三崎伸太郎

第1話

推理小説家の森山太郎は読みかけの朝刊から目をそらし、テーブルの上のコーヒー・カップに手を伸ばした。新聞の事件面に「IBPの箱に人肉・・・」とある。「I・B・P・」とは、アメリカの食肉パッカー(食肉処理)の会社でアイオワ・ビーフ・パッカーズのことだ。森山は二十歳代、カリフォルニアのロス・アンゼルスに住んでいた。直ぐに会社名が理解できた。手元のPCに手を伸ばし、グーグルで「人肉」を検索して見た。スクリーンに「人肉を食べる」「人肉を食べると」「人肉を食べる夢」「人肉を食べた」と出た。「人肉を食べた」をマウスでクリックすると、このテーマに関係したウェブ・サイトが現れた。


「現在の日本で合法的に人肉を食べる方法を教えてください。」このような質問に、丁寧にも「ベストアンサー」で、返答が書いてある。軽く読み流し、コーヒーを飲みながらアメリカのスーパーに並ぶ肉牛のパックを思い描いた。あのような肉の断片が、しかも人肉がIBPの箱に入って見つかった、と新聞は報じていた。一体、誰が何のために・・・職業柄、プロットが森山の脳裏に組み立てられて行く。彼はテーブルの上に置かれている好物の桃に目をむけた。今日の桃を人肉と考えて口にしてみた。甘い果肉の歯触りに・・・カニバリズム(食人、人肉嗜食)と言う言葉が浮かび上がった。森山は直ぐに大好きなH・G・ウェルズの小説「タイム・マシン」のストーリーを思い浮かべていた。あの「タイム・マシン」のストーリーは・・・これも確か、人肉に関係していた。再びPCのキーを叩いて「タイム・マシン」のストーリーをグーグルで探した。片手に持っていた桃からスーと果汁が流れ落ちた。紙ナプキンで落ちた果汁を拭きながら適当なウエブを開く。説明文を目で速読する。未来社会は二つの階級に分かれていた。上層階級はエロイと呼ばれ華奢な体躯を持ち果物を主食にしている。そして、もう一方の種族は、上層階級に抑圧され、地底に居住している労働者階級のモーロックだ。モーロックは次第に食人化し、筋力の劣ったエロイを肉牛のように食べ始めた。肉の味を良くする為に、肉人となったエロイたちには果物のみを餌として与えていた。 しかし、ウェルズはモーロックがエロイの肉をどの様に料理して食べていたかは説明していない。中学生の頃に本を読んだ森山の記憶にもない。


人肉を食べる・・・IBPの箱に入っていた肉は食べるためのものだったのか、それとも殺人? 本当に人肉だったのか? 森山は、携帯で警察庁に働いている叔母の織田奈緒子に電話を入れた。奈緒子は、女性では我国初の警視長である。彼女は日本の大学を卒業後、アメリカの大学にフルブライト留学し、家族の反対をよそに警察庁に職を得たと言う経歴を持つ。彼の電話は、先ず秘書室に通されて、しばらく待たされた後、叔母の奈緒子が出た。

「こんにちは、叔母さん」

「太郎君、どうしたの?」

「お忙しそうですね」

「最近、国際犯罪が増えてね。ところで彼方の用件は、何よ?」せっかちな叔母の問いに「ええ、実は今日の新聞にIBPの箱に人肉が入っていたのが見つかったと書いてあったものですから・・・」

「ああ、あれ。小説に書くつもり?」

「とんでもない。今書いているのに忙しくて時間が有りませんよ」

「今度は、売れるの書きなさいよ」叔母の言葉は、彼に容赦がない。

「いつも、すごいのを書いているのですが編集者が理解できないだけです」

「でも・・・あなたのは、推理小説がSF小説と混ざったような小説だもの」

「今に、分かりますよ」

「で、今回も、暇に任せて探偵をするつもりじゃないでしょうね? 姉さんが泣くわよ」

「母も最近は、僕を理解してくれてます」

「そう・・・ところで、あなたの聞きたい事は、何?」

「新聞に『IBPの箱に人肉』とあったのですがアレは、本当に人肉ですか?」

叔母は少し間をおいて「そのようね・・・」と答えた。

「ありがとう。叔母さん。聞きたかったのはそれだけです」

「でも、あまり無茶しないようにね。背後に巨大な組織がいるかもしれないので。何かあったら、私の携帯に直接電話を入れることよ」

「分かってますよ。例の、刑事達を送ってくるのでしょう?」

「彼達は、優秀な警察官なのよ」*(住田警部、美咲警視正、作元警部、江川警部補)

「まるで、テレビの刑事モノのようですね・・・」叔母はフフッと含み笑いを残し電話を切った。森山は、何度も事件の深みに入り、叔母に助けてもらっている。叔母の奈緒子は警察庁の「刑事指導室」課長だ。国際刑事警察機構(ICPO)とも関係が深かった。森山は推理小説を書いている関係もあり、自然と警察庁や警視庁には顔なじみになってきて、彼が探偵まがいのことをしても、あまり煙たがれない。それに気をよくして、今まで数度ほど警察のために国際犯罪事件を解決した。




人肉か・・・これは面白そうだ、と森山は感じながら、二つ目の桃に手をのばした。唇を桃の表面に当てると桃の強い香りと、うぶ毛に触れた。ピンク色の肌と華奢な体躯を持つエロイの姿が浮かび上がってくる。IBPの箱に入っていた人肉の部位はどこなのだろうか。推測だが頭とか手足でもなさそうだ。有名なアメリカの肉牛ブランド、IBPの箱に入っていたぐらいだから、きちんと仕分けされている肉片だったはずだ。PCで食肉販売業者の事件を探してみると、次のような事件が浮かび上がった。


「ニチノ元所長ら逮捕。 在庫装い5億円詐取か(2008年3月12日16時58分配信 産経新聞)ニチノの冷蔵倉庫に豚肉があると偽る手口で、複数の食品会社などから計約5億円をだまし取っていた疑いがあるとみて追及する。

調べでは、3人は共謀し昨年8月、ニチノ社の倉庫に冷凍豚肉約230トンがあるように装い、茨城県土浦市の食品販売会社から売買代金として約9000万円をだまし取った疑い。」


豚肉か・・・まあ、この手の類が肉類取引販売業者には多いだろうな・・・と、森山は推測していた。肉というのは生物を殺して取る赤身の部分だ。「肉」と言う字は言語由来辞典に頼らないで字だけを見ると「 冂 」の中に人という漢字が二つある。それは、人間を鍋の中に入れて料理している形にも見える。

森山はキー・ボードを引きよせ「牛肉偽装事件」とタイプした。このテーマのウエブサイトが直ぐスクリーンに映し出された。その中の一つを開けると、NNBハムに関したBSE国産牛肉の偽装事件があった。


「偽装事件発生日:2002年8月21日(水)NNBハムは、グループ企業の東本フード(社長は東谷 NNBハム副社長)の愛媛、徳島、姫路の支店で輸入牛肉約4・3トンを国産に偽装した。その他にも「NNBハム、知られざる大山一族の素顔」と題したニュースがあり「米小会社の経理担当役員が、実に1億ドルもの会社のカネを横領、着服した事件が起こった・・・」と、ある。


森山は、人肉入りのIBPの箱が見つかったという横浜市金沢区の海をウェブで詮索してみた。金沢区情報サイトの写真で「神奈川県横浜市金沢区海の公園(うみのこうえん)の地図(地図、航空写真、地形図)から、写真を引っぱって見た。横浜市大医学部辺りから八景島、海の公園の長い砂浜が続いている。そして、シーサイド・ラインと呼称されている横浜新都市交通の運営するタイヤで走る新交通システムが、新杉田駅と京急金沢八景駅前の10・6kmを結んでいて野島公園駅まで伸びている。その向こうの突端には、日本キリスト教団金沢八景教会の美しい建物がある。夜になるとライトに照らされた教会の十字架が暗黒の海を背景にして美しく浮かびあがり、懺悔の必要な人間に手を差し伸べているように見えると云う。人肉のつめられていたIBPの箱はこの近くの海岸に打ち上げられた。それはまるで、被害者の人間が神に救いを求めるような仕草に似ていて、教会の方角に箱の内部を向けていたとか。最近はDNAの鑑定から、簡単に被害者の身元確認ができる。しかし、加害者を割り出すのはDNAの鑑定に使われる確かな物的証拠が必要である。新聞にはDNA鑑定の事は書いてなかったが肉片が牛や豚の肉と同じように正しく部位仕分けされていた。肉片は一体どこの部位であったのか、どうして殺傷した人間の肉を部位仕分けし、わざわざ肉の箱であるIBPの箱に詰め込んで捨てたのかという疑問が起こった。牛肉などは屠畜、解体・洗浄、熟成、部位仕分け、パック真空、冷蔵と過程を踏むと言う。

アメリカなどの大手スーパーでは枝肉の部位を仕分けしパックしたまま販売している。

有名な映画{ロッキー}では、精肉所の天井の鉤に吊りさげられた牛の枝肉をロッキーがパンチするシーンがあった。

無論、牛、豚、馬などと人間の体躯は違うので人間を解体するには解剖学者のような知識が必要かもしれない。殺人事件は日本で行われたのか、それとも海外で行われIBPの箱に詰まれて他の肉と一緒に日本にコンテナーで運ばれてきたのかなど、詳しい事を新聞は書いていなかった。そもそも牛、豚、馬などの肉は人間の生活に密着しており有名なレストランのデニーズなど商品のステーキに次のように説明しているくらいだ。

[デ ニーズのサーロインステーキは、アメリカ産の20ヶ月齢以下の 牛だけを対象としたものから作られています。この20ヶ月齢以下の月齢制限は、現在までにBSEの発生例のないことが大きな理由です。牛は日本向けに、品 質システム評価プログラムに基づき、厳しい管理がされております。また、高品質な肉を産出するために、とうもろこしを中心とした穀物飼料で育てられており ます。肉質はサーロイン(高級ロース部位)であり、肉本来のジューシーな旨みが特徴です。ステーキ加工は品質管理システムの国際規格IISO9001や SQE(Safe Quality Food)2000認定取得工場等で製造されており、品質規格と商品の安全性を厳守しています」


ロス・アンゼルス 1990年


NNBハム100%出資の米国子会社NDL・フーズは、現地の食肉加工会社「DL・フーズ」を1977年に買い取り、その食肉加工のライセンスを受け継いだ。場所は2850 Mugo St・Los Angeles・CAにあった。市内のど真ん中辺りだが、小さな汚らしい工場が乱雑にかたまっている河川敷の近くにあった。対面は金属加工工場で、両者の間を走る道は行き止りになっており砂利道のままだ。青森出身の渋井は古いアメ車を、その小さな道に入れた。雨の後なので、水溜りが転々とある。アメ車はグラグラと動きながら道を走りNDL・フーズの駐車場に入って行った。駐車場には、既にほとんどの社員が出勤してきているようで、数個のスペースしか残っていない。赤いコルベットが端のほうにみえる。木村美雪の車だ。最近入った女性の営業員でなかなか仕事が出来た。その横には安い日本車で文学好きな営業員今西 誠の車が並んでいた。彼は未だ会社のバンを使い自分で配達もしている。『UNNP・ US・NNB・Meet・Packers・Inc』とロゴの入ったバンを使用して主に南の方のオレンジ・カウンティーからサン・ディゴまでを担当していた。しかし、会社は渋井の意見を聞き、最近営業と配送を別々にしようとしている。


NDL・フーズは、チキンのホールを購入し、各部位に解体して日本食レストランに販売していた。工場の前で工場長の平井が立っていた。渋井は軽く手を挙げて挨拶し、事務所のほうに歩いた。現在の社屋は古い平屋の建物で、此処では企画にある餃子生産工場を立ち上げる事が出来ない。NDL・フーズは近々引越しを予定している。事務所は入口の両サイドが会議とか応接用の部屋になっていて、その奥に日本の会社らしく机を並べただけの各部署がある。左手奥の机には萩岡支店長(日本本社では課長)が座っており、その近くには会計が二人机を並べていた。一人は現地採用の女性で帰米二世の上田芳子。彼女は美人でも不美人でもない35歳の独身女性。もう一人は、東京支社から来た眼鏡をかけている色の白い加瀬昭三。彼は大學を出た後NNBハムに入社し、数年ほど東京本社で働いていたが、米国子会社立ち上げのために支店長の萩岡、営業課長の大木、課長補佐の田中と一緒にアメリカに送られた。加瀬は経理業務を一手にやっている。現在コンピューターを使う事で会計係はたくさんいらなくなっており、当初から加瀬と上田芳子だけが会計を担当している。

数年前に、支店長の萩岡は目だって煙たくなっていた営業課長の大木の追い出しにかかった。大木は、NDL・フーズ立ち上げ時から順調に営業利益を上げてきて、支店長の萩岡の地位を脅かしそうな勢いになっていた。大木はN大の空手部主将をしていたぐらいのスポーツ・マンで男気が強く、背後で萩岡、田中、加瀬が組んでいた事に気付かないでいた。先ず田中が販売の事で大木を挑発し,個人的な争いを起こした。大木は、これが三人が仕組んだ罠とは露知らず、最終決断を萩岡に託した。この結末を待っていた萩岡は田中を優遇し、大木は退職する羽目になった。

渋井は、営業部の八つの机が二個ずつ向かい合わせにしてある一つの机に就いた。日本式のオッフィス・スタイルでアメリカのように机と机の間に区切り板がない。先端は八人の営業部員を管理する立場の営業マネジャーの席だ。大木はNDL・フーズを辞める前に、交換条件としてN大後輩で現地採用の村田にマネジャーの席を与えていた。彼の小さな意地だった。村田は大人しい温柔な性格で、総ての社員をサン付けで呼ぶ。

「渋井さん、おはようございます」マネジャーの方から渋井に朝の挨拶だ。何時もの事だから渋井は軽く頭を下げて挨拶を返した。対面の岸が「渋井さん、大和レストランからオーダーが入ってます」とメモを渡してきた。

