八階の草原 (4)

 夜、寝袋にくるまって休んでいる間、リイトは上空にいた。カシホの身体から糸が伸びた凧のように、近すぎず、遠くもない場所に浮いている――と、眠りながらギズは、リイトの居場所を確かめていた。


(あいつがカシホに危害を加える気がないのはわかったが、口と腹が同じかどうかはわからんし、衝動的に何かするとも限らないし)


 ようは、リイトは、カシホだけを付け狙う刺客でもあるのだ。いくら本人が「そんなつもりはない」と言おうが、リイトは数日前に初めて言葉を交わした相手。可哀想だと同情しようが、言葉を鵜呑みにするつもりはなかった。


 カシホを守ろうとすれば眠りは浅くなるし、目を覚ますたびにリイトの位置を確かめる。おかげで、寝不足だ。


 荷物を背負い直して、「なら、行くか」と三人で歩き始めると、リイトもふわふわと浮いてついてくる。見つからないようにしているつもりなのか、岩があれば陰に隠れ、カシホの首が左右に動けば、さっと別の方向へ飛んで、死角に隠れた。


(隠れてるつもりなのか? あれで?)


 なら、もっと遠くまで離れればいいのに――と愚痴は言いたくなるが、リイトはリイトなりに姿を見られてはいけないと考えているらしい。


 一つ、気になることがあった。


 その日のリイトは、目の印象が少し変わっていた。


 泣き腫らしていた目元がもとに戻ったのかとはじめは思ったが、違った。


 わずかだが、背も伸びて、肩幅が広くなり、胸も厚くなった。着ている衣服ははじめから変わらず白い襯衣シャツと綿織りの筒服ズボンで、学生がよくする格好だ。襯衣シャツの襟には、レサル地方特有の刺繍が入っている。


(レサルの柄ってことは、死んだ時に着てた服なんだろうが――)


 「おかしい」と不気味に感じて、何度かリイトの姿を確かめた。でも、何度見ても、同じ衣装の内側で、リイトの身体は逞しくなっていた。


(昨日見た時はひょろいガキだと思ったのに。まさか、一晩で成長したのか?)


 後ろからついてくるリイトは、少し大きくなった身体を岩の陰に潜ませようと、しきりに腰を低くしている。仕草は幼稚だが、見た目は昨日より明らかに青年らしくなっている。


(根が真面目なんだろうなあ。おれ以外には見えてねえっつうのに――。マオルーンに気づいた様子はないし、カシホも幼馴染の姿をした奴が見えていたら騒ぐだろう。この分じゃ多分気づいていないな)


 背後ばかりを気にするギズを、マオルーンが気にした。


「さっきからどうした。水場がそっちにありそうなのか」


「いや――用を足しにいこうかと思ってさ。いくらガキでも一応性別は女だし、さすがにこの場でってわけにはいかねえかなあと」


 周りを気にしたのはトイレに使えそうな場所を探したからだと、うそぶいた。


「本人に聞いとこうか。なあ、おれがここで用を足したら気にするか? そういやカシホ。おまえ、年はいくつだっけ」


 カシホは蜂蜜色の眉をむっとしかめた。


「十八です。レサルの都律だったらもう結婚できる年です。前から一度言いたかったんですが、わたしのことをガキって呼ぶのはそろそろやめていただけませんか。あと、さっきの質問ですが、誰かが目の前で用を足し始めたら、もちろん気にします」


 「相手が男性でも女性でも、わざわざそんなものを見せるのはどうかと思いますけど」と、カシホは迷惑そうに唇を尖らせる。ギズは笑った。


「都律? 自分はガキじゃねえって言いたいのかよ。あのなあ、大人の女は、わざわざそんなこと言わねえんだよ。やっぱガキだな」


 カシホはむっと白い頬を膨らませる。それを横目で見つつ、ギズは踵を返して別の方角を向いた。


「ちょっと小便いってくるわ。向こうに見える大岩のところで待っててくれよ」


 マオルーンに声をかけて二人から遠ざかりつつ、別のことを考えた。


(カシホは十八か。レサルの磁嵐が起きたのが三年前。ということは、カシホはその頃十五だった。リイトが死んだのは、たぶんレサルの磁嵐が原因だ。そういやカシホが、列車事故で友達を亡くしたって話してたっけ――そいつがリイトか。そうしたらいろいろと辻褄が合う。なら、リイトもカシホと似た年だろう。なら――あいつ、昨日の晩のうちに十五から十八まで成長したってことか。つまり――)


 脳裏に、暗い不安がよぎった。


(あいつは、カシホと一緒にいたいんだ。――まずいな。やっぱりあいつ、カシホを道連れにするつもりじゃねえのか。――そりゃ、そうか。いくら違うと言ったところで、本音はそういうことなんだろう。ここに、ああやっているんだもんな。あいつはカシホといたいんだ――カシホを一緒に連れていきたいんだ。行く? どこに……)


 草原を吹く風がごうごうと唸っている。それに、はっと気づいた。風の音に気付かないくらい、ぼんやりとしていた。


 目が、少し離れた場所にある岩の陰を探す。少し大きくなった身体を不器用に丸めて隠れる少年、リイトの姿があった。


 リイトの目は、マオルーンと肩を並べて歩くカシホの後ろ姿を追っていた。いとしい少女をひたむきに追いかける男の純粋な目――それに気づくと、ため息を吐いて、目を逸らした。



 + + +



 少年、ジェルトは、ぽかんと唇を開けて呆けていた。


 周りにある光が、おかしい。


 生まれつき目がろくに見えなかったジェルトは、明るいか暗いかでしか世界が見えなかった。ほとんどが闇で、闇の中にほんの小さな灯かりがぼんやり光ることがあって、「明るいね」と指をさすと、それは太陽というものだと言われた。


