第5話

「二人はいつも、周りの空気の波長に合わせて、歌を歌うって言ったよね」

「それは、合っているようでもあるし、間違っているようでもあるわね」

「すごく感覚的なものなの。言葉にするのは難しいし、その時々で変わるから、呪譜に残すこともできる」

「わかったよ。いつもの二人や、エヴァランを意識しながらやってみる。——そうだ、窓を開けてみてくれる?」

 窓を開けると、夜気を含んだ風がさらりと部屋の中へと吹き込んできた。ウィルは、目を閉じ、風の音に耳を澄ませながら、そっと手首から腕輪を抜き取る。

 ウィルが歌いだすまでには、だいぶ時間がかかった。一声歌ったと思えば、瞬時に変わる空気の流れを終えず波長がずれて台無しになることを繰り返した。

 そうして何度目かの試みで、それは果たされた。

 完璧な周囲との調和。その歌声が細やかに長く続くと、盆の中の水に変化が現れた。ゆっくりと、しかし確実に目でわかる速さで、水と泥とに分かれていく。

 それは、無理やりに泥を消してしまうのではなく、水と泥とをわけて、水本来の清らかさを上澄みに創り出す魔法だった。

 思わず微笑んだウィルの目の前で、水は完全に清らかな水へと変わった。ウィルは、それに口づけて飲んでみた。

「水だよ。完璧な水だ」

「気分はどう?」

 前のめりになって尋ねたシルヴィアに、ウィルは笑った。

「悪くなってないよ。むしろいいくらいだ」

「信じられない……。それじゃ、私たちの魔法と、ユニコーンの魔法はまったく別物ではないというわけ?」

「まったく別物なんだとは思うよ。でも、人間が使えないわけじゃないってことはこれでわかったね。……初代の王の魔法は、きっとこの魔法を使っていたんだ」

「どうしてそんなことを言えるの?」

 レイラが尋ねると、シルヴィアが後を引き取った。

「エヴァランは、人間の魔法は不自然で、自然を破壊する、と言っていたわ。それが真実なのだとしたら、そんな魔法を使う人間を、他の六つの種族が慕うと思う?」

「思わないわね……」

「父上は、これを知っているのかな? 僕たちの魔法が、ほかの種族にとっては毒にもなるもので、いまも彼らを脅かしていること」

「それを聞いても、陛下はたぶん何も仰らないでしょうね。こんな社会を根底から覆しかねないこと」

 シルヴィアの言葉に、ウィルはぐっと拳を握り込んだ。

「私たちにできるのは、せいぜいエヴァラン達が無事に逃げ切れるかどうかってことよ。……まあ、陛下の真意がユニコーンの魔法にあったのだとしたら、執拗に追いかけるようなことはなさらないでしょうけど」

 レイラの言葉に、シルヴィアは膝を立てて座り込み、頬杖をついた。

「エヴァランと言えば、オリヴィエのことが本当に心配だわ。きっと、ものすごく落ち込んでいるでしょうね」

「どうして? 作戦は無事うまくいったんだし、目が覚めれば喜ぶと思うよ?」

 ウィルの頓珍漢な言葉に、そういえば、とレイラとシルヴィアは顔を見合わせた。そうして、エヴァランとオリヴィエの種族の垣根を超えた特別な絆について説明すると、今度は驚愕の叫びが、深夜の後宮に響いた。


 翌朝、ユニコーンの群れが逃げ去ったとの一報が王国中を駆け巡った。原因は、ユニコーン付きの隊の管理不行き届きということになり、その筆頭者としてサンシャ・リヴァー隊長の名前と、降格処分の旨が記されていた。そして代わりの者たちが、捜索隊として派遣されることになった、とも。

 窓辺のベッドで、オリヴィエは眠っている。真っ白なシーツとは対照的に、オリヴィエの髪は黒々とつややかで、夜の闇との境目がわからなくなりそうなほど。

 オリヴィエの眠りは、夢も見ないくらいに深い。それなのに、眠る彼女はとめどなく涙を流している。寝ている間でも忘れることができない、深い悲しみを胸に抱えているのだ。

 それは、父サンシャの不遇のせいではなかった。むしろ、この程度のことで、父がユニコーンに対してしたことが許されるわけではない、と思っていた。

 オリヴィエの胸の中を占めているのは、ただひたすらにエヴァランのことだけだった。

 エヴァラン。人間の手が届かないところまで逃げ切っただろうか?

 エヴァラン。捜索隊に見つかってはいないだろうか?

 エヴァラン。苦しみや痛みを感じてはいないだろうか?

 エヴァラン……。つつぅ、とまたオリヴィエの閉じた瞼から涙がこぼれる。

 最後の最後、きちんとお別れを言うことができなかった。オリヴィエは、遠くに見かけた流星のように駆けていくエヴァランの最後の姿が、瞳の上に焼き付いている。

 あの鋭い角の螺旋のてざわり、虹色に輝く体毛の豊かなやわらかさ、甘噛みをするときの優しい口元。ぜんぶ、ぜんぶまだオリヴィエの肌は強く覚えている。一生忘れられそうにもなく、それらが恋しくて、愛おしくて、たまらなかった。

 昼間は、エヴァランのことを想って哀しんでいるのを、家族に悟られずにいるのが精いっぱいだった。けれども、一家は家長の突然の降格処分という不幸に慌ただしかったし、オリヴィエの沈んだ様子もそのせいだと思い込んでいたので、それ自体はそんなに難しいことではなかった。

 自分の内へと沈み込めば沈み込むほど、エヴァランとの思い出が生々しく胸中へと去来して、辛いことこの上なかった。思い出さずにはいられないのに、思い出すと鋭いナイフで胸を突かれたように痛む。そんなひとときは、もう永遠に訪れないのだという、その事実の為に。

 人間が、オリヴィエの父がユニコーンにしたことは、けっして許されることではない。今回の一連の出来事はあってはならないことだった。オリヴィエにとって、それは揺るがせないことだ。

 ——けれども、その一方で、オリヴィエにとって人生の至福のときは、誰の目からも隠れて、ユニコーンのエヴァランとたった、一頭と一人で過ごした時間なのだということもまた、間違いのない事実だった。

 これから一生、私はあの美しく気高いユニコーンの戦士を想いながら生きていくのだ。

 オリヴィエは、そう思い定めていた。そうして実際に、夜になると人知れず、こうして涙を流し続けている。

 それは、人々がユニコーンを忘れて、ユニコーンという存在がまた幻へと還っていった、ある一夜だった。

 オリヴィエの窓の外からかすかに、歌が聞こえてきた。少年が誘いかけているかのような歌声に、誰も触れていないのに窓が開いていく。

 風がやさしく吹き込んできて、レースのカーテンを揺らした。窓の向こうに気配を感じて、オリヴィエは目を開けると、眠たさが残る重い身体をゆっくりと起こす。

 何度かまばたきをしたあとで顔をあげると、オリヴィエはそこで見つけたものが信じられず、息をのんだ。

 そこには、エヴァランが立っていた。オリヴィエが、ずっと焦がれ続けていた、唯一無二の存在。少女は、そのエヴァランが幻ではないことに、すぐ気が付いた。なぜなら、オリヴィエの記憶の中にあるのとまったく同じ、やさしい眼差しで少女のことを見下ろしていたから。

 オリヴィエは涙で頬を濡らしながら、笑みを浮かべて手を伸ばした。

「私のユニコーン。むかえに来てくれたのね……!」

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