消滅ディスコーダンス

松明

死に見放された四人

 夏の太陽は僕を監視している。

 小さいころは何か悪いことをすると「お天道様が見てるよ」と諭されていたけれど、太陽が彼方に浮かぶ燃える天体でしかないと知っている今も、僕は粘っこい視線を感じていた。こいつは悪いことをするに違いない、絶対にその瞬間を捉えてやる――そんな粘着質な視線を。

 別に悪いことはしていないし、するつもりもない。

 それでも肌を焦がす日差しから逃れて、渡り廊下の屋根が作る影に入った。列をなしてぞろぞろと進む生徒たちの声は弾み、あちこちで笑い声が上がっている。人間に対抗意識を燃やすように蝉が騒々しく鳴いていた。


 七月十八日。明日から県立御八塚みやつか高校は夏休みに入る。

 終業式を終えて、体育館から教室に戻っている最中だった。ホームルームが終わればもう夏休みだ。何もない夏。カーテンを引いた部屋で夜を待つだけの日々――

 突然、背中に衝撃を受けてつんのめった。ああ、誰かが突っ込んできたんだな、とぼんやり考えながら倒れていく僕の首根っこを、誰かの手がつかんで引き戻した。

「受け身くらいとれよ、はじめ

 二年四組の鍵本修也は白い歯を見せて笑い、僕の背中をぱんと叩く。その勢いでまた倒れそうになった。

 ライトブラウンの長髪。学生ズボンのベルトを緩めて腰でだらしなく履き、ワイシャツを第三ボタンまで外して胸元を見せているけれど、修也は別に反抗的というわけではない。自らの美意識を追求した結果、そういう格好にたどり着いたらしい。自由な校風なので教師に咎められることはないが、彫りの深い顔とあいまってホストのようだ。

「あのままだと鼻が折れてたし、前歯も数本持ってかれてた。額も切れて血が出たかもしれないぞ。男前が台無しだ。それでもいいのか?」

「構わないよ。わかってるくせに」

 修也の顔を見上げる。案外真剣な表情をしていた。

「気をつけろよ。社会ってやつはマイノリティに厳しいんだ。隙を見せたらハゲタカに食われるぜ」

 修也は言葉の意味を知った上で話しているのだろうか。

 ハゲタカが死肉食だということを。

「俺が思うに、差別の始まりには、特に想像力の足りない誰かさんがいるんだ」

「誰のこと?」

「そうだな、あんまり大きい声じゃ言えないが、万由里なんかその筆頭だ」

 と、平気な顔で自分の彼女を槍玉に挙げる。

「想像できないものを人は怖がる。怖がる誰かさんをみんなは守らなきゃならない。そうやって雪だるま式に膨らんだ一団を、マジョリティって呼ぶんだろう」

「じゃあ修也、マジョリティの一員として、マイノリティに何かコメントはないの?」

 おどけたつもりで放ったひとことだったが、返事があるまで少し間があった。

「頑張って生きろよ。俺は、いつだっておまえたちの味方だぞ」

「いっそ修也も仲間だったらよかったのに」

「俺もそう思う。言っとくけど本気だぞ、本気」

 修也はいつものように力説するが、それが冗談なのは明らかだった。「僕たち」の状況が羨ましいわけがない。事情を何もかも知っている修也なら、僕たちが諦めなくてはならなかったこと、背負わなくてはならなかったものの重みをよく理解しているはずだ。

「気持ちだけは受け取っておくよ。だいたい、君が仲間入りしたところで、僕たちの苦しみが楽になるわけじゃないし」

 にやりと口角を上げ、修也は僕の耳元で囁いた。

「その苦しみも、あとちょっとの辛抱だ」

「どういうこと?」

「ホームルーム終わったら部室に来いよ」

 修也は僕の肩を軽く叩くと、やや大股に列をすり抜けて前方に去っていった。

 僕たちが解放されることなんてあるのだろうか。半信半疑ではあったけれど、ほのかな期待に心が浮き立った。

 この夏は、いつもの夏とは違う――そんな予感を覚える。


 二年一組の教室に戻ったあとは、担任からいくつか連絡があってすぐに解散となった。夏休みがスタートしたとはいえ、待ちきれずに校門を飛び出す者は少数派だ。クラスメイトの多くは弁当を広げ、あるいは売店に向かい、午後の部活に備えて腹ごしらえをしている。