斜め向こうの今西が電話で頭をぺこぺこ下げながら甲高い大声でセールスをしていた。ああ、朝早くからセールスか・・・と、渋井はご苦労なこったと思いながら「ヨッコラショ」と声を出して机に座った。渋井は東京の大学を出たあともバイトをしていたバーのバーテンを続けていたが、バーのマダムと問題を起こしアメリカにフラリと旅行に来て、そのまま何となく居ついたという男である。アメリカに来ても色々な女とトラブルを起こしては適当に生活をしていた。彼の対面の今西は、渋井がアメリカに来た時、ロス・アンゼルスのダウン・タウンのはずれにあるブランドン・ホテルで知り合った。ホテルと言っても古いレンガ作りの月決めホテルだ。ホテルの台湾人の女オーナーが紹介したからだ。今西はライターと称していた。彼は日本人だと言うが彫りの深い顔で混血のようにも見える。大のビール好きで渋井とは何となく気が合った。二人で意気投合すると、若さに任せて、持金の総てを遊行費に使った。持金が少なくなってくると二人はレストランの皿洗いに職を得た。働くビザがなかったので当時の青年達はアメリカでの生活を皿洗いという下働きで過ごす事が多かった。

しかし、今西は本当にライターだったようで一度日本に帰ると「ブランドン・ホテル」という中篇の小説を書き、それが有名なK出版社の中間小説に載った。そのまま日本にとどまるかと思っていたら年上の女の尻を追って再びアメリカに来た。そして、日系の新聞社に勤めていたが新聞社が他の新聞社に買収合併されて職を失い、渋井の紹介でNDL・フーズに職を得た男だ。ライターだけあって口が上手く営業の成績はトップだった。彼の対面が小暮順子。営業部のアシスタントをしている。

机に就いた渋井のもとに日本から研修にアメリカに送られてきていた井口が来た。

「渋井さん。お世話になりました」と井口が頭を下げた。

「どうしたの?」突然のあいさつに渋井は相手を見た。

「転勤です」

「えっ? もう日本に帰るの?未だ一年じゃない」

「実は、カナダのトロントに行く事になったんです」井口の顔の表情は幾分かこわばっていた。渋井は性格が無頓着だから相手の事など構わず「結構な事じゃない」と言葉を返した。「まっ、頑張ります」と相手は言い、彼から離れた。

「皆さん、今日の仕事の後、営業で井口さんの送別会を行いますから」とマネジャーの村田が営業部の社員に声をかけた。

「私もですか?」小暮順子が問いただした。

「はい。そうですよ」村田がか細い声で答えた。

「カナダ・・・トロント・・・か。あれ?支店あったっけ?」渋井は対面の岸に聞いた。 岸は顧客のオーダー・シートを整理していた手を止め、チラリと村田の方を見て差し障りがないようだと感じたのか「牧場を買い取ったらしいですよ」と、声を落として言った。

「牧場? 何の?」

「う・ま」岸が言葉を二つに区切って言った。

「えっ? 馬?」

「シッー」と岸は例の人差し指を口につける仕草で言い「渋井さん。詳しい事は本人に聞いてくださいよ・・・井口さん深刻そうでしたよ」と続けた。

渋井は東北なまりで「そうスッペ」と言い、コーヒーを取りに立ち上がった。



その夜、リトル東京の居酒屋で渋井は、井口がNDL・フーズの親会社NNBハムがカナダのトロントにある馬の屠殺場を買収し、そこに飛ばされると聞いた。彼は数度ほど既に現地に行ったと話した。

井口は「私は未だ若いですから、色々な事を経験してですね・・・」と、話の前に付け加えたが、誰かが狡猾にも将来のために良い経験だからなどと彼を説得したに違いない。日本人は古来から動物殺傷を毛嫌いする。本人たちは血も滴るようなステーキを平気で食べるが屠畜は嫌っていた。この矛盾は仏教の殺生禁断思想から来ている。屠畜に携わる者は「屠沽の下類」などと呼称された。殺生を職業としている者は、その頃の仏教の常識としては下類とみられていた。だから現代においても、会社の命令だからと言って屠畜を行う会社に人事移動されるとなると、普通の社員は辞める可能性がある。だから、若い社員に「将来のポジション」をちらつかせて移動させるに違いないと、渋井は世慣れた経験から思った。

「馬の首が、バサッと切られてですね・・・」井口が切れ長の眼を吊り上げるようにして話している。多分、吐き気を催すような残酷な屠畜の光景が彼の脳裏に焼きついているのだろう。NNBハムは日本の馬肉需要を予想して、この屠畜業者を買収した。従業員は若い井口が代表として乗り込んでくると知ると、彼が視察した数日の間にも色々嫌がらせをしてきたらしい。

「・・・日本の業者はですね・・・競走馬でも、年老いた馬でも輸入して、最後は屠畜してソーセージですよ・・・ずいぶん有名なカナダの競走馬が日本でソーセージになったそうです」酔ったのか井口が愚痴っている。「ぼくは・・・ぼくは、ホースで水を掛けられたんですよ・・・」井口の愚痴が続いている。



NDL・フーズは三月に新しい社屋に移った。移った社屋には社長室があり、支店長の萩岡は副社長の肩書きを持った。今西がそれとなくセールス・マネジャーの村田に聞いてみると日本のNNBハム本社副社長東谷剛郎の部屋だという事だった。工場の三台の餃子自動製造ラインが動き始めて数ヵ月後、この東谷と部下5名が新工場視察の為にアメリカに来た。歓迎会があり、日本人街近くにある飲食店ビルのレセプション・ホールを借りて大掛かりな歓迎会が行われたが東谷は酒癖が悪かった。列席した社員を前に、部下の五人が日頃如何に売り上げに貢献しているかを話し、一人の男がオーストラリア肉で巨額の売り上げを続けていると営業部員を前にしてくどくどと話した後、何を思ったのか其の男に土下座をして見せた。男は慌てて止めたが、アメリカの文化に慣れていた社員達は皆しらけた面で見ていた。其の後,どういった訳か東谷の機嫌が悪くなった。そして、どのような経緯か加瀬と別室に行って帰った後、今度はやけににこやかな顔を見せて歩き回った。そんな東谷を、加瀬が眼鏡越しに爬虫類のような眼を向けていた。

要するに加瀬は女を東谷に与えたようだ。東谷の弱みを握ると、萩岡などは手の上で動かせると考えていたに違いない。この後,加瀬は自分の銀行口座に少しづつ会社の金を移し始めた。今西が渋井から、会計の加瀬が中国人のウェンディー・リーを手に掛けた後、今度は木村美雪の尻を追い始め始めたと聞いたのは、彼がサンホセにある営業所に移る数日前だった。

「あいつな・・・」と渋井は加瀬の名前を口に出した後で「奥さんにクラッシック・カーの販売店をやらせるらしいよ・・・よくカネがあるよね。美雪ちゃんの尻もおいかけているし・・・ウエンディーは加瀬からもらった高価な宝石が旦那に見つかり、離婚だってよ」

彼達は、メキシカンの多く住んでいるボイルハイツ街にある日本人経営の小さな飲屋で飲んでいた。この店のオーナーの得意料理「牛タンの塩焼き」がカウンターのテーブルに置かれている。渋井は、此処のオーナーに頼まれて牛タンを仕入て売り始めた。そして、なじみ客になっていた。自然彼の知人が寄り集まるようになったが今西も其の一人だった。ボイルハイツは、リトル・東京と呼ばれている日本人コミュニティーの西側の外れにあるロス・アンゼルス・リバーの向こう岸に広がる地域だ。川の本体はコンクリートで覆われていて、映画「ザ・コア(V)」で、スペースシャトルが計器の故障で不時着した、あの川だ。河岸の町は治安が良いとは言えないが日本人も多く住んでいた。

「よく、カネがあるじゃない」なぜか数ヶ国語がペラペラの角田が言った。角田の得意語学は朝鮮語で、かなり出来た。親は純粋な日本人だが大學でたまたま・・・と彼は、朝鮮語を専攻した事をあまりは話したがらなかった。内密には角田の信望する宗教が要因らしいと、これ又渋井が情報をつかんで皆に話した。

「ありゃ、おかしいな・・・」渋井がすらりと伸びた綺麗な手指を牛タンの皿に伸ばし、一切れつかんで口に運びながら言った。

「なんで?」

「考えてみてよ、我々の安給料で、あんな商売できないじゃない」

「まあ、そうだけど・・・しかし、奥さんの家族が大金持ちとか、遺産が入ったとか、そんなこともあるかも・・・」

「ないね」渋井は断言するように言い、彼の知っている情報をしゃべった。

「じゃ、会社のカネをちょろましているとか」

「まあ、あるんじゃねえの」と地方訛を含んだ言葉で渋井は答えへへ・・・と含み笑いをしてビールのコップを空けた。



横領


確かに加瀬の羽振りは良かった。日本から専務の東谷が来るたびにリトル東京の売春斡旋業者を通して、最高の女性を与えた。その金を捻出する建前として、加瀬は特別な銀行口座を作った。もちろんカネはNNBハムのカネがその講座に流れるように出来ていた。最初は少額のカネだったが誰も気付かない。NDL・フーズはTAXをごまかす為に、実際の肉の売り上げと円とドルの為替の違いで出来る過剰金を裏金として置くような仕組みを作っていたので、そのカネは表の帳簿にも出てこない。経理を任されている加瀬の判断でどのようにもコントロールできるカネであった。彼は次第に金額を殖(ふ)やし、その講座から自分の口座にまで金を動かし始めた。本社の専務である東谷の弱みを握っているので、いざとなれば取引できると大胆に考えていた。

東谷は酒乱である。だから加瀬は、東谷が酒を飲む前に女を与えるようにしていた。或る時、東谷は社員の木村美雪に目をつけた。加瀬に、次にアメリカに来る時までに手に入れろと命令し、日本に帰った。

加瀬は先ず探偵を使って木村美雪を調べた。彼女は妻子ある男性と同棲していた。男の妻子は日本である。そして最近、美雪と男の関係は上手くいっていないらしい。

加瀬はチャンスだと思った。先ず、自分が彼女を手に入れて支配下に置く、そして専務に与えればよいと、陰性な性格の加瀬は計画を立てた。

加瀬は酒を飲めない。本人は体質的なものだと言っていたがセックス依存症だった。そして、売春組織と関わるうちにMDMA(エクスタシー)を使ったセックスにおぼれていた。MDMAを服用すると、横領をしていると言う不安感も減少し、ドラッグの力で多幸感や高揚感に包まれるのである。






麻薬の密売ルート 


アメリカ最大の海軍基地サン・ディゴ。此処には軍人と結婚してアメリカに来た多くの日本人女性が住んでいるが、特にサン・ディゴの南に位置するチュラ・ヴィスタ市には、メキシコに会社を持つ日系の会社の社員も多く住んでいる。日本人社員を安全且つ快適に過ごさせるには、アメリカの方が良いと考えた日本の親会社の親心といったところであろうか。又、メキシコ政府もメキシコに富を持たらす日本からの会社を優遇していた。アメリカとメキシコのボーダー(国境線)は町外れの直ぐ近くにあり、山の上に見える有刺鉄線のある高い塀がボーダーだと分かるが最初の旅行者には、何だか検討のつかない単なる囲いのようにも見える。もちろん日本人の経営するレストランも沢山ある。


アメリカのチュラ・ビスタ市とメキシコのティファナ市はボーダー(国境線)に対面して隣接する。

メキシコ人のダニエル・ナヴァロは、ティファナ市のボーダー近くにあるエアポートから少し北に外れて並ぶ倉庫街の二階建ての倉庫のドアを開いた。「コモスタ」元気かいと倉庫の片隅にいた目つきのよくない二人のメキシカンに声をかけた。「ムイ・ビエン」元気だと一人が低い声で言った。昼飯時なのか、彼達は「タコス」と呼ばれるメキシカン・フードを口にしていた。もう一人は昼だというのにメキシカン・ビールを手にして飲んでいた。近くにピストルが無造作に置いてある。

「来たか?」とダニエルは右手のこぶしを耳に当てて見せた。電話を待っているようだ。「まだだ」太ったメキシカンだった。

「・・・」ダニエルは黙ったまま倉庫の一方にある壁の方に行き、壁を背にして立ててあった灰色のロッカーを抱えるようにして動かした。背後の壁に穴があいている。彼は其の穴に入って行った。甘ったるい匂いがあたりに漂っていた。彼は床に置いてあった箱を動かした。そこにも穴があり地下に向かって木製の階段があった。



ダニエルはチラリと後を振り返り、階段を降り始めた。中は薄暗い。ブーンというような音が聞こえている。裸電球が辺りを照らしていた。右斜め向こうに黄土色の紙に来るんだ四角いものが山高く積まれている。中には黄色い包みを透明なビニールで覆ったものもあった。その近くには幅の狭いレールが敷いてあり、少し離れた場所にバッテリーで走るレール・カーが停まっていた。周囲の壁はコンクリートブロックで出来ていた。片一方にはレール・カーの車輪やシャベル、そして箱などが無雑作に重ねられている。

ダニエルは指を立てて、袋に合わせて振りながら包みを数え始めた。

やがて数え終わると「O・K・…」と言い、ペッと線路に向かってつばを吐いた。この匂いに慣れているといっても、甘いマリファナの匂いにはいつも閉口する。

「ダン!水兵からの注文だ!」頭上の穴の入り口から、太った男が地下にいるダニエルに声をかけた。

「いくつだ?」

男は答える代わりに両手の平を階下のダニエルに開いて見せた。「10・・・か。やけに少ねェな・・・カール(空母:カール・ヴィンソン)はいつ帰るんだ!」地下で彼の言葉が響いた。

「マニアナ」明日だと言う意味だが彼達の扱っている「マリファナ」にも聞こえる。

「オーケー。俺が運ぶから、手伝ってくれ」

男は階下に降りてきて、積み重ねてあった袋の上から一つを持ち上げてダニエルが受け取るのを待った。 レール・カーに小さな貨車を連結させたダニエルは、数歩ほど離れた男の方に歩み包みを受け取った。もう一つを太った男が運んで来る。男達は10袋を貨車に積み上げて、青いビニールで丁寧に覆い、手馴れた手つきでロープを掛けた。

「いくらになる?」

「2、000・・・」

「2、000ドルで10袋・・・2万ドルか・・・」ダニエルは頭の中で勘定し、つぶやいた。ドル安とアメリカの景気が悪いのとで、数年前に比べて約半分ほどの儲けだ。トラック・ドライバーをしていた頃は、運ぶ貨物に混ぜて無事に税関を通り抜けると二、三倍の値段で売れた。ヘロインにも手を出したかったが他のギャングに関わると、命がいくつあっても足らない。彼達の集団は比較的安全なマリファナだけを商売にしている。

