか話し込んでいたようだ。
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