 僕は部活には入っていないけれど、放課後によく足を向けるところがある。修也の在籍している古代史研究部の部室だ。今のところ部員は修也しかいないが、そこに入り浸っている生徒が僕を含めて四人いる。放課後、ぱらぱらと部室を訪れた「僕たち」は、特に活動をすることもなく静かな時間を過ごす。入学してから変わらない習慣だった。

 修也が自分から僕たちを誘うことはめったにない。さっき意味ありげなことを口にしたのは方便で、そろそろ入部しろという催促かもしれない。部員一名で部室棟の一室を占領しているのだから、廃部を打診されている可能性がある。それなら喜んで入部するけれど、無視しがたい特殊性を持った「僕たち」が部員に名を連ねていたら、誰かに怪しまれはしないだろうか。

 そんなことを考えながら、教室後部にある自分のロッカーの中身を検めていた。夏休みが始まる前に必要なものは持ち帰らなくてはならない。

 英和辞書はともかく和英辞書はいらないか。重いからこっちの参考書は置いて帰ろう。ロッカーの奥に失くしたと思っていた解答集が――

 結局、ずっしりと重量を増した鞄を抱えて教室を出ようとしたところで、背後から声をかけられた。

「浅永」

 振り返ると、ボブカットの背の高い少女――世渡万由里が、さっと筆で引いたような細い眉を苛立たしげに歪めていた。いつものグループで昼食を囲んでいたところらしく、他の面々もちらちらと興味深げにこちらを見ている。

「まさか、このまま帰るつもりじゃないでしょ?」

 高圧的な口調。距離が近いので小声だが、有無を言わせない迫力があった。

「今日は用事があるから、すぐには帰らないつもりだけど」

「何言ってるの? あんたの予定なんて誰も聞いてない」

 ここで立ち止まれ、と言っているのだ。

「訊きたいのは修也のことなんだけど、あの人、最近何してる?」

「僕より世渡さんのほうが詳しいと思う。曲がりなりにも彼女なんだし」

「曲がりなりにもって何。馬鹿にしてんの?」

 一年の夏から正式に付き合い出した二人だったが、ここ最近、修也はほとんど万由里を相手にしていないらしい。臭いから煙草をやめろだの、シャツの趣味が悪いだの、口うるさくて嫌になってるんだよな、とぼやいているのを聞いた覚えがある。もともと自由人的な気質のある修也のことだから、神経質な万由里とはそりが合わないのだろう。

「修也、最近何かにかかりっきりになってるの。デートの約束しても忙しいからって断られて、何に忙しいのって聞いたら、『友達を助けたい』って」

 ――その苦しみも、あとちょっとの辛抱だ。

「この『友達』って、あんたたちのことよね」

「僕たち?」

「ちっちゃくて愉快なお友達。浅永、あんたも含めて」

 吐き捨てるような台詞に、友人たちも身体を引き気味にしているのがわかる。こんな相手にきつい言葉使うことないのに――そんな視線が交わされた。

 濡れたような赤い唇が、歪んで踊る。

「助ける? それって、他のことを全部放り出してまで優先すべきこと? 修也があんたたちに何の義理があるっていうの。だいたい、あんたたちを救う手立てがあるなんて思えないけど。まさか――」

 万由里は椅子で足を組んだまま、ぐいと僕に顔を近づけた。

 座っている彼女と立っている僕の視線は、同じ高さで一致している。

「――吸血鬼に襲われた、なんて話、本当だって言い張るつもりはないんでしょ?」

 万由里の瞳に僕が映っている。

 小学五年生のあの日から一秒たりとも成長していない顔と身体が。

「その噂、どこで聞いたの?」

「さあ、忘れちゃった。で、どうなの、否定しないわけ」

「わざわざ否定するのも馬鹿らしい。ただ、成長が遅いだけだよ」

「それくらい知ってる。とっくの昔にファンタジーからは卒業したの」

 だったら訊く必要ないじゃないかと苦言を呈したくなるが、万由里はいつもこうだった。弱いものをいたぶり理不尽に踊らせることで、自分が踊らされる側でないことを確かめている。

「あんたたちが単なるチビなら修也は必死に何をやってるの? 背が伸びる薬でも発明するつもり? もしかして浅永、あの人に変なこと吹き込んだんじゃないの? 助かる道があるとか言って使命感を煽ってさ。そうじゃなかったら、ある日いきなり『助けたい』なんて言い出さないはず。そうでしょ?」