「世界で一番明るいものよ。そうか、太陽なら、あなたにも見えるのね」


 と、「お母ちゃん」は笑った。


 でも今、これまでに見たことのあるたった一つの灯かりよりも、ジェルトの周りはずっと明るかった。世界で一番明るいはずの灯かりの百倍も千倍も明るい光だらけで、しかも、周りを囲む光には硬い印象があって、怖くなった。


 うつむくと、下のほうに細長いものが二つ見える。足を動かすたびに動くので、何度か確かめてみたが、ある時、正体に気づいた。きっと、これが脚だ。


 膝小僧や手のひらも足首もはじめて見るものだったが、つま先が動くたびに足元で舞い上がるものを、しゃがんで手で触ってみると、懐かしい感触があった。それは、土。土は、果てしなく遠いところまで続いていた。


(お父ちゃん、どこ)


 ここに来る前の記憶がやたら遠い。たしか、孤塔の中に入ったはずだけど。


 走った。光は見たこともないほど強烈だったけれど、とても静かで、駆け音は、たん、たん、たん……という反響しては重なりゆく。


 とても広い場所で、走っても、どこかに近づいている感じも、元いた場所から遠ざかった感じもしない。


「お父ちゃん、どこ」

 

 探したのは、最後に一緒にいた父親だった。でも、だんだんわからなくなる。


(お父ちゃん――僕にはお父ちゃんがいたんだっけ。僕は誰だっけ?)


 だんだん足が止まっていく。途方に暮れて、立ち止まった。

 

 はあ――と息を整えていると、後ろから声が響いた。見れば、土と同じ色をしたものを頭からかぶった人が近づいてくる。


『石ノ子だね。迷子になったんだね。こっちだよ』


 人だとはわかったものの、声や気配を感じる限り、知り合いではなさそうだ。


「だれ?」


『守リ手だよ』


 年を取った男の声で、ジェラ族の訛りがある。その男の指が上がる。人差し指は、ジェルトの筒服ズボンを指した。


『あぁ、石はそこにあるね』


「石?」


『おまえを守るものだ。手を入れて、握ってみなさい』


 男に言われるまま、衣嚢ポケットに手を入れてみる。たしかに、衣嚢ポケットにはまるいものが入っていた。これのことか――と、指が触れるやいなや、ぞっと背筋が凍った。バチッと電気が流れたように硬直した直後、ジェルトは「うわああ、わああ、わあああ」と、力の限り叫んだ。触れるだけだと思ったのに、その石に指先が触れた瞬間から、指が石から離れなくなる。意志とは関係なく、強い力で握りしめていて、そのうえ、拳をひらくこともできない。電流が突き抜けるような硬直状態も解けない。何が起きているのだと怖くなって、泣き叫ぶしかできなかった。


「うわああ、お母ちゃん、お母ちゃん!」


 叫びながら、身体が崩れていく気がした。


 ――お母ちゃんって誰?

 ――お父ちゃんって誰?

 ――僕は誰? 何も知らない。


 泣き叫んでいないと、繋がっていると感じていたもののそばへもう二度と近づけないようで――まるで、自分ことを忘れていくようだった。


『ラムジェ、ラムジェ』


 男が空に向かって叫んだ。


『何をしている、グル。寝ているのか。石ノ子が暴れた。歌を歌わせろ。落ち着かせろ。自我を奪え。魂を乗っ取れ』


 手は、石から離れない。触れたところからゾクゾクと血潮がせりあがるように電流に似たものがほとばしり、もがけばもがくほど身体は動かなくなる。


 そうかと思えば、足が動き出す。歩きたいなどとは思いもしないのに、勝手に歩いた。


 助けて。助けて。助けて。

 足が、知らないおじいさんに乗っ取られる。

 僕がいなくなる。

 お父ちゃんとお母ちゃんを忘れちゃう――。


 力の限り泣き叫んだ。けれど、いつのまにか、その泣き声すら、どこか遠い場所の水音のように感じはじめた。代わりに耳に届いたのは、歌声だった。


「セイラゼス・ナ・ジェラ・アム・サリ――」


 ジェラ族の歌だ。


  おお、水の母

  地の果てまで続く砂世を潤す唯一の母なり

  母の水瓶に水をたたえよ

  苦しみを流し去る嵐の時を待て

  母のもとへ願いの石を運べ、祈りを捧げよ

  道行く死者は、生者の使者なり

  母は温かく、水気に満ちている

  母よ、子らに水を与えよ


 まるで、子守歌だ。ジェルトはだんだん眠くなった。 


(違う、僕は寝たくない。お母ちゃん……)


 一筋、涙が落ちた。「お母ちゃん」と叫びたくて仕方がないのに、気力が遠のいていくのが悔しくて悲しい。


『お母ちゃんはここよ、ジェルト!』


 どこからか、母の声を聴いた気がする。母の声を思い出したと思った瞬間だけ、ぴりっとした痛みを感じて、すこし目が覚める。でも、眠気はそれよりずっと強かった。


「セイラゼス・ナ・ジェラ・アム・サリ――」


 聞こえてくるジェラ語の歌は、何十人分もの声が合わさった合唱だった。幾重にも重なる声の波に沈むように、母の声を忘れていく。だんだん、眠くなっていく。


 そばにいた男が笑った気がした。


『そうだな、疲れたんだね。ねんねしな。上にいこう。その石を上に届ければいいんだ。そうすれば手から離れるよ』


 『大丈夫だ、何も心配いらない』と、男は笑った。

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