7-3 Forget and remember【忘れて覚える】

 翔の発言の意味が分からず、僕はしばらく言葉を失う。


「はあ?」


 僕は、単語を覚える話をしていたはずなのに、翔からはそれとは全く逆の忘れるという話が出てくるとはどういうことだ?


「まあ、話は最後まで聞けよ」


「例えば、お前、『忖度』って言葉を知っているか?」


「一応、知っているよ」


「でも、その『忖度』って言葉は最近覚えたものじゃないか?」


「そうだね、たしか流行語大賞にもなっていたよな? でも、最近まで知らなかったよ」


「じゃあ、その『忖度』って言葉をどうやって覚えたんだ?」


「それは……」


 改めてどうやって覚えたのかと聞かれると、なにか具体的なプロセスを思いつくことはできない。


「俺もそうだけど、別に覚えようとしていないんだよね。ただ、メディアとかでやかましく同じ単語がしつこく出てくるからそのうちに覚えてましたっていうだけだよ。ほとんどの人は辞書なんか引いてないし、ノートに『忖度』って書きまくった人間なんていないだろうさ」


「そんな奴いるはずもないな」


 僕も翔と同じように、何度も見聞きすることで、なんとなく『忖度』という言葉を覚えていた。より積極的だった人がいるにしてもせいぜい辞書を引いたくらいだろう。


「つまるところ、ほとんどの日本人は、『忖度』という言葉を忘れまくることで、結果的に覚えていたのさ」


「忘れまくるね……」


 意図的に忘れようとしたわけではないが、なんども『忖度』という言葉に触れてその都度忘れることで、いつの間にか覚えていた……。


「それに、忘れるっていうのには一つ大事なプロセスがあるんだよね」


「なんだよ 」


「忘れるっていうことは、一瞬だけでも覚えていないとできないということだよ。例えば、知りもしないポルトガル語を忘れることは俺にはできない」


「それは無理だな」


 僕だって知りもしないフランス語を忘れることはできない。もちろん、ポルトガル語も忘れることはできない。


「一瞬、一度だけでも覚えたことがあるからそれを忘れることもできるんだ。だから、結果的に忘れようとすることで、覚えるということも無意識的にやってはいるんだよ」


「そして、それを繰り返していれば『忖度』みたいにいつのまにか覚えられるっていうこと?」


「そういうことだ」


「うーん、理屈はわからなくもないけど、なんだか腑に落ちないなあ」


 今まで、単語を覚えるというのはめちゃくちゃな労力がいるものだと考えていたから、翔の考え方があまりすんなりとは受け入れられない。


「大体、半年で英語を話そうと思ったらこんなペースじゃ話にならん。最終的には数千、数万の単語を覚えないといけないんだから、今のペースじゃ話にならないだろ?」


「それは、僕も思っていたことだよ」


 翔の言う通り、単語を覚えるペースは半年後に英語をできるように設定したペースに対して、あまりに遅くどうすればいいのかと途方に暮れているところではあった。


 その気になれば、一日に五十個とか百個とかの英単語を覚えることも不可能ではなかったが、その日をそのことだけに集中しなければならなかった。しかも、翔の理屈では、この行いにほとんど意味はなく、数日後には忘れ去られてしまうことになるのだ。


「だから、爆発的に単語量を増やさないといけない。一見そんなことは不可能に思えるが、これは日本語についても赤ちゃんのときからごく自然にやってきたことなんだよ」


「赤ちゃんの時から?」


「『ママ』って言葉を一度に一分も考える奴はいない。そんな奴がいたとしたら、『ママ』大好きの特殊性癖のやつだけだ。ほとんどの奴が、一秒かそれに満たない時間、『ママ』という言葉を考えて、それを何万回も繰り返した」


 その時の記憶があるはずもないが、確かにその何万ものプロセスは、ほとんどの人間が経験することだろう。その時は、忘れようともせず、覚えようともせず、何万回も聞いて、しゃべろうとして、そのうちにぎこちない『ママ』という言葉が出てきたのだろう。


「全ての言語は『ママ』に通ず」


 僕は感慨深げに呟く。


「面白い言い方するな。でも、そういうこと。それに今の俺達なら、『ママ』みたいに万単位で繰り返さないでも数十回もやればほとんどの単語を覚えられるはずさ」


 『ママ』を覚えるには何万と繰り返さないといけなかったが、『忖度』は数十回で済んだのだから他の単語も同様ということなのだろう。


「でもさ、ジェシーだって日本語の漢字を覚えようと、必死にノートに書きまくっているよ。、僕達も似たようなやり方でやったほうがいいんじゃないの?」


「ジェシーの漢字はともかく、俺達の英単語にはそれもたぶん非効率だと思う」


「なんで?」


「譲二はアルファベット全部書けるだろう?」


「バカにしてるのか?」


 いくら僕が英語を得意じゃないとはいえ、アルファベットくらい全部書ける。中学一年生のころからそれくらいは完璧であった。


「いや、一応確認だよ。それなら、英単語を構成する全ての文字を俺達は書くことができるんだよ。あくまで、書くのは文字の練習になるからであって、だから、ジェシーの漢字の場合はその文字が書けないから練習している」


「じゃあ、僕達の場合は、書き取りをしないでもいいってこと?」


「英語は音さえとれれば、ある程度スペルはわかるし、書き取りは不要だと思う。単語をノートに書くのも、その本質は単語テストと似ている。その書類があれば書いたよ、練習しましたよって証明できるから存在する」


「単語テストもそうだけど、こっちも随分過激だね……」


 過激ではあるが、両方ある程度納得できることでもある。


「譲二は、『薔薇』って漢字で書ける?」

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