ダニエルはレール・カーの小さな運転席に座ると、バッテリーのスイッチを入れた。計器の針が触れて十二分な電気容量を示した。彼は、首にたらしていたハンカチーフを持ち上げて口と鼻を覆った。トンネル内は息が詰まるほど空気がよどんでいる。

「アディオス!」太ったメキシカンの声にハンドルを握っていた片手を挙げて答えると、レバーを前進に入れた。ゴロゴロと車輪の立てる鈍い音が次第に連続音に変わりゴーと聞こえ始めた。相変わらず乗り心地の悪いカートだと思いながら、ダニエルは少し速度を上げた。両側の壁は、ブロックと木の板で覆われているが、ところどころは粘土質の地層がむき出しになっている。レール・カーと両方の壁の間は、ほとんどスペースがない。黒い口を開けているトンネルをヘッド・ライトが先導する。

このトンネルを掘るのに半年を要した。粘土質の地層なので掘り進むのは簡単だった。マリファナをトラックでは運ぶよりも安全で、安定して商売が出来た。

20分ほど走ると少し勾配になる。この上はメキシコとアメリカのボーダー・ラインだ。高いコンクリートの壁と、其の上部には二重の有刺鉄線が張り巡らしてある。メキシカン達は有刺鉄線の下にトンネルを掘ったり、はしごを掛けて有刺鉄線を切り破り一人二人と金の稼げるアメリカに密入国する。しかし、無事にボーダーを越えてもサン・ディエゴから伸びる各高速道路にはチェック・ポイントがあり、此処で密入国者達の乗る車は検問にひかかった。しかし、ダニエル達の仲間は、密入国者にこのトンネルを使わすような事はしなかった。彼達の口からトンネルの存在が漏れると、今までの苦労が無駄になる。このルートはあくまでもマリワァナ専門の取引ルートにしていた。 

次第に裸電球の光が増えてきて、やがて前方にトンネルの出口が見えてきた。ダニエルはカーとのレバーを一つ戻した。速度を落としたレール・カーは再びゴロゴロと鈍い音を上げ始め出口を抜けた。直ぐにブレーキでレール・カーを止めると、ダニエルは口と鼻に掛けていたハンカチーフを下にずらし、線路にペッとつばを吐いて階上のほうを眺めた。階段のある天井のドアがいつものように開いていない。こちらにはホセ・キャンボスがいるはずだが・・・ダニエルはズボンのベルトに挟んでいた拳銃に手をやった。




サン・ディエゴの日本食レストラン 2001年


元在日米軍の横須賀基地に所属し、軍のコックとして働いていた海軍曹長の軍人ピーター・スミスは、日本で結婚した日本人妻とアメリカに帰り、軍を退職するとサン・ディゴ市内に焼き鳥レストラン「東京焼鳥」という店ををオープンした。ニュヨークの世界貿易センターがテロリストの自爆テロで破壊される一年前で、未だ景気も良く、レストランは順調に売り上げを伸ばしていた。しかし、セプテンバー・イレヴン(九月十一日)と呼ばれるテロ以来、アメリカ経済は急速に冷え込みピーター・スミス夫妻の経営する「東京焼鳥」も経営が思わしくなくなってきた。 そして、其の後の住宅景気のバブル崩壊が追い討ちをかけた。

店の営業が終わった深夜、従業員を帰した後「全くセプテンバー・イレヴンとは、な」と、ピーターは妻の春美に愚痴った。 

「September Elevenは911だからよ・・・考えりゃわかったこった」ピーターはビールの小瓶を片手に、春美が売り上げの計算をしている背中に言葉を投げかけた。春美は何時もの事だから、と思いながらも脳裏では911というアメリカの警察を呼ぶ時の非常番号と「September(九月)と 十一」を重ね合わせていた。

「CIAが駄目なんだ。未然に情報を得ていたと言うのに、よ」とピーターは言い、小瓶のビールを口もって行くとゴクゴクと飲んだ。

春美はピシャリとキャッシャーを閉めた。ピーターの身体がピクリと動いた。

「飲んでばかりいないでよ!」ややヒステリックに春美がピーターに言った。もちろん英語だが日本語訛のあるブロークン・イングリッシュである。

春美は横須賀のスナックでピーターと知り合った。若い水兵姿の彼は美男子に見えた。日本人が外国人男性を見ると、なぜだか美男子に見える。鼻が高いからだとスナックのママが言っていた。ママの旦那も退役軍人だった。

兵士の誰もがそうだが軍人さんは金の使いっぷりが良い。ドル高の時代で、春美はピーターを自分の女の奴隷にしながら、ほとんど彼の金で生活をして自分の稼ぎは貯金に回した。ピーターは軍のコックだったので、適当に豊富な食料にもありつけた。もちろん基地からの持ち出しは禁止されているのだがそれはあくまでも建前で、軍人の持ち出しにいちいち文句を言う者もいなかった。そして、日本はようやく東京オリンピックの好景気に支えられて自信を取り戻している時期だった。

春美はピーターと結婚した。数年後ピーターは本国に帰る事になり、春美も彼に付いてアメリカに来た。

ピーターの次の勤め先はカリフォルニアのサン・ディゴで、此処の海軍基地は全米一の大きさを誇っていた。コックとして働くピーターも、本国に戻ると軍人生活に飽きたのか直ぐに退役した。彼の小額の退役金に春美が自分のお金をつぎ込み、彼達はサン・ディゴ市内のはずれに「東京焼鳥」と称したレストランをオープンした。

「どうするの!」春美がピーターに声をかけた。従業員は既に帰った後だ。レストランの小さなオフィスに春美の声が響いた。

「何とかする・・・」ピーターは、この化粧の厚い日本人妻に頭が上がらない。此処のレストランをオープンする時に大半の資金を出したのが春美だったからだ。

ピーターは、軍のコック仲間の言葉を思い返していた。

「どうだい、ピーター。やらねえか?」太ったスティーヴがピーターに話を持ちかけた。彼達はピーターと春美の家で飲んでいた。春美はいなかった。

「麻薬か・・・」

「俺たちが使うわけじゃネェ。必要な奴らに売って金をもうけるだけさ。オメェだって知っているじゃネェか。軍人の給料なんぞ、しれたもんだ・・・」

「でもなあ・・・薬はヤバイ・・・」ピーターは気乗りしなかった。麻薬販売に手を染めると、泥沼に落ち込む。足を洗おうとしても泥はへばりついて洗い落とせないのだ。

「心配ネェーよ。危ない奴らとは組んでネェ・・・質のいいマリファナを買い付けて売るだけの話だ」

「マリファナ?」

「ああ、一部では合法さ。メディカル・マリファナて、な」

「いくらになる?」

「俺たちのは質がいい、末端がオンス(28・3グラム)$100(約一万円)だ。ワン・パウンド(0・454キログラム)$1、500(十五万円)から$2、000(二十万円)だな・・・」*1 lbs. = 16 oz. (453.5 g)

「そんなに高いのか・・・」

「俺たちが運ぶのは一包み30パウンド(約13、59KG)だ」

「すると・・・」

「卸価格は、一オンス(28・3グラム)で$50(五千円)。俺たちは$20(二千円)だ。わかるか?」

「パウンド(0・454キログラム)$320(三万二千円)・・・30倍で一包みは$9、600(九十六万円)か。そうすると、5包みも運ぶと$48、000(四百八十万円)になるか・・・」

「ぼろいだろ?」

「・・・・・考えさせてくれ」



「なあ、春美・・・」ピーターは、店の売り上げのカネ勘定が終わり、春美がタバコに火をつけて吸うと、煙を長々と吐き終えたのを見計らって声をかけた。春美がピーターの方を向いた。

「実はいい話がある・・・」彼は、妻にコック仲間のスティーヴの話をした。

春美は、タバコをスパスパ吸いながら聞いていた。タバコの煙がピーターの顔にまとわり付いた。

問題は、サン・ディゴから北に向かうフリーウエイにある検問所だ。フリーウエイを走るトラックの荷重を検査するところだが時々、不法移民やドラッグの検査もする。万が一と言う事がある。彼達はふと,今日訪問してきた日本人のセールス・パーソンを思い出した。あの女の子、春美はレジに行き、取って置いたセールス・パーソンの名詞を持ってきた。

黄色と赤でデザインされたロゴと『UNNP U.S –NNB Meat Packers, Inc』そして「NDL・フーズ」と書いてある下に「木村美雪」と名前がある。

「あの娘、使えるわね・・・」春美がタバコの煙を吐き出しながら言った。

翌日、春美はNDL・フーズに電話を入れて木村美雪を呼び出した。春美は美雪の客を対応する声に(若々しい娘の声だと)思いながら「あの、お宅からミートを買おうと思うのだけど、もう一度、店に来れるかしら?」と聞いてみた。

「はい。喜んで参ります。いつがよろしいですか?」形とおりの営業トークが戻ってきた。

「そうね、今週ならいつでもいいわよ」

「そうですか・・・」と木村美雪は自分のスケジュールを確認したのか、少し時間を置いて「では、金曜日の午後でいかがでしょうか?」と言った。

「いいわよ。金曜日で。午後二時に来てくれるかしら?」

「二時ですね。では、その時間にお伺いします」



木村美雪は昨年NDL・フーズ「NNB Meat Packers」に入社した。サン・ディゴは、先輩社員の今西 誠が担当していたが今西がサンホセに転勤し、彼に取って代わって担当になった。赤いコルベットでセールスをする女の営業マンということで成績も良かった。彼女は体操で国体に出場した経験もあった。小柄で筋肉質の身体は赤いコルベットに良く似合う。

今西は、木村美雪に自分のセールス・エリアを与える時、数度ほど彼女を連れて得意先回りをした。その時に木村美雪の方から話したのであるが彼女の身体は妊娠できないと言う。小学生の頃から始めた体操に身体が狂い、高校生になっても生理が始まらず母親が心配して産婦人科に連れて行ったところ、彼女の身体の異常が見つかった。

「結婚は子供を持つだけが目的でもないので・・・ところで、日本はどこ?」と言う今西の言葉に「・・・横浜です」と、木村美雪は自分の故郷を口にした。

「横浜・・・」今西の声がしぼんだが美雪は気づいていない。

美雪は美人でキュートだった。体操選手だっただけあり均整の取れた身体を持っていた。独身かと聞いたら同棲してますと答えが返ってきた。同棲している相手は、ビーフ・ボール(牛丼)をアメリカにチェーン展開し始めた山家のBBボウルの工場長で、相手は妻帯者らしい。彼女が横浜でアルバイトをしたときに知り合い、アメリカに一緒に来たと言う事だった。

時々彼の奥さんが日本から来るんです。その時は、私はホテルに引っ越す事になるのですよと言い、美雪は軽く笑った。

今西は女性の秘密を知る快感を味わいながらサン・ディゴに向かう車を運転していた。助手席の木村美雪は、フリー・ウエイの横に広がる青い海に目を細めている。

今西は(妊娠できない身体だって・・・)と言った美雪の口調を頭で反芻した。女性の複雑な身体の仕組から解放された「女性の寂しさ」を、何となく感じる。しかし、今西は心の奥で(妊娠できない身体・・・)がどのように使われるのかを想像していた。

フリーウエイが青い海原に沿って真っ直ぐ伸びているところに、トラックの荷重をチェックする検問所がある。突然、白いバンから多数のメキシカン(メキシコ人)が飛び出て、海沿いの方に蜘蛛の子を散らすように逃げ始めた。 数人の警察官が逃げ遅れたメキシカンを捕まえた。密入国者のようだ。数人が海沿いの土手を走って逃げている。

「すごいですね!」美雪が言った。

「なにが?」

「メキシカン・・・」

美雪の言葉に今西は軽くうなずいて「度々見かけるよ。此処の検問所はトラックの荷重チェックだけでなく、不法移民も監視しているようだよ」と言いながらバックミラーをちらりと見た。既に背後になった検問所の前の白いバンがミラーの片端に見えている。



「東京焼鳥」のオーナーから三日前に電話を受けていた木村美雪は、一人でサン・ディエゴに向かっていた。彼女の赤いコルベットは見慣れた検問所を過ぎた。しばらく走ると、フリーウエイの横に作られている旅行者の為のパーキング・エリアと展望台がある。此処からは時々沖を泳ぐ鯨が見える。フリーウエイの反対側は「マリン」と呼ばれる海兵隊の訓練施設で、列を成した海兵隊員が旗を掲げて走っている。

あと少しで、サン・ディゴに入る。美雪は「東京焼鳥」とのアポイントメントの時間と、他の客との都合を気にしながら、立ち寄れる顧客を頭の中で整理していた。レストランは、客の込みあう午前十一時半から午後一時半くらいまでは立ち寄れない。込み合う時間に立ち寄ると顧客の印象を悪くし、セールスにも支障をきたすからだ。サン・ディエゴには日系のスーパー・マーケットが二軒あるので、そこから今日の顧客回りを始めようと考えていた。

フリー・ウエイ周辺は次第に住宅地が増えて来た。

昨夜、加瀬から食事に誘われた。彼は最近突然と地位が上がり、NDL・フーズの重役になった。日本の会社の子会社なので、日本本社の実際の位は総務課長だということだがこちらでは部長待遇になっている。

加瀬は羽振りも良く、無碍(むげ)に彼の誘いを断るわけにも行かないので、美雪は加瀬と食事をした。アメリカで男の食事の誘いに応じるのは、ある意味ではセックスも許すと言うことだ。しかし、美雪は黒縁の眼鏡を掛け、色が白くて腺病体質のような体系の加瀬を好きにはなれなかった。学生の頃、美雪は体操選手だったので周辺にいたのは皆がっしりとした体育形の男性達ばかりだった。それに噂によると、加瀬は女たらしで中国人営業員のウエンディーとも関係を持っているとか誰かがしゃべっていた。加瀬は彼女に高価な指輪やネックレスをプレゼントし、それをおかしいと気付いた亭主に問い詰められた挙句、ウエンディーは最近離婚したと言う話も聞いていた。

加瀬は美雪と食事をしながら、彼女の好みをそれとなく聞き始めた。

「コンドが欲しい・・・」美雪は、いくら加瀬でもそこまでは手がまわらないだろうと考えての事だった。コンドは安くても十万ドル(当時で1、500万円)した。

加瀬は食べかけていたフランス料理のフォークを置くと、下から見上げるように美雪を見て、場合によっては頭金ぐらいは・・・ね、と念を押すような言い方をした。頭金は最低買値の10パーセントなので一万ドルでどうだと言う意味のようだ。

