八階の草原 (6)


 だんだん、土のぬかるみがひどくなっていく。


 一歩進むにも転ぶまいと軸足を守らなければいけなくなるが、苦労はそう長く続かなかった。土と混ざっていた水はかさを増していき、くるぶしまでの水深になり、広大な池になった。


 ばしゃり、ばしゃりと革の長靴が一歩を踏み出すたびに、水面に、大きな波紋が重なる。時計を見れば、正午に近づいていた。太陽は空になかったが、太陽があるかのように真上から降り注ぐ光を受けて、水面がぎらぎら輝いている。


「見ろよ、ギズ。水が澄んでるな。飲み水が尽きて前に進めなくなるのはまだ先みたいだ」


「不運だな、マオルーン。そろそろ引き返したかったんだろ」


 「まあな」と、マオルーンは笑った。


「人食い塔だって話にもなったしな。これだけ上に登ったのは初めてだから、恐怖も感じはじめた。だが、孤塔に登って初めて森の階に出くわした時に感じたのと同じ恐怖で、緊張と武者震いでもある。今に慣れるだろう」


「そうじゃなきゃ、あんたは塔師じゃないね」


 ふとギズは、水の中を覗いて、前に進むのに水を掻いていた足を止めた。


「動くな。その場で待機しろ」


 後続にも声をかけ、足元を覗き込む。足はぴたりと動かなくなったのに、靴の脇あたりの水がそろそろと揺れている。水面にも、小さな波紋が次々と生まれ続ける。――探していたものだった。


「水源を発見。地中に泉がある」


「了解、ギズ」


 マオルーンが、さっそく背嚢リュックに手をかけた。


「荷物を下ろそうか。作業の邪魔になるし、濡れるだろう」


「そうだな。防水処置をしよう」


 背嚢リュックの中には防水布も用意されている。食糧と機材を守るのに背嚢リュックをまるごと防水布でくるんで、水中に沈めた。ついでに、休息をとることになった。


「あぁあ、疲れた。水を飲め、カシホ」


 背嚢リュックから外した水袋を互いの手に回して、池の澄んだ水で顔を洗い、汗を落とす。両手ですくった水を顔にかけながら、カシホは、歩き疲れて火照った顔を冷ましていた。


「気持ちいい――」


「疲れたか? 今のがきついと思ったら、孤塔を下りたら塔師になるのを諦めろ。この先、別の孤塔に登ってもまた『きつい』と思うだろうし、つまり、おまえには務まらねえってことだ」


 そう言っても、カシホは、水に濡れた白い頬を輝かせた。


「いいえ、ギズ教官。とても楽しいです。でも、自分に体力が足りないのはわかりましたから、孤塔を下りたら山岳地訓練を申し込もうと思います。たしか、休暇中の訓練生を募集していましたよね」


「休暇中に訓練かよ。クソ優等生だなあ」


 呆れて笑いながら、ギズは胸が痛むのを感じていた。


 顔を上げると、少し離れた場所から、リイトがカシホを見つめて微笑んでいるのが見える。離れているから、今の会話が聞こえていたかどうかはわからないが、カシホが笑ったから、それを見てリイトが喜んでいる――そんなふうに、ギズの目には見えた。


(こいつらって、なんか似てるよなあ。もともと似てたのか、カシホがリイトの夢を追ううちにあいつに似てしまったのか)


 リイトから目を逸らしてうつむくと、ぐびりと喉を鳴らして、水袋の水で渇きを癒す。


(――どうするんだよ、こいつ。休暇中の山岳地訓練なんて、そんなきついことを他人の夢のためにやってやる気かよ。この先も続けられるのかよ)


 「自分ならどうだろう」と考えれば考えるほど、「やめておけ。あいつのことは忘れろ」と、カシホを言い聞かせたくて、たまらなくなった。





「よし、やるか」


 休息をとると、ギズとマオルーンは目で合図を送り合う。七階の森で泉を見つけた時と同じように、長銃の準備を始めた。今回は、カシホも混じることになった。


「カシホ、ギズが入口を誘導して、俺が縫い止める。おまえの役目は、ギズと俺の動きを観察しきることだ。役に立てると思ったら撃て、邪魔になると思ったら撃つな。判断を間違えるな。追い詰める時は二割弾、縫い付ける時は針弾だ」