木村美雪は、自分が子供を授からない体躯であることの引け目から、いずれ一人暮しになると言う懸念をいつも持ちつづけている。今同棲している相手も日本に妻子を持っている。横浜の牛丼屋でアルバイトをしていた時、肉を配達に来ていた男だった。

美雪は、体形の良さから男にもてた。彼女にして連れ歩くには十二分な美貌をしている。それに外見からセックスもよさそうだと他の男から聞いたことがある。しかし、そのような事は彼女には取るに足らないことで、それよりも他の女性と違った自分の人生設計を書き上げなければならないという、後ろめたさや焦りのようなものが何時も身体のどこかに転がっていて、時々自分の奥深い禁断の実に当たっては音をたてた。

「二本だったらOKかも、ね」美雪は冗談ぽく加瀬に言った。20パーセントで二万ドル(当時で約360万円)だ。一介の会社員が簡単に出せる金額ではない。

加瀬は好色そうに唇をなめ美雪を見た。



「東京焼鳥」では、春美が待っていた。旦那のピーターはキッチンの奥でタバコを吸っていた。

「あなたのお名前は美雪でしょう。わたしは春美、お互い美しい女よね。よろしく」と、普通の女性は言わないようなことを春美は言い、NDL・フーズの美雪に店のテーブルを勧めた。

「あのね、商売繁盛してるの。チキン、たくさん使うわよう」と言った。大体店のオーナが繁盛していると自分で言うのは怪しい。そして、美雪の座っているテーブルに自分も座り、右手を上げてテーブルの上に置かれていた店のメニューをずらした。美雪の目に春美の指に光る赤い石の指輪が見えた。意識して美雪に見せたようでもある。

春美は「さて、と」軽く言い、チキンの価格を聞いた。彼女の目的は美雪をマリファナやドラッグの運び屋として使う事だったが商売は商売だと考えていた。

「パウンド、一ドルで、どうですか?」

「いいわよ、でもビーフも注文するから、あと十セント安くならないかしら?」

美雪が妥協すると「ピーター!」と春美が亭主を呼んだ。ピーターは、手にしていた煙の出ているタバコを使い捨ての灰皿の上でもみ消し、席を立った。

「コンニチわ」少しずれた日本語で美雪に挨拶をした。「日本に居ました」美雪が聞いてもいないのにピーターは続けた。大体「今日は」と日本語で日本人に言うと、日本にいたのですかと聞いてきた。だから、言葉が無意識に出てくる。「ヨコスカにいたデスよ」とピーターは付け加えた。

「私は横浜です」美雪が言うと「あら、うそっ! まっ」と春美が横から口を入れた。

「あたしもねッ、最初は横須賀に住んでいたのよッ。でも、この人と一緒になって横須賀よッね」と、ピーターの肩をたたいた。ピーターはちょっとした色男のように見えた。この女性が惚れ込んで一緒になりアメリカに来たのだろうと美雪は思った。

美雪は「横浜」をビジネスに使い、春美とピーターは「横須賀」を美雪を利用する為に使った。ピーターはマリファナ販売の為、既にロスアンゼルスから最終販売地のサン・フランシスコへの運び屋を見つけていた。サン・ディゴからロスまでは、このセールス・ウーマンをうまく使う事だ。この女の働いているNDL・フーズから品物を買うことで、この美雪とか言う日本人女性を運び屋にする、それとも、仲間にする・・・仲間にするのは、危ない・・・運んでいるモノの内容を知っていると、自然に検問所を抜けきれないかもしれない。ピーターは断片的に考えていた。

「とにかく、このくらいかしらねッ」春美がオーダーを決めたようだ。さて・・・出番だとピーターは春美に声をかけた。

「ハルミ、これUPSでおくりますか?」彼は段ボール箱を指差した。

「えっ?ああ、それね・・・」と春美は言い「ねえ、あなたッ」と美雪に声をかけた。

「NDL・フーズって、どこにあるの?」

「サンタフェ・スプリングです」

「あらッ!」春美は、さも偶然と言うように声を上げたが彼達は、既に「NDL・フーズ」の場所を知っていた。知っていながら知らない振りをしていた。

「悪いけど、この箱、届けていただけるとありがたいのだけど・・・アナハイムだけど、いいかしら?」こういう場合、あれこれ言わず、直接相手に頼むのがコツだと水商売上がりの春美は心得ていた。

「いいですよ。会社の近くですので。アナハイムのどこですか?」美雪は、新しい顧客がたくさん品物を買ってくれたのと、一週間に二回の配達で同じ程度を取り続けてもらい、しかも将来は「東京焼鳥」をチェーン展開すると聞いたので、営業として相手を雑に扱えないところだった。




レドンド・ビーチ



ある日、加瀬は木村美雪をヨットに誘った。

普通、ほとんどの女性はヨットに誘うと断らない。ヨットは金持ちの趣味と決まっている。金持ちの男性と仲良くなる事に女性は誰も躊躇しない。

加瀬は、最初はヨットをニュポート・ビーチに停泊させていた。ニュポート・ビーチのヨット・ハーバーには、数多くの大金持ちの豪華なヨットが美しい姿を海上に見せている。そして、彼のもっているような小型ヨットも多く停泊していた。

ヨットー・ハーバーには、お洒落なレストランも多い。

加瀬は木村美雪と、どこにでもあるセーフ・ウエイ(スーパーマーケット)の駐車場で待ち合わせをし、加瀬のスポーツタイプのベンツでニュポート・ビーチに向かった。

暖かい七月の土曜日の朝で、ボート遊びには最適の天気であった。

加瀬のヨットはモーター・ヨットである。全長が12・19mと小型だが中にはサロン(ラウンジ、キッチン)、寝室と豪華である。

加瀬は22万ドルの大金をキャッシュで支払ったと言う。

青い洋上は女心をくすぐるようだ。美雪は加瀬に対して好感を持ち始めた。

しかし、身体は許さなかった。


数ヵ月後、再びヨットで海に出た加瀬と美雪はカタリ―ナ・アイランドのカジノで遊んだ。

加瀬はポーカーで馬鹿つきをした。ニューポート・ビーチに戻ると、以前の愛人であるチャイニーズのウエンディにしたように、高価なネックレスを買って美雪に与えた。

加瀬がMDMA(エクスタシー)を飲み物に混ぜ、木村美雪に飲ませてセックスをする事に成功したのは、木村美雪が元彼と別れる決心をし、ウインチェスターに住んでいたアパートを出た日だった。加瀬は、取り敢えずと言う事で美雪にヨットを住まいする事を勧めた。そして、レドンド・ビーチの近くでコンド物件を探して、木村美雪は購入を決めた。加瀬が20パーセントの頭金を出した。




フレイト・ホワーダー 2006年


サンディゴとアナハイムのセールスを担当していた今西 誠は、サンホセ市にある支社『NNB Meat Packers, San Francisco, Inc』に転勤していた。サン・ホセ市はサン・フランシスコ湾南岸の都市で、サンフランシスコ空港から南に車で一時間ほどのところにある人口約100万人の都市である。コンピューター産業のメッカでシリコン・ヴァレーとも呼称されインテル、アップル、HP、グーグルやヤフーなど大手の有名会社の本社が軒を連ねている。

今西は、数年ほど営業マネージャーとして働いていたが突然とNDL・SFO・フーズを辞めて現在はフレイト・ホワーダー(物流―航空輸送)で働いていた。航空貨物を扱う仕事なので、彼の新しい会社はサンフランシスコ空港近くにあった。

セールスのジョージが今西の机に来ると、パンフレットを置いた。

「なんだい、これは?」

「新しい貨物だよ。東京に送りたい」

パンフレットを開くと、そこには皮をむかれて筋肉だけの人間の姿が写っている。

今西は、人体の標本かと思ったが今まで彼が見たものとは違っていた。

人間の屍が内臓を抜かれ、皮を剥かれた状態で乾燥され、本人の希望するスタイル,例えば平均台の上のポーズとかになっている。 

「五箱ほど、100KGほどかな?」

「いつだい」

「そうだね。この展覧会が来週終わるので、終わったらすぐに送りたい」

「・・・・・・」(全く変な物をよこしやがる)と今西は思いながら「とにかく、了解だ。後でクオート(見積)をくれ」と言って視線をコンピューターのスクリーンに戻した。大事な貨物のAWBを作成していた。

その背中からジョージが再び声をかけた。

「テッドはイタリアの地方訛があるがイタリア系か?」

今西はくるりと反転し「ジャパニーズだ」と強い口調で言った。ジョージは軽く右手をあげてニヤリと笑い自分の席に向った。

「グド・アクタヌーン」

今西の前のブース(囲い)にいるおしゃべり女のシャローがシッパー(輸出者)から貨物のピック・アップ・オーダーを受けたようだ。彼女はインテルの貨物を専門に東南アジアや中国、インドに送っている。 

「テッド、あなたのよ」と自分のブースの中から声をかけてきた。今西はテッドと呼ばれていた。従業員は各自がエージェントかスペシャリストでダイスのように区切られた個人のブースで仕事をしている。

「どこだよ?」

「SST」

「昨日出荷したばかりだ。 なぜ一緒に出せないんだろうな、くそっ」

「あーら、知らないわよ。とにかくパレットの貨物よ」

「金曜日だ、すべて金曜日に集めるさ」

シャローがトラック会社にピック・アップをオーダーした。今西はコンピュターのスクリーンでAESと呼ばれる、USカスタムズに申請するクライアント(輸出依頼者)の輸出書類を作成していた。 ちっ、スケジュールBが動かネーな。Bナンバーとは、アメリカ商務省の産業安全保障局が製品を仕分けしている10桁の数字だ。

「リッチ、もとは君のクライアントだ。Bは何だ」横のブースのアメリカ人に声をかける。商品はなんだです?元、ロングス・ドラッグ・ストア(薬販売のマーケット)の店員が丁寧に聞いてきた。 まだ店員の癖が抜けていないのか、彼は言葉を丁寧に話す。毛むじゃらな大男で高校生の頃はアメリカン・フットボールの選手だったそうだ。

「こりゃ、ケミカルだぜ。 HAZ(危険物)じゃあねェかな」

「大丈夫ですよ。前にも送りましたから」

「スティーブに確認すべきだ」二つ向こうのブースにいるフイリピン人のジョセルがブースから立ち上がって声をかけた。たぶん挨拶代わりだろう。あいつ、頭がはげてきてるなあ、リッチもそうだが。

「以前MSDSで確認しましたから」リッチが答えた。

MSDSとはマティリアル・セーフティ・データー・シートと呼ばれ、製品の安全性を証明する書類だ。

「運送のところも見ただろうね?」

「もちろんですよ。問題ないと書いてありましたよ」

「なら、いいや。でも大阪行きだからとにかく金曜日さ。メンドクセーけど」

各自のブースの中にある机の上には書類が山積になっている。電話が鳴る。皆自分の直通電話番号を持っているが相変わらず電話はメインにかかる。

ハロー、何、インポート?ここは輸出ですよ。今、輸入のエージェントにまわしますから・・・誰かが答えている。

今西(テッド)誠は大事な仕事が一息つくと、改めてジョージのくれたパンフレットを手に取った。表紙には「Body Worlds」「The original Exhibitions of Real Human Bodies」と書いてあり、病院などの壁に貼ってあるような筋肉だけの人体の写真が載っていた。今週はサンホセのテク・ミュージアムで展示を行っているらしい。好都合だと今西は思った。彼は前の会社がサンホセにあった都合上、未だサン・ホセに住んでいた。来週月曜日、サンフランシスコ市内にある痔専門の診療所に予約を取ってるので仕事を半ドンで終わることにしていた。治療が終わったらそのまま家に帰るつもりだったので、ついでにこの展示会も見てこようと思った。

そして、月曜日、痔の診療所に行く日は、三日ほど降り続いた雨が降り止むと言った気象予報に反して土砂降りの日だった。サンフランシスコ国際空港からサンフランシスコ市内までは車で十五分ほどだ。仕事を半ドンにして雨の中をサンフランシスコ市内に向かった。

市外の手前、少し勾配の坂を緩やかに左に曲がると、雨のサンフランシスコは霧で白くぼやけて驚くほど静かに見えて来た。以前と同じように四番街で降り、三番外から駐車場に車を停めた。風が出ていた。 

傘を忘れたので、駐車場から出るとアーケイドのない歩道を100メートルほど小走りに走るが大粒の雨が顔に当たり目にしみこんだ。古いビルに飛び込むと手で顔をぬぐってエレベータに乗る。歴史的な建物なのか、ロビーは格調があり、きちんとした身なりの年取った案内係が人々をエレベーターに案内する。背広組もいれば花屋の配達人もいて、雨にぬれた花束から花の香りがした。十階でエレベーターを降り、絨毯の敷き詰められたフロアを診療所のほうに歩く。人影は無い。

半時間ほど待って治療が終わると、サンフランシスコから車で一時間ほど南にあるサンホセに車を飛ばして展覧会に向かった。雨は止んでいた。



展示会は、コンピューターのメッカであるシリコンヴァレーにある「テクノロジー博物館」(The Tech Museum)で行われていた。「グンター・フォン・ハーゲンス博士の人体標本展」(Gunther von Hagens' Body Worlds exhibit of real human bodies)をテーマにしていた。

入口付近にはテクノロジーのミュージアムらしく、工学に関した展示品がオブジェとして飾ってある。

人体標本の展示場は直ぐに分かった。例の皮をむかれて筋肉だけ見える人体の写真が大きく引き伸ばされて飾ってあった。


「Body World 2・・・」


今西はティケットを買った後、薄暗い室内に、他の見学者に混ざり入って行った。一つ一つの人体に灯りの焦点が合って像を浮かびあがらせている。彼は一種の不気味さを覚えた。一人では、ここに入ってくる勇気はないな・・・と思いながら、様々なポーズをとっている一つ一つの像を順番にながめて行った。身体の臓器が各部所ごとに整理され、大きなガラス・ケースの中に並べられている。スライスされて、内部が分かるようにも工夫されていた。標本は胎児から子供、そして大人まである。これらは総て本物で、自分と同じ肉体をもっていた人間だった。馬などの動物の標本もある。人間の標本は生前に献体の意志を表示し、契約されていた身体を死後直後にプラスティネーション加工したもので、遺体提供者に対し感謝の言葉が提示されていた。

しかし、標本は皮をはがれた人体像で、美しい皮膚や黒髪、赤い唇は無かった。ただ、赤い筋肉が骨を覆い筋が全身に走っている。フット・ボールやサッカーの選手、陸上競技の選手、ダンスをしている像、グループの像、楽器を弾いている像、座っている像、立っている像・・・そして、体操選手の像、動物の像などもあるようだ・・・そして、今西はふと一つの像に目を留めた。女性の床運動のポーズをとっている。彼は思わずその像に近寄っていた。どうした事か、思わずその女性象の足指に眼の焦点を合わせていた。

「私の、この指、こんなんですよ・・・」木村美雪の声が蘇って来た。(バカな!)そう思った。此処はアメリカだ。この皮をむかれた像・・・彼は、人体像の顔に目を向けた。無表情な筋肉を露出させた像が、うつろな目を空間に向けている。片足を上げ、手でバランスをとる床運動の一瞬のポーズだ。国体選手だった木村美雪は、練習中の跳び箱で足の指を折った。その指は直った後も、特殊にゆがんでいた。(まさか!)今西は内心で叫んでいた。



推理小説家の森山太郎は何気なく見た「ツィッター」で、偶然にも今西の書いた「つぶやき」を読んだ。

“多分知っている女性が人体の見本・・・”

と、しゃべっている。これに対して”お前、おかしいんと、ちゃうか?“とか”まさか、まさか、まさか!“とか、とにかくありとあらゆる言葉がこの「つぶやき」を中傷していた。”だったら、殺人だべよ”と冗談のように書いた返信に、森山は「IBPの箱に人肉」と書いていた新聞と結び付けた。なぜなら、これを書いた男は皆の中傷に耐えかねてか、食肉加工会社NDL・フーズのことまで書いていたからだ。 又「2チャンネル」には、


•気持ち悪いけど 面白い!ってのが先に来る人間の異常さが怖い

•妊婦の標本がインパクトあったなー。

•お腹に穴開けて胎児が丸見えになってるやつ。

•輪切りの死体とかこのためにわざわざ切ったのかあれ


などど、一寸身勝手な意見が書き連ねてあった。

この「ツィッター」で「人体の像」を書いた男はカリフォルニア州のサンホセ市に住んでいるようだ。いずれこの展示会は東京に来る。日本のメディアによると、この展示会は「人体の不思議展」と呼称されている。しかし、仮に「床運動のポーズを取った像」が本当に日本人女性だったとすれば、この像はどこで作られたのかと言う疑問が出てくる。

この防腐技術「プラスティネーション(Plastination)加工」は、もともとドイツのグンター・フォン・ハーゲンス(Gunther von Hagens)博士が開発したもので、従来のホルマリン漬け人体標本と違って匂いがなく、普通の室内で何日でも保存できるらしい。人体像は、筋肉と骨格がむきだしにされた全身標本や身体の一部や臓器が輪切りにされたもの、血管が露出した呼吸器系標本、胎児の標本などであると情報誌には書かれている。

しかし、中国でもハーゲンス博士のもとで研修を積んだ解剖医が中国で同じような手法の人体標本を作り始め、それは「プラストミック」と呼ばれている。この技術は、体の組織に含まれる水分や脂質をシリコン、ポリエステル樹脂に置き換え、半永久的に保存する技術と云われているがハーゲン博士の技術のコピーだ。

最近は中国製の安価な人体標本が出回り、人体の出所が生前に本人の同意を得たものでなく、死刑囚とか身元の分からないような死体が使われていると憶測を呼んでいる。

 (アメリカでプラスティネーションが行なわれるとは・・・) 森山は、ツィッターを疑った。そして、確認する為に、もう一度ツィッターに書き込んだ。


•まさか、アメリカに住んでいる人間がプラスティネーションされるわけがない。

すると、数日して

•まさかのまさか、と思うが・・

•足の骨など、標本を作る際にミスしたのではないか?

•最初は、そうおもった。彼女の足の指は特殊な曲がりをしていた。

•まじか?

•あたりまえだ。ロスの友達に聞いたら、この女性は突然と消息不明になった。

•人肉の入ったIBPの箱が、日本の海岸に流れ着いたニュースを知っているか?

•しらない。なんだ、それは?

彼達のツィッターに、ほかのツィッターも口を挟んだ。森山はさらにツィットしてみた。

•横浜の海で人肉の入ったIBPの箱がみつかった。

•IBPの箱?NNBと言う会社で働いていた事があるのでIBPの箱は知っている。

すると他のツィッターがIBPとは何だときいた。インターネットで調べれば直ぐ分かる事なのに、話の流れから聞いたのだろう。

•Iowa Beef Packers Inc(IBP)アイオワ・ビーフ・パッカーズ)


相手はアメリカに住んでいる人間らしく会社名を先ず英語で書いて来た。

森山は、近くのお盆に載せてあった桃を手にとって、広いつくりになっているベランダに出た。良い天気だ。階下に広がるクヌギ林に目をやると、こぼれるような若葉色が光の中に満ちていた。森山は桃を齧った。あまい果肉と果汁が喉元を過ぎてゆく。人肉はどのような味なのだろう。人を殺し、解体する。尋常な精神の持ち主ではないだろう。異常者か、それとも復讐に狂った殺人鬼。

昭和56年、フランスの名門大学、パリ・ソルボンヌ大学院に留学していたSという男がフランス人女性の人肉を食べたと言う話がある。しかし、人肉を食べる為、肉牛のように各部位の肉に分けるのだろうか、分けたとしたなら、それは正常な精神状態だ。

Sは,フランス人女性を殺害し死姦を行なった後、死体を解体した。おそらく肉屋のような熟練技は持っていなかったはずだが乳房、尻、大腿部や陰部を切り取りフライパンで焼いて食べ更に、唇、鼻、舌の部分を口に含んで舐めまわしたと何かに書いてあった。


森山は、取り敢えずウエブサイトで横浜の辺りから調べ始めたが直ぐに次のような事件が浮かび上がった。


[横浜バラバラ遺体事件] 2009年(平成21年)6月下旬、横浜市金沢区の海で切断された2人の遺体の一部が見つかった事件で、7月29日、遺体 は神奈川県大和市の会社員の高倉順一(36歳)と東京都世田谷区の自営業の水本大輔(28歳)で あることが分かった。高倉と水本は友人を介した知り合いで6月20日ごろから行方不明になっていた。10月14日、滋賀県の無職の宮原直樹(当時21歳)、いずれも21、22歳の職業不詳の男3人が逮捕される。翌15日、住所不定、無職の池田容之(ひろゆき/当時31歳)が逮捕される。12月8日、捜査本 部が住所不定の元早大生の近藤剛郎(当時25歳)について強盗殺人容疑などで逮捕状を取ったことが捜査関係者への取材で分かった。近藤は覚せい剤取締法違 反容疑で警視庁などに指名手配されているが、海外に逃亡しているとみられ、県警は国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配する方針。2010年(平 成22年)11月16日、横浜地裁は池田容之に対し死刑を言い渡した。裁判員裁判が2009年(平成21年)5月に始まって以来、初の死刑判決となる。

「http://www.alpha-net.ne.jp/users2/knight9/barabara.htmより」



「バラバラ事件」と表現した殺人事件は予想以上に多い。

ウィキペディアの百科事典は「バラバラ殺人」(バラバラさつじん)を、死体を部位により分割したり、分割した死体の一部を圧壊する殺人と死体損壊の一般的呼称であり、動機によっては猟奇殺人に分類されることがあると前置きし、怨恨、性的興奮や食人目的のケース以外でのバラバラ殺人の犯行パターンは、大きく 「廃棄・隠蔽型」「公開・挑戦型」「制裁・見せしめ型」 の三つに分けられる。欧米では「バラバラ殺人」は性的異常者の快楽殺人にいる犯行とみなされるケースが多いと書いていた。

この横浜の事件は犯人の一人が国際刑事警察機構(ICPO)を通じて国際手配されている。当然IBPの箱に入った人肉事件は日本国内で行われた殺人ではない。しかし、死体をわざわざ部位分けにしてIBPの箱に詰め、どうして又、どのようにして日本に運んだのだろうか。もちろん冷凍して運んだのだろうが、牛肉輸入業者の貨物に混ざっていたのであれば警察に知らせるだろうし、万が一、間違ってレストランやスーパーに運ばれていたら新聞や雑誌が騒ぐはずだ。このケースでは、誰かが個人的に、この人肉入りの箱を何かの目的で日本に運び入れたに違いない。

後一月ほどで「人体の不思議展」が横浜で催される。そこに、ツィッターで知った、体操の床マットのポーズをとる女性の像も送られてくるはずである。ツイート(つぶやく)したサンホセに住んでいる男は流通の仕事をしていて、彼の会社が展示会の像をサン・フランシスコから成田まで航空機で運び、通関を経て横浜の展示場に届けると言うようなことを書いていた。信じられないような事だが森山は取り敢えず、横浜で行われる展示会に行ってみることにした。

新聞の広告によると、展示会は「人体の不思議展実行委員会 (人体の不思議展監修委員会/日本アナトミー研究所/読売新聞)」が後援していて、一ヵ月後にスタートするようだ。

もちろん森山は、この事件に関しても警察庁の「刑事指導室」課長である叔母の奈緒子に国際刑事警察機構(ICPO)の調査報告書を閲覧できるかどうか問い合わせてみるつもりであった。ICPOの役割は、各国捜査機関の連携の窓口で逮捕する権限は持っていないがインターナショナルの上においては有効に動いている機関である。


横浜の港


月曜日、森山は東京の某出版社に行くため調布市にある自宅を出た。アメリカでプライベート・パイロットの免許を取り、セスナで飛ぶ事を趣味にしているので、日本に帰っても迷うことなく飛行場の近くに住み始めた。出版社には混雑時間を避けて調布駅から京王線の準急で新宿に出て、池袋、護国寺、そして地下鉄でK出版社のある音羽に行く事にした。

出版社の三階の一角に、森山が時々原稿を使ってもらっている雑誌部があり、二人の社員が彼を迎えた。「こんにちは森山さん」目ざとく森山を見つけた一人が月並みな言葉を掛けてきた。売れない作家では、この程度だろうと森山はこの段階でいつも思う。

「すみません。これ原稿です。よろしくお願い致します」

「持ってきていただいたのですか?送ってもらっても良かったのに・・・それにEメイルでもよかったのですよ」他の社員が立ち上がりながら言った。

「いえ、ちょっと、横浜にも行く予定があったものですから・・・」

「横浜ですか?」相手がこえを上げた時、編集長の川村がやって来た。

彼は森山を見て「これはこれは」といいながら森山のほうに来ると「今日は又、どうしてですか?」

その問いに他の社員が「原稿いただきました」と川村に声をかけた。

「ああ、そうですか。わざわざ・・・」

「いえ、横浜に行くついでです」

「よこはまですか?買物でも?」という川端の問いに森山は少し間を置いて「実は・・・私も歳ですので、これからは推理をかこうか、なと・・・」

「オ、いいですね!」と川村は少し期待したように声を強めた。

「そうですか?」

「ハイ、森山さんの場合、何となく推理が似合うと思います」森山は未だ先生と呼ばれていない。これといったヒット作品を書いていないからだ。

編集者に原稿を渡し、少し談笑した後、出版社を出た。その帰りに護国寺から東京メトロで有楽町線背池袋に出て湘南ラインの快速で横浜に行き、少し今回の事件を調べてみる事にした。横浜はなぜか海に関する事件が多い。神奈川県警横浜水上所の警察官がバラバラ事件の肉体の欠けらを網で探しているところをYouTubeのビデオで見ることができる。

アメリカのサンホセに住んでいるツィッターがツィットした中に、人体展に展示されている床体操のスタイルをしているMと言う女性は、学生時代横浜の牛丼店で働いており、そこで肉処理担当の妻子ある男性と関係をもった。山家(やまや)牛丼店がアメリカで牛丼店をチエーン展開する時、男性はロス・アンゼルスに単身赴任した。その後を追ってMと言う女性もアメリカに渡った、と言うようなことも書いてあった。一体、ここまで書いている男とMと言う女性はどのような関係だろうか? とにかく、この辺りから調べ始めようと森山は思った。

横浜駅の西口から交差点をわたり少し歩くと左側の方にKFCがあった。道はあまり広くなく、片一方には配達車両が駐車して荷物を配送していた。全体的にこぎれいな町並みだ。やがて見慣れた黄色の看板の牛丼店が見に飛び込んできた。KFCと牛丼屋のあいだにはツイットにあったカラオケ店の「カラオケ館」があり、ここで妻子ある男性とMと言う女性は度々一緒にカラオケを楽しんだらしい。反対側はドンキホーテ横浜店だ。駅近くらしく、色々な有名店が売り上げを競っている。

森山は腹も減っていたので山家牛丼店にはいった。「いらっしゃいませ!」と言う、掛け声があった。

彼は牛丼の大を注文して少し離れたテーブルに座った。二時過ぎと言う時間帯の為か客は少ない。

直ぐに活発そうな女の子がお待ちどう様と盆に載った牛丼を届けてきた。彼は牛丼を受け取りながら「この店、ロス・アンゼルスにもあるよね?」と聞いてみた。

「はい!ございます」相手は元気な声を上げた。

「ロスのウイルシャーで食べた事がある・・・」

「じゃ、お客さんはロスにいらしたのですか?」

「うん。十年ほど住んでいた、かな」

「へえ・・・うらやましいです。私もロスに行きたいので会社に申し出ているのですけど、英語がなかなか」

「誰か、この店からもロスに行ったの?」

「はい。二人ほど、ロスに行ったらしいですよ。詳しくは知りませんが・・・」

「祐子ちやん!」店のカウンターから声がかかった。「ハイ!」若い女の子は声を上げると森山にぺこりとお辞儀をしてカウンターに入って行った。そして、又他の客の牛丼を盆に載せて客席に戻った。森山は、店の奥から自分を確かめられたような錯覚を持った。若い女の店員か森山の席に来て「お客さん、ロスに行ったのは工場の人だったそうです」と声を落として言った。

「ああ、そうか。やはり肉に慣れた人でないとね」

「はい」たぶん女の子は森山の言葉に反射的に同意したのだろう。

森山は、どんぶりの肉と飯を箸ですくい口に運んだ。

このチェーン店はミートセンターを持っていて、そこで解凍したアメリカ産の牛肉の塊から余分な脂肪などを取り除き、スライスして幾十にも検査した後、各店に配送されているのだと言う。枝肉からの仕分けではないようなので、IBPの箱に入っていたプロの仕業のような技術は持っていないだろう。