「はい」


 三人で水源の真上の空に向かって長銃を構えて、磁嵐を起こす。磁嵐は、銃声を合図に眠りから覚めた赤ん坊のように空で暴れるが、その動きを、さらに銃弾で操った。虚空で生まれた磁嵐は、池の水面を走ったり、遠ざかろうとしたり、素早い動きで前後左右に暴れ回ったりと、七階と同じことが起きる。


「塔室や森と違って周りに遮るものがねえと、骨が折れるな。逃がすな」


 ギズは舌打ちをしつつも、何度も銃の向きを変えて、磁嵐が銃弾の届かない場所へ飛び出る前に方向を変えさせる。ギズとマオルーンが磁嵐を追い込んだのは、池の水際だった。足元の水面に針弾が撃ち込まれて、磁嵐の動きが弱まり、風がやんでいくと、水面の真上に丸い穴が開く。穴の向こうには、黄色い砂が果てしなく広がる、広大な空間が覗いていた。


「おっしゃ、砂漠」


 ギズが歓声を上げる。


 穴の向こう側には、砂漠があった。砂は黄色く、砂丘のうねりも、風がつけていったはずの風紋も、光の反射の仕方も、どことなく記憶にある風景に似ていた。


「ジェ・ラーム砂海にそっくりですね」


 カシホが目を見開いた。マオルーンとギズは、苦笑した。


「ああ。おれたちの経験則だがな、孤塔は、上に登るとこういうただっぴろい世界に出ることがあるが、そこで目にするものはたいてい孤塔がある場所の過去の姿だ」


「過去の姿?」


「ああ。レサルでは、上に登った後に湖に出た。レサル地方一帯が大昔には湖だったからだろう」


「そして、孤塔を登るたびに時代が下がっていく――今の姿に近づいていく……」


 そこまで言って、マオルーンが唇を閉ざした。訝しげにギズを向いて、続けた。


「なあ、ギズ。もし俺たちが迷って疲れ果てた旅人だったら、目の前にジェ・ラームの砂漠が現れたなら駆けこんでいくよな。俺たちはここが孤塔の上だと知っているが、そんなことを知らない奴だったら、やっと戻ってこれたと喜んで、さらに前に進もうとするよな……」


 ジェ・ラームの孤塔の場合、はじめに現れたのは、王都を囲むハジェールの森に似た森だった。ここに迷い込んだ人だったらどう感じるだろうか? 先に進んで、万が一次の世界にたどり着けたら――さらに、記憶に新しいはずのジェ・ラーム砂海と同じ景観の場所に着いたら――。


「ってことは、この孤塔は、迷い込んだ奴が上に登りたくなるように――先に進みたがるように景観を変えてるってことか?」


 ギズが、震えるような笑いを漏らした。手首を見下ろすと、磁力計が目に入る。


「磁力計は八度半を指してる。磁制本能を持たない人間だったらまず倒れてる数値だ」


 やれやれ、と息をついた。


「先に進みたくなるが、進んだ先は罠か。とんでもない人食い塔だな」


 次に言葉を発したのはカシホだった。カシホは腰を低くして、足元に見入っていた。


「見てください、水がこぼれていきません」


 カシホが見ていたのは、次の世界へ続く穴の縁。針弾で縫い付けられた出入り口は、池の水面よりも低い場所にあった。でも、池の水は、見えない壁に捕まっているように宙で流れを止めている。穴の向こう側の世界――八階の次の階へあふれ出ていくことはなかった。


「砂漠の階のほうがここより上にあるからだろう。上と下の規則はあるらしいな」


「マオルーン教官、上と下の法則って? どういうことですか」


「俺はな、孤塔で確実なものは時間だけだと思っていたんだ」


「それ、イーシャルさんも言っていました」


 マオルーンは微笑した。


「三日滞在しただけの学者が気づくことを俺達が気づかないわけがないだろう。――ひとまず、拠点を作ろう。水質調査を済ませて、水を確保しないとな」 


 そう言って、みずからが先陣を切って、穴の向こう側――九階へと、足を踏み入れた。

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