数日経った後、森山は調布飛行場に向かった。セスナ172をレンタルして、横浜港から人肉入りの箱が打ち上げられた神奈川県横浜市金沢区海の公園(うみのこうえん)辺りの海や海岸を上空から見てみようと思った。燃料タンクは満タンである。天気は良く有視界飛行なので心理的に余裕がある。チェック・リストを読みながら復唱し軽くスロットルに手を当てエンジンのスイッチを入れた。バララララとセスナのエンジン音が周囲に響いた。航路の地図を再確認し、管制塔を呼び出して地上滑走の許可をもらった。ブレーキをはずし、軽く足を乗せた右ラダーを踏み込みスロットルを押すと、セスナは鼻先を白い斜線の方向に向けゆっくり走り始めた。地上滑走をしながらブレーキやラダー、フラッブ、操縦輪桿をチェックした。エンジン・チェックの場所でブレーキをかけ、スロットルを上げてエンジンをフル回転させて計器を確認する。どこにも異常はない。セスナ172が身震いしながら元気なエンジン音を上げる。

森山は管制塔に離陸許可を要求した。事務的な管制官のジャパニーズ・タングの英語が許可を伝えてきた。森山はスロットを全開にしブレーキを放した。セスナ172は滑走路をすべるように滑走を始め、指定されたテイク・オフのスピードに達したので彼は操縦輪桿を軽く引いた。スーツとセスナは地上を離れた。

横浜港上空は快晴、有視界飛行で高度1、000mを保って真っ直ぐ横浜港に向かった。ほとんど無風に近い。前方には東京湾が見えている。多摩川上空から,川崎市と飛び横浜上空に着くまでに高度を2、000mまで下げ、ゆっくりと目的地の海岸にセスナを飛ばした。横浜 ランドマークタワービルから山下公園を通過した後、本牧埠頭で右に旋回し海岸に沿って横須賀のほうに向かった。右眼下に首都高速湾岸線が357線につながりやがて終わる辺りが八景島。少し気流が乱れ始め、操縦輪桿がぐらついた。森山は眼下に広がる地形を観察した。根岸森林公園、磯子、金沢八景・・・バラバラ事件の海岸や、人肉入りのIBPの箱が流れ着いた海岸がある。少し手前の湾内で機体をスリップさせ高度を1、000mまで落とし、辺りの海岸を調べてみた。そして日本キリスト教団金沢八景教会を見つけると上空に迫り、塔を中心にして45度のバンクで左旋回した。

キリストの十字架が左の窓の外に見えている。セスナの鼻先にチラリと米軍の軍艦が見えた。彼は機体を戻してセスナの鼻先を米軍基地のほうに向けたが飛行禁止空域には入れない。森山の脳裏に、ふと、軍艦なら・・・と、閃いた。軍艦なら、人肉の箱を運んでこれるかもしれない。そして、横須賀近くで投げ捨てた・・・しかし、仮にそれが本当であったとしても、わざわざ殺した人肉の入った箱をミリタリーポリス(軍警察)に見つかる危険性をおかしてまでも運んでくるだろうか。彼は、飛行禁止空域のぎりぎりまで近寄ってみた。遠くの埠頭に中級サイズの軍艦が数隻みえている。当然、基地のレーダーや軍艦のレーダーは森山のセスナの機影を捉えているだろう。森山はセスナの機体が横滑りを起こして飛行禁止区域に近づかないように操縦しながら周囲の海を眺めてみた。白いさざ波があちこちに見えるが全体としては穏やかな青い海だ。海流の流れは分からない。例えば、観音崎辺りの海や米海軍横須賀基地辺りの海に箱を投げ込んでも、野鳥公園の海岸までは流れ着かないだろう。海の底に沈んでしまうに違いない。すると、誰かが日本キリスト教団金沢八景教会の近くまで箱を運んできて海に投げ込んだ。それとも、対面に近い八景島マリーナの海岸から海に投げ込んだ。セスナの機体がガタガタと揺れた。軽いタービュランスだ。三浦半島の山並みに近くなっていた。森山は機体を調布方向に向けた。


そして、三月半ば、横浜で「人体の不思議展」がスタートした。森山はサン・フランシスコの物流会社で働いている男がツイートした、彼の知人である女性の人体があるかどうか見に行くことにした。「人体の不思議展」は川崎駅東口の川崎ルフロンと言うビルで行われている。目的のビルに着くと、一階にの正面に「人体の不思議展」は四階で開催されていると立て看板が置かれていた。かなりの人達がこの不思議展を見に行くようだ。皆、同じ方向に向かって歩いているので多分そうだと森山は思いながら、人々の流れの中で同じように歩を進めた。階段を使う人が多い。エレベーターを待つのが面倒なのと、若い人が多いからかもしれない。家族連れもいるが子供は高校生か大学生と思われる年齢に限られていた。やはり子供には見せられないような代物かと思われた。四階の展示場前には改札口があり、ガイドブックなどを売っている。背後の壁には人体解剖写真に「人体の不思議展」と書いた大きなポスターがかけてある。表皮を取り除かれた人間の身体だ。赤い筋肉の筋が骨格に貼り付いている。入場料は大人1、500円だった。森山は資料として入場料よりも高いガイドブックも購入した。入口から中に入ると薄暗い中にライトアップされた人体の標本があちこちに見えた。手前の像はスポーツ選手の格好だ。全身の標本が13体、人体の各パーツの標本が170点ほど展示してあるらしい。中学校の理科室などでは、ビンの中にホルマリン漬された本物の魚の標本や、プラスティックで出来た骸骨や人体の標本を見たものだがこの展示会ではまるで本物・・・いや、ここにある標本は実際の人間の身体である。皮をはがれ、体液のすべてをプラスチック樹脂に置き換えるという技術(プラスティネーション)で作られた正真正銘、本物の標本で、つまり「人間の死体」だ。

森山は、例の女性像を探した。体操の格好をして、片足で立っている人体標本像・・・彼の目の前をたくさんの見学者が横切って行く。一人だったら、恐怖を覚えるだろうが見学者の大半は、人体の標本が見世物として飾ってあると考えているに違いない。背の高い二人の女性が森山の目の前を過ぎた時、女性の頭の影から一つの像が目に入ってきた。全身像は展示会場のはずれ、赤っぽい壁を背景にして立っている。ツイッターの言ったとうり、その像は体操の床運動の姿だ。片足を上げ、手でバランスをとった姿、像には数箇所から光の帯が降りそそいでいる。

あれだ、森山は歩みを進めた。薄暗い会場に死体の墓場・・・と、皮肉な考えを持ちながら歩いていたが像の近くで足を止めた。一人の男がまじまじと像を見上げているのが目に入ったからだ。男は軽く目じりを拭き、像に近寄ると例の足の方を身体をかがめて見入っている。生前の彼女を知っている人物なのか? 年齢は40歳後半・・・ブルー・ワーカー風。頭にはドジャーズの野球帽を被っている。彼は、かなり長い間その像の前にたたずんでいた。森山は他の人体標本を眺めながら男を注意深く眺めた。男と像のかかわりあいは間違いないようだ。像の女は、彼のガール・フレンドだったのか・・・まさか、妻と言うことではあるまい。森山はかなりその男に近寄って見た。辺りは薄暗いし、たくさんの見学者が行きかっているので、怪しまれる事はないだろう。彼は像を見る振りをしながら男の横に立った。男は両方の手をジャンバーのポケットに入れていたが横に来た森山の姿をチラリと見、手をポケットから出すと帽子を直した。チラリと森山の油断のない目に、男の指が掛けているのが見えた。小指ではない人差し指の第一間接付近から無くなっていたが、やくざではないようだ。男が動いたので森山は像の足に目をやった。確かにサン・フランシスコに住んでいるツイッターの言った特殊に変形した小指があった。プラスティネーションの技術者は、この足の指を矯正しなかったようである。些細な事だと判断したのか、それとも気づかなかったのかである。小さな指だが骨が瓢箪の形をしていて、それに幽かな筋肉が赤く取り巻いている。全体像は見事なプロポーションだ。床体操のポーズが良く似合っていた。

「あら、こんにちは」声を抑えた女性の声が森山にかかってきた。彼は声のしたほうに目を向けた。若い女の子がいた。直ぐに「牛丼屋」で働いていた女性だと分かった。

「やあ・・・」

「びっくりしました」

「ぼくもびっくりしたよ」

「お客さんの帽子が見えたものですから」

森山は、アメリカのロス・アンゼルスに住んでいるとき、特別に発注した野球帽を被っていた。

「ああ、これね。確かに、目印になる・・・ところで君は今日は休みかな?」

「はい。牛丼屋はアルバイトなんです。私、学生ですから」

「会社にロス行きを申請していると言っていたから、社員かと思ってたよ」

「あの牛丼チェーンは留学の奨学制度があるんです。だ・か・ら・・・」と、女の子はにこりと笑った。

「なるほど・・・で、今日は勉強で」

「私、これでも生物学専攻なんですよ」

「では、格好の標本だね」

「ええ、そして、お客さんで二人目。此処で知った人に合うの」

「まあ、こんなに見学者がいるからねえ・・・」

「でも、一人は牛丼屋の人」

「牛丼屋の?」森山はふと、先程の男ではないかと思った。

「工場の人ですけど・・・ロス・アンゼルスに行っていた人です」

「人差し指を怪我された人?」

「えっ?お客さんご存知なのですか?」

「あてずっぽうで言ったんだけどね。先程、此処でこの像を見ていた人が印象的だったので」

「この、像をですか」と、女の子は言い、人体の標本像をまじまじと見た。

「君、この像に心当たりでも?」森山は、冗談ぽく聞いてみた。

彼女は首を横に振った。

「そうだよね。皮をはがれた人間は全く分からない。ドイツの哲学書だったかな・・・一皮向くと美人も不美人も無いと明記していたのは。ところで、君は未だ見て回るの?」

「いいえ。帰ろうと出口に向かっているところにお客さんの特別な帽子が目に入ったものですから・・・ちょっと興味を持って声をかけさせてもらいました」

「じゃ、出ようか」

「お客さんも、見学は終わりですか?」

「いや、全部は未だ・・・でも、後は見る必要が無いのでね・・・君、昼ご飯は?」

「まだ、です」チョッとはにかんだように鼻に小じわをよせて微笑んだ。なかなかかわいい子だと森山は思った。

「昼飯でも、いっしょにどうかな?」

「ありがとうございます」女の子は言った。

森山は女の子を連れて川崎駅近くにあるイタリアンレストラン「イル・バッチォコーネ・ディ・キャンディラ・チッタデッラ」という長い名前の店に入った。初めての店で、イタリア料理の内容は知らなかったが若い女の子達がイタリア料理を好む事は知っていた。だから「人体の不思議展」の会場を出た後「イタリア料理でいいかな?」と聞くと、女の子は「はい」と言った。

店内は結構雰囲気がいい。ランチタイムを過ぎていたせいか、店内は適当に空いていて静かそうなコーナーの席が取れた。

「改めて、始めまして。ぼくは森山です。君は?」

「ゆうこ・・・片桐祐子と申します」

「よろしく。今日は本当に奇遇だったね」

「はい。森山さんは横浜にお住まいなのですか?」と尋ねてきた。森山が彼女の働いている牛丼店に行ったからだろう。

「調布だけどね・・・横浜には少し用事があって・・・でも、最近良く来ている」

「お仕事で?」

「仕事のうち、とでもいうのかな・・・モノ書きだから」

「ライターですか?」女の子は少し驚いたように訪ねてきた。

「売れない作家を“ダイム・ライター”と英語では言うけど、そのうちの一人」

ウエイターがメニューを持ってきたので好きな物を進めるとランチ定食をと控えめに言った。

彼達はパスタを食べながらロス・アンゼルスの話をした。女の子が森山の留学経験に興味を持っていたからだ。

「ところで、今日人体の“人体の不思議展”で見た男の人、どうして手に怪我されたのかな?」

「あの方は埼玉の加工工場で働いていた方で、肉の加工中に怪我をされたと聞きました」

「その後、アメリカに・・・」

「単身赴任だったらしいですけど・・・いつ日本にお帰りになったのかは知りません」

「そう・・・人体標本と・・・LAと・・・肉・・・か」

女の子はフォークに巻いたパスタを口に運ぼうとして止め「お仕事の取材ですか?」と聞いて来た。

森山は少し内容を話して協力してもらった方が良いだろうと考えて話し始めた。



横須賀の米兵


米海軍の下士官であるパトリックの給料は高くなかった。しかし、キチンと生活すれば衣食住がただの兵隊生活だ。中には、十二分に貯め込み、除隊するまでの期間に家の一軒も買える頭金を溜め込む兵隊もたくさんいるが、兵隊生活ほど退屈で窮屈なこともこの上ない。大半の水兵たちは港で胡散晴らしのため飲み歩いた。日本の物価は高い。水兵の給料などあっという間に巷の女達の懐に消えていった。

パトリックは兵舎の中にいた。一週間前の給料は既に給料袋の底のほうに貼りついている。彼は、鉄のアングルで出来たベットに横たわり兵舎の天井を見上げていた。二人部屋で相手の水兵はジャパニーズ・ガールとデートだと言って朝早く出かけた。カネを惜しみなく出せば女の一人二人・・・とパトリックは考え、フッとキッチンポリス(炊事班のヘルプ)の時に知り合った男のことを思い出した。同じネヴァダ州の出身と言うこともあって直ぐに仲良くなった。彼は日本人にLSDや大麻などのドラックが高額で売れると言う話をした。彼は立ち上がり、男の電話番号をメモしていた手帳を取り出して携帯から電話を入れた。

「ヘロー」

「ビル。パトリックだ。覚えているかな?」

「パトリック・・・?」

「ああ、そうだよ。エルコ(ネヴァダの都市)のパトリックさ。基地のPK(kitchen Police *米軍基地調理場の補助作業当番)で会ったことおぼえている?」

「へーイ。ユー!パトリック!思い出した。元気かい?」

「ああ、元気だ。元気だが金欠さ」

「なあーるほど。水兵はペイ(給料)が安いからな。ところで、何かようかい?」

相手は、パトリックが金欠だといった時点で、彼の意図を察したと思うが慎重だ。

「例の仕事、紹介してくれないか?」

「ドラッグか・・・」

「ああ・・・それ」

「・・・・・・」相手は少し考えていた。

そして「・・・丁度いい。俺は軍を辞めているから・・・とにかく合おう。今日休みか?」

「休みで、ひまだ」

「よし、東京の六本木に来い」

「六本木のどこだい?」

「駅に着いたら、電話してくれ」


ビルは六本木のクラブでDJをしていた。ひどいネヴァダ訛があるのに日本人には分からないのだろう。そして彼は、おもに合成麻薬の「MDMA(エクスタシー)」を販売していた。MDMAは二錠が一万円で売れた。このドラッグは音に対する感受性を高め、セックスの快楽を増す動きがありディスコで踊り明かすヤンキーたちに人気があるらしい。ジャップの女とのセックスには事欠かないぜとビルは言った。金を払わずにか?ドラッグで支払う、クックックと低く笑ったビルの声がパトリックの耳に残った。

彼達は、多量の大麻やコカインまでもアメリカから運ぶ計画を立てた。ビルが紙の上にボールペンでヨコスカ(横須賀)、サン・フランシスコ、サン・ディゴと書きまるで囲った。

「サン・ディゴにはダチがいる。昔、海軍のキッチンで料理を作っていたヤツだ。焼き鳥のチェーン店を作る為に金が要るんだとさ。それで、ドラッグを売ってくれないかと誘いがあった。のるかい?」とビルは言ってパトリックを見た。

「・・・・・」パトリックはビルの言葉に、ドラッグのバイヤーと言う最も俗悪な犯罪に染まっていくような恐怖を覚えたがビルの示した高額な報酬に心を奪われていた。

ビルの携帯が鳴った。

彼は先ず誰からのコールかを確認し、携帯の開けると耳に当てた。

「もしもし」とビルは日本語で言った。

「オッケー。今友達がきてますがだいじょうぶ・・・三十万円分、あります。だいじょうぶです。はい、では・・・」と彼は電話を切り、英語で早口に詳細をパトリックに話して聞かせた。Y大學の学生がMDMAを買いたといっている。奴らは、女を手に入れるためにドラックを使う。学生のくせに悪だ。イベント・サークルとか何とか言って、ドラッグ入りのジュースや酒を女に飲まし手籠にする。今に警察沙汰になるんで、気が抜けないが多量に買うし、高く売れるバカな奴らだ。

該当販売のMDMA(エクスタシー)は1988年ごろにはアメリカで一錠が36ドルほどした価格も現代では10ドルほどだ。上手く仕入をすれば50錠入りの小瓶が50ドルで買える。一錠1ドルほどのモノが日本の末端では1錠が約100ドルにもなるのである。しかし、密売ルートを使うと50錠入りの小瓶は最終的に手元に来ると300ドルになってしまう。一錠が6ドルだが日本円では5,000円、円高なので60ドルほどになる。一ビン50錠が3、000ドルに化けるのだ。

「とぶように売れるぜ」と言うのがビルの答えだった。

「どうやって仕入れるんだ・・・海軍だって、ドラッグには厳しいぜ・・・」

「心配するな。俺もやった事があるんだが軍事郵便を使えば運べる。しかし、俺は退役しているので、お前がやるんだ」

「俺が?」

「ああ、心配するな」と、ビルは再び心配するなと言った。

「しかし・・・」

「心配するな」と彼は再び言い「名前を貸してくれるだけでいい。後は俺が、手配するから荷物が届いたらミリタリー・ポリスに見つからないように、此処に持ってくるだけでいい。できるかい?」ビルの目がパトリックの目を覗き込んで来た。

「・・・で、できる。やるさ、分け前はいくらだ・・・」パトリックは少し身体を小刻みに震わしながら恐る恐る聞いてみた。既に、悪い事をしている感覚になっていた。

「分け前だけじゃネェよ。ジャッブの若い女もたらふくいただける。相手から近寄ってくるぜ、クックッ」否な笑いだった。しかしパトリックは金にも女にも飢えていた。そして,金が貯まったら辞めれば良いと浅く考えたのである。




アメリカのサン・デェゴにある焼き鳥レストラン「東京焼き鳥」のオーナーにE-メイルが入ったのは、ディナータイムが終わり十二時に近い土曜日の夜のことだった。

タバコの煙を払いのけながら店のキッチンの片隅にあるオフィスで、最近は大麻の販売でカネに余裕の出てきたピーターがコンピューターのキーを叩いている。

「春美、こっち、こっち」ピーターが幼稚な日本語でワイフの春美を呼んだ。彼女は相変わらず金勘定に時間を費やしていた。

「まちなさいよ!間違うじゃないのよ!」春美がドル紙幣を握った手を止め苛立った声で返事を返した。

「・・・・・」ピーターは、その声を無視したようにパチパチとキーを叩いている。

最近化粧に金を使う余裕の出てきた春美の顔は益々圧化粧になり、団子に近い鼻の上に油が浮いていた。売り上げは伸びていた。大麻の中継ぎを始めてカネに余裕が出てくると、不思議と店も活気を帯び始め、利益はコップの縁からあふれる水のように貯まり始めた。ピーターがビールを盗み飲みしても春美は腹も立たない。店舗は四店に増え、大麻を運びやすいようにロス・アンゼルスに一軒を構えている。つぎはサンフランシスコで、もう少し資金が必要だった。

「ねェ、なあーに」甘えるような声を出しピーターのもとに春美が来た。ピーターはニヤニヤ笑いながら「スティーブから新商品のオーダーが入った」と言った。

「新商品?」

「なんだとおもう?」

「まさか、コカインじゃないでしょうね!私は嫌よ!」

「コカじゃネェよ。エクスタシーさ」

「エクスタシー?」

「ああ、MDMAとも言うけどな、たいしたドラッグじゃないが・・・一瓶で100ドル儲かる」

「ほんとう?」春美は未だ儲けたいようである。

「メキシコから買える」

「ほんとう!」春美の声が少し高くなった。

「ああ、100、100、100の商売だと、よ」

「なによ、それ?」

「つまり、メキシコから$100で買い$200で売り$100儲ける、又誰かが$100を乗せ、ジャパンのヨコスカでは$300だ。それを、奴らは$3、000にする」

「もっと儲けられないの?」

「一瓶で$100は率がよい方さ。右から左に動かすだけでいい。オーダーは100個だから・・・$1、000!」

春美が鼻の頭を手の甲でぬぐった。

「ところで、あの娘、どうなったのよね」

「あの娘・・・?」

「ほら、木村美雪・・・NDL・フーズの・・・」

「ああ、あの娘・・・」

三年ほど前、木村美雪は突然と消え、他のセールスマンが担当になった。新しいセールスマンは木村美雪は突然といなくなったと言った。

その時、ピーターと春美は恐怖を覚えた。美雪は月に数度ほど渡される箱を指定された場所に運んでいた。運んでいる箱の中に入っている物を木村美雪本人は知らなかったがピーターと春美は美雪を大麻の運び屋として使っていたからだ。

警察に捕まったのではないかと恐れたがロス・アンゼルスからサン・フランシスコに運ぶ運び屋は普通通りに仕事をしていた。

ピーターと春美は、もちろん新しいNDL・フーズの新しいセールスマンにも、月に数度ほど箱をロス・アンゼルスのある場所まで運ぶことでNDL・フーズから肉類を買うという交換条件を出し納得させた。その時までに「東京焼き鳥」は三店舗の焼き鳥レストランチェーンを出していたのでNDL・フーズのセールスマンは拒む事は無かった。



久し振りのアメリカ


推理作家の森山太郎は、警視庁の刑事指導室課長である叔母の奈緒子から電話を受けた。部下の住田警部、江川警部補と一緒にロスに行ってくれないかと言う事だった。

「あなた、長い間住んでいたでしょう?」と叔母は言った。

「ええ、まあ・・・5、6年でしたっけ」

「あなたのお母さんが私に、アメリカの大学で5、6年も太郎はなにしているのかしらって聞いたけど、アメリカの大學は日本と違って甘くないのよって説得してあげたのよ」

「はあ、ありがとうございました」森山は携帯を耳にしながら反射的にぺこりとお辞儀をしていた。

「悪いけど、今回は協力してもらうわよ」

「L・A・ですか・・・大した仕事もありませんから・・・ぼくはOKですが・・・でも、どうしてですか?」

「捜索依頼があったのよ。一人は木村美雪と言う女性、もう一人はNNB ミート・パッカーズの男性社員」

「えっ!」

森山の驚いた声に「どうしたの?」と、電話の奥で叔母の奈緒子が聞いた。

「いや、僕が追っているある事件と関連しているような・・・気がするのです」実際あったのだが繋がりがあるとは未だ思えなかった。

「あら、そう。あなた、ずいぶん情報もっていそうね。取り敢えずまとめて私にE-メイルしてちょうだい。わかったわね?」警視長(けいしちょう、Chief Superintendent)の一声に森山太郎は「はい」と答えていた。

そして、今回に関しては警察も動きが早く、その日の午後には叔母の秘書官から警視庁まで航空券など、渡航に必要な書類を取りに来ていただきたいと電話連絡を受けた。明日行きますと答え、森山は手元の桃に手を伸ばした。桃の匂いを嗅ぎながら口にした。桃の匂いと甘味が口の中から五感に広がる。ソファーに深く腰を落とし虚空を見上げた森山は、カリフォルニアのサンホセに住んでいると言う男がツィットした、彼の知った女性がプラストミック標本という特殊な技術で標本になっていることと、NNB ミート・パッカーズのUS現地法人の会社の男が行方不明になっている事を関係づけてみた。

ツィッターの男はフレイト・ホワーダー(流通業)で仕事を持っているらしい。今回運んだ貨物の一つが彼の知った女性で・・・しかし、体液をすべて樹脂に置き換える技術(プラスティネーション)といえどもアメリカでは未だ許可されていないはずだ・・・そして、今回の横浜展では「プラストミック」と防腐技術の呼称が変わっていた。今回の人体像のほとんどは中国の大連にある研究施設で製作されたと書いてあった。中国の大連からアメリカ、そしてサンフランシスコ、そして日本・・・LAに住んでいた女性が殺されて中国に運ばれたとしても「美しい立像の床運動の選手」のようには製作できないだろう・・・というのは、人体像のポーズを芸術的に作るには死後硬直の始まる前、つまり死後二時間以内に製作を開始する必要があるからだ。

では、アメリカで秘密裏に加工製作された可能性はどうか?

まさか・・・森山の思考は途絶えた。しかし、広いアメリカである。隠れて加工する場所はいくらでも有る。死体をプラスティネーション(Plastination)して人体標本とすれば、どこにでも隠せる。

桃を食べ終えた森山はコンピューターを引き寄せ、例の標本を話し合っている2チャンネルにツィットして見た。


・例の床体操の標本、横浜店で見た。確かに足の指が変形していた。本人か?


その日遅く、サンホセの男からツィットがあった。

・ほんものさ。まちがいない。

森山がツィットする前に、ツィットがあった。

・アレは、殺人だ。

・糞のような冗談は止めろ

・オレは、知っている。

・おいおい、しっかりせえよ。

・ほんとうだ

・おいおい、これはいいわけできないぞ・・・

・ばかやろう!

・うわわわわ、まじかよ!

複数の「名無しさん」が続いた後、サンホセの男らしいツィットがあった。

・オレの会社のフイリピン女性が殺された。

・なにか、関係が有るのか

・無い。無いがおかしい。

・お前がおかしんじゃあねェか?

・え~??

なんだそりゃ信じられない

ポカーンって感

・遺体で、フイリピン女性。日本でも有るぜ

・ヤク(麻薬)だな・・・この女性は輸入担当だった。行動もおかしかった。この女性タクシーで通ってた。

・輸出入者関係者があらかじめ約束して貨物のどこかに隠して薬を取引・・・なんかで、読んだぞ。

・これは大変な問題になるな

・朝、アパートのプールに浮いていた。これは、裏のやつらのやる見せしめ殺人だ。裏切り者はプールに沈める

・やべェな。アメリカは・・・フイリッピン・マフィャ。日本にも、おるぞ


森山はツィッターの中で、アレは殺人だと断定したやり取りが気になった。

・アレは、殺人だ。

・オレは、知っている。

・ほんとうだ

・ばかやろう!


短い言葉で四回だけツィットしている。MOMOとニックネームを使っていた。この人物は一体誰なのか・・・。


翌日森山は警察庁に行き、叔母の秘書官からアメリカ行きの航空券と必要書類を受け取った。その時に、住田警部、江川警部補とも会った。

「よっ、推理作家。売れてるか?」と言うのが住田警部のいつもの言葉だ。

「まあまですよ・・・」

「そうかそうか。アッハッハ」と住田警部は森山の肩をたたいて笑った。

「森山さん。よろしくお願いします」江川警部補が言った。相変わらず、几帳面な挨拶だった。

「こちらこそ。ロスには、長い間住んでましので・・・お役に立てれば」

「そうね。長かったわよね」と、叔母の奈緒子が机から声をかけた。

「いや、けっこう、けっこう。慣れているほど好都合」と住田警部は言い、森山の肩を再びたたいた。


それから二日後、住田警部、江川警部補、そして森山は成田国際空港から全日空機(ANA)でロス・アンゼルス空港に向かった。

月曜日の夕方に雨模様の成田を発って、月曜日の現地時間の午前中にロス・アンゼルスに着いた。流石にカリフォルニアだ、青い空が全体を覆っていた。空気があっさりと森山の身体の中に入って来る。直ぐに彼の総ての細胞はパスワードを打ち込まれたコンピューターのように、昔の記憶を彼の脳裏に浮かび上がらせた。ロスの空港にはLAPD(ロス市警)アジア系特別軌道捜査隊のジョン・村上警部が迎えに来ていた。日系人らしく片言の日本語が話せた。

国際刑事警察機構からの要請と、警視庁からの要請によりロス市警が協力する事になっていた。

住田警部も江川警部補も流石に国際刑事警察機構に関係のある刑事達だけに、ある程度英語が出来た。彼達のコミュニケーションを補いながら、森山は久し振りのロスの町並みの風景をポリス・カーから眺めた。

「ミユキ・・・」とジョン・村上警部がしゃべっている。聞き耳を立てると,木村美雪は大麻の運び屋をしていた・・・と聞こえて来た。『UNNP U.S –Meat Packers, Inc』と売春婦との関係、加瀬と美雪の関係など、すこしづつ村上警部は捜査の現状を彼達に話して聞かせた。

「明日、LAPDにご案内します・・・きょうはホテルで、いいですか?」と村上警部は言った。

「はい。都ホテルに、予約しています」と江川警部が言った。都ホテルはリトル・東京と称される日本人街にあったが最近、日本人はロス・カウンティーの南の方に位置するガーデナとかトーレンスと言った地域に移動している。リトル・東京地域の日本人の減少に伴い、韓国人達が住み始めた。

「わかりました」と村上警部は言い、車をリトル東京に向けた。

加瀬が売春組織に関係していたのは、日本から来るNNBミート・パッカーズの役員を接待し、その弱みに付け込み、自分が私的に流用している会社の資金を隠す目的があったらしい。加瀬は、この接待が功をなしてか経理担当の専務職になった。職務柄、使い込みを隠すには好都合で、彼の私的な会社資金の着用は増え続け、木村美雪にもマンションを買って与えていた。

ロス市警の麻薬取締課、風紀取締課は加瀬の動きを追っていたが忽然と木村美雪が消えた後、加瀬の姿も消えてしまった。



翌日、彼達は三人は村上警部の車でLAPDに行き、加瀬と木村美雪の情報を得た。そして、射撃場に行き住田警部、江川警部補はピストルの射撃講習を受けて、ピストルの携帯許可をもらった。

これは日系人の村上警部の薦めである。

「麻薬がらみかもしれませんので捜査の上で物騒な事になる可能性もあります。ピストルを携帯したほうが良いです」と言う彼の意見を聞いて、もともと拳銃が撃ちたくて警視庁に入ったと言う江川警部補が小躍りした。彼は射撃でオリンピックに出た経験もある射撃の名手である。LAPDの銃保管庫から「Smith-Wesson Model SW 1911」を取り上げ、試し撃ちをしたが20発中20発がターゲットのセンター内に命中した。一方住田警部はピストルには無頓着で、どれでも良いと軽くて小さな「Model M&P340」を選んだ。

午後、LAPDを出ると、彼達はアメリカのドライヴァーズ・ライセンスを保持していた森山の運転で、木村美雪の住んでいたと言うコンドのあるレドンドビーチに向かった。フリー・ウエイ(110)を南に走ると、最大の日系人コミュニテイと言われるサウスベイでガーデナ、トーランス、パロスバーデス、ロミータ、レドンドビーチ、ハモサビーチ、マンハッタンビーチなどと、日系人や日本人が多く住んでいる地域になる。フリーウエイは相変わらず混んでいたが森山は久し振りのロス・アンゼルスに気を良くしていた。昨日買ったイーグルスの「ホテルカリフォルニア」(Hotel California)のCDをセットした。懐かしい名曲が流れてきた。

「おお、懐かしいですね」江川警部補が後部座席より身を乗り出すようにして言った。

「やはり、この曲ですよね」と、森山は言いながら四車線あるフリーウエイの左に車を移動しながら、スピードを上げた。ロス・アンゼルスのダウンタウンから20分ほどでガーデナに着く。数日を日系ホテルのニュー・ガーデナ・ホテルに宿泊する事になっている。

レドンドビーチに近いので、ここから捜査を行う計画を立てていた。

「例の、加瀬ですが・・・彼は殺されたのですか?」森山の言葉に、住田警部は「まだ分からない。NNBハム、おっと、こちらではNDL・フーズか・・・そこにも、顔を出してみるか」と言い、頭をかいた。そして「眠いな・・・」と付け加えた。

「そうですね・・・時差ぼけですよ」

「今、日本は夜だもんな」

「でも、いいですねえ・・・カリフォルニアは!」後部座席の江川警部補が大きく手を開けた。バックミラーで彼の身体につけた皮のホルダーが見え、ピストルの握りが光った。あのような物騒な物を使われる現場は避けたいなと、森川は内心で苦笑した。イーグルスは哀愁のある歌い方で”ようこそホテル・カリフォルニアへ“”なんてここちよいところ”“なんて愛らしい顔”と繰り返していた。

「この曲、やばいですよね」と森山が言うと、江川が再び身を乗り出して聞いた。

「どうしてです?」

「最初のWarm smell of “colitas”コリタスはマリファナのことですよ」

「えっ!」と声を上げたのは住田警部だった。

「本当かよ、太郎ちゃん」

「ええ、本当ですよ。他にもコリタスは"Little Buds"とか言って、女性の性器の部分を意味することだってありますからね」

「マリファナのルートも調べなくっちゃな」住田警部が言った。

「・・・・」

「警部、LAPDはマリファナの運び屋と木村美雪を結び付けているようですが・・・」

「利用された可能性もある・・・とにかく、捜査依頼が出ているのでその筋も洗ってみよう」

イーグルズは”but you can never leave・・・”と最後の節を歌い終わった。

彼達はニュー・ガーデナ・ホテルにチェックインした後、木村美雪の住んでいたコンドを見せてもらうためLAPDの村上警部とアポイントを取った。国際刑事機構の警察官と言えども、地域の警察に許可無く捜査は行えない。LAPDに協力を依頼していた。

外国の主権の下で、日本の警察官が捜査権を行使するということは通常ない。しかし、国際刑事警察機構(ICPO)を通して、犯罪に関した資料を得るため警察官を外国に派遣し、外国の警察の協力の下で簡単な捜査は出来るのである。住田警部も江川警部補も警察庁の国際犯罪の実働的捜査活動を行う部門に属していた。


翌朝、森山は住田警部、江川警部補とマクドナルドでパンケーキを食べた。十時にはLAPDの村上警部と木村美雪のコンドの前で待ち合わせになっている。

「マックの味って、どこも同じですね」江川警部補が言った。

「この程度の量では、物足らないでしょう。しかし、直ぐにランチですから我慢して下さい」

「十分だよ。太郎ちゃん。江川くんは少し痩せたほうがいいよ」スクランブル・エッグをプラスティクのフォークですくい、口に運んでいた住田警部が言った。

「ウエブで調べたのですがこの近くのピアには、美味しい蟹があるというじゃないですか」

未だ若く食欲旺盛な江川警部補には、仕事のほかにも食べると言う大切な事がありそうだった。

「ええ、私も昔、レドンド・ビーチのピアでよく蟹を食べました。被害者の木村美雪だって行っていたはずですから、見ておく必要がありますね。それに、個人の小型船舶も置いてあるし・・・これだって、関係が出てくるかもしれない」

「推理作家の言う事も、一理ある」住田警部が念を押した。「ヤク(麻薬)」等は海から運ばれるケースが多いと彼は付け加えた。

森山はその言葉に、IBPの箱に入っていた人肉が流れ着いた横浜の海岸を思い出した。未だ、このことは両警部には話していないが、彼達は何か情報を持っているかも知れない。

「あの・・・横浜の海岸で見つかったIBPと書いてある箱に入っていた肉、あれは人間の肉片でしょう?」

住田警部が鋭い目を森山に向けた。

「あれか・・・」

「解決ですか?」

「いや、まだだね。DNA鑑定では『人間の肉』との判定だ」

「アレは、確か横浜バラバラ死体事件と警視庁が関連つけて調べてましたね」と、江川警部補が口を添えた。

「あの事件も確か我々の方に捜査依頼が来てたな?」

「はい。他の班が捜査してます」

「では、間違いなくIBPの箱に入っていたのは人肉ですか」

「法科学鑑定班の言う事は九十九%当たってる」

「特に課長(織田奈緒子警視長、森山の叔母)が、知人の李博士に捜査を依頼したので、早期に解決されるかもしれません。李博士は、リー・スタイルと呼ばれる血痕鑑定法、近代指紋鑑定法、DNA型鑑定法などで有名らしいですよ。今回、NDL・フーズも調べろと命令されてますから、あの辺り、出るかも知れません」江川警部補が言った。職業柄、彼達の推測には鋭いものがある。

朝食が終わると、彼達は木村美雪のコンドに車で向かった。



木村美雪の住んでいたコンドの前には、LAPDの車が止まっていた。彼達が車を止めると、中から日系人のジョン・村上警部が出てきて手を上げた。

「おはようございます」と彼は日本語で言った。

「おはようございます。忙しいところすみません」住田警部が言った。

「だいじょうぶ」村上警部はごつい身体を、コンドの方に向けた。大学時代はアメフトの選手だったらしい。

コンドは、白壁に青く塗られたベランダの囲いと、コンパクトな作りである。建物の前はグリーンで木々が立ち並んでいる。村上警部から渡された資料に、室内の見取り図があった。3ベッド、2バス、1、292スクエア・フートと書いてある。村上警部は建物の二回に行き、突き当りのドアを持ってきたキーで開けた。

「どうぞ・・・」と彼は言い、三人を室内に導いた。室内の空気はよどんでいた。室内は木村美雪が失踪していた時のままだと言う。

室内のテーブルの上に飾られていたバラの花が花瓶から首を垂れて枯れ、茶色に変色している。その近くには日本語の雑誌や「Front Line」と書かれた無料週刊誌が置かれていて、日付はMarch 20, 2007であった。「日系食品企業インタビュー」と前面に記事の宣伝がある。すると、木村美雪は2007年3月頃まではここで平常通りの生活をしていたのかも知れない。床は総てラミネート床である。冷蔵庫の中も、食料品がそのまま置かれていた。焼肉でもするつもりだったのか、透明なビニールに入っている“骨付きのショート・リブやT-ボーン・ステーキ“があった。肉汁がどす黒く変色している。冷蔵庫のドアにはマグネット・クリップと呼ばれる磁石で出来た桃の図柄がくっ付けられていた。桃の図柄のマグネット・クリップは冷蔵庫だけでなく、あちこちに見られた。「MOMO」とアルファベットだけのマグネット・クリップもある。

「桃が好きだったのかな・・・」森山は自分が桃好きだから桃の図柄のマグネット・クリップに興味を引かれた。数えてみると10個ほどが部屋の中に見られた。

「日本に比べると豪華なもんだ。それに、彼女は独りで住んでいたのに3ベッド・ルームか・・・」室内を見渡しながら住田警部が口にした。

「だれか、恋人でもいたのですか?」森山が彼の疑問をLAPDの青木警部に聞いた。

「恋人ですか? もちろん、いたようですね。我々の調査では、複数の日本人男性が、此処に来ていたようです。時々ですけど」

「なるほど・・・」森山は、横浜の「人体の不思議展」で見た男をちらりと思い出していた。


*時々来ていた男は日本人、複数。

*年齢は40歳前後から。

*良く来ていた男は痩せ型で眼鏡を掛けていた。

*シルヴァー色のスポーツタイプのベンツに乗っていた。

*少し猫背、ビジネスマンタイプ。

*ヨット

*サン・ディエゴ


以上のようなことをLAPDから情報としてもらった。しかし、最後の「サン・ディゴ」と言う場所がどうして木村美雪と関係が有るのか分からなかった。村上警部に聞くと、彼女はNDL・フーズでは営業でサン・ディゴを担当していたらしい。LAPDは、木村美雪を行方不明者として捜査していた。

「NNBハムの現地子会社でNDL・フーズか・・・くさいな」と、住田警部は日本本社名『NNB meat packers』を口にした。

「NNBハムは最近食肉偽装疑惑でたたかれていますよね」

「その偽装の隠蔽を指導したと言われているA専務と言うのが『UNNP U.S –Meat Packers, In』つまりNDL・フーズの現地社長ということ・・・か」

LAPDは木村美雪の部屋に残されていたコンドームや体毛などをDNA鑑定して、複数の男のDNAの型を見つけていた。しかし、不思議な事に木村美雪の部屋からは若い女性のほとんどが持っている生理用具が見つかっていない。丁度、使い切っていたのか、それとも生理的に生理をなくしていたのかは、分からなかった。

「時々レドンド・ビーチのヨットハーバーで美雪と日本人男性が目撃されています」LAPDの村上警部は言った。

「ヨット・・・か・・・?」

「ベンツに乗りヨットを持つ・・・かなり金持ちだ、な」

「だから、こんな事件が起こったわけですよ」と江川警部補がつぶやくように言った。木村美雪のコンドの窓を通して、遠くに青い海と水平線上に列をなしている積雲が見えている。

「島も見えるな・・・」

「カタリーナ島ですね」

「あの辺りに木村美雪のてがかりはないのですか?」

「少し、調べました。行方不明者の捜査依頼です。殺人でしたら、大変かもしれない」と村上警部が言った。森山はサンホセに住んでいる元[UNNP U.S –Meat Packers, In]の社員がツイットした「人体の不思議展」の一つのプラスティネーション加工像が木村美雪とは話していなかった。確証出来なかったからだ。あの像を本当の木村美雪として考えると、像はこの部屋で生活していたわけである。像をイメージし、部屋の中に置いて見た。

しかし、この部屋で殺されて死後硬直が始まる前にプラスティネーションするには約二時間しか余裕が無い。色々なポーズをとらせるには、出来るだけ早いほうが良いわけであるから、加工する工場までの距離は限られている。

「なるほど・・・あの島にも行って見たいな」住田警部の言葉に、江川警部補が村上警部に、島には行けるのですかと聞いた。「フェリーがロング・ビーチからでてます」と彼は答えた。

「飛行機で行きましよう」と森山は答えた。

「飛行機?」

「はい。近くにコンプトン・エアポートがあります。私は昔、良く軽飛行機でカタリーナ島に飛んでました」

森山が軽飛行機の操縦免許を持っている事を知っている住田警部が「よし、明日はカタリーナだ」と、森山を振り返って言った。

十一時半、LAPDの村上警部と別れて、三人は江川警部補の期待していたレドンド・ビーチで昼食を取る事になった。



森山には十数年ぶりのビーチだ。車を駐車場に止めピア(桟橋)の方に歩いてゆくと、思い出が蘇ってくる。平日なのに、ピアには人影が多く見えた。釣りの人やサイクリング、観光客風・・・銃を身に着けた二人の警察官は、ピアに降りてゆく階段の手摺から海を見ていている。

森山は二人を案内してピアに降りて行った。レストランで食事するより、あそこで蟹を食べる方がおいしいですよと、ピアに面した魚屋の方を指差して二人に見せた。建物の前面の壁には大きい看板に赤い蟹のマークがあり『Quality ”Live”Seafood Inc』 とある。店先に生きた蟹やロブスター、貝などが水槽に飼われていて、それを買うとスティーム器で料理してくれる。

日本の警察庁刑事局、国際刑事課などという硬い組織に属しているとはいえ、腹は減る。とにかく食べようということになった。そして、食事の後、、ヨット・ハーバーの方に足を向けた。ピアの近くに各国への距離が示してある細い板の看板が一本の棒に打ちつけられていて「TOKYO 5481」とある。これはマイルなので約1・6を掛けてキロメーターに直すと8769.6キロメーター離れたところに東京があるということになる。この距離上に事件はあるのだと森山には思われた。

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