 とんだ被害妄想だ。

「まあ、あの人のそういうとこ、嫌いじゃないけど」

 のろけられても困る。

 万由里に攻撃される材料が増えたことに軽い眩暈を覚えていた。攻撃されるのはたいして苦じゃない。一番恐れているのは、クラスでそこそこの人望を誇る万由里の「敵」として悪目立ちすることだ。高校の教室に小学生がいたら目立つに決まっているので、クラスで珍獣扱いされるのは仕方がないとしても、他校に知れわたるほどの天然記念物にはなりたくない。今でさえ厄介な問題が山積みなのだから。

「僕は、修也には何も言ってない」

「あんたじゃないわけね。だったら誰? ちっちゃなお友達の誰かなんでしょ。ほらさっさと教えて」

 万由里のブラウスから耳元へと続く首筋のラインを見つめる。突然あそこに噛みついたら、彼女はどんなふうに顔を歪めるのだろう。犬歯が白い皮膚を食い破ったとき、どのくらいの血液が溢れて制服を汚すのだろう。

 もちろん、本当に自分がそんな行為に走るはずがないとわかっていた。僕たちは吸血鬼じゃない。

「知らないものは知らないよ」

「じゃあ修也から聞き出して。あの人、あんたたちに関してはほんと口が堅いから」

「部室に行けば会えるじゃないか」

「あんな臭いとこ、近寄りたくもない」

 万由里は鼻をつまんで手のひらを左右に振った。僕はほとんど感じないが、彼女にとっては耐えがたい匂いらしい。

「じゃあ、電話すれば?」

「あたし今、携帯没収されてるの。終業式のときに見つかっちゃって。修也からブロックされたのに腹が立って、嫌がらせにフリーメールで怪文書送りまくってたら」

「修也の携帯も没収されてると思う。たぶん、君のメール爆撃のせいで」

「あ、そう」

 部室以外で修也が僕たちに話しかけてくることはほとんどない。派手で人目を引く修也が僕たちに近づくことで、僕たちまで注目を浴びるのを危惧しているのだろう。先程、あんな公然の場で話しかけてきたのは、僕との連絡手段がなかったからだ。

「じゃあ、あの人を説得してここに呼んでくれない?」

「素直に応じるとは思えないけど」

「あんたが応じさせるの」と僕の胸のあたりに人差し指を向けた。「わかってるよね」

 万由里の友人たちは会話を中断し、明らかに聞き耳を立てていた。そうしたいと望めば、万由里はいつでも「実弾」を発射できる。指一本動かす必要はない。ただ一言を口にするだけで、あとは取り巻きが傷穴を広げてくれる。

「わかった。でも――」

 朔くん、と背後から名前を呼ぶ微かな声がした。

 わずかに開いた教室の戸から、一人の女子生徒――五十川仄香ほのかが半身を覗かせていた。胸のあたりまで机に身体が隠れている彼女は、一直線に切りそろえられた前髪の下からまっすぐな視線を送ってくる。僕が遅いので呼びに来たようだ。

 僕は再び万由里に向き直った。

「世渡さんがその手を使うのは勝手だけど、もし本当に一線を越えるつもりなら、僕はその前に彼を呼ぶ」

「彼?」

「祝だよ」

 万由里の顔からさっと色が消えた。

 じゃあ、そういうことで、とさっさと背を向けて立ち去った。


 教室の外で待っていた仄香は、僕が出てくるなり囁くような声で訊いた。

「世渡さんに何を言ったの?」

「人遣いが荒いから、少しお灸を据えてやったんだよ」

倫明のりあきくんのことは大丈夫?」

「彼女が倫明を脅威だと思っているかぎり、迂闊に他人にはばらせないよ」

 核兵器のスイッチを持っていても、必ず打ち返されると知っていたら押せない。祝倫明は、僕たちと万由里との相互確証破壊を成立させるキーウェポンなのだ。

 男子生徒が一人、廊下を通りすぎていく。仄香は視線を気にするようにブラウスの胸元をずり上げた。僕と同様、制服のサイズは絶望的に合っていない。

「朔くんも呼ばれたんだよね。修也くんに」

「うん。二人とも呼ばれてるってことは、倫明と貴司も来るのかな。何の用事か知ってる?」

 仄香は小さく首を振った。長い髪がさらさらと揺れる。病的なほど青白い肌と小さな朱色の唇が日本人形のような印象を与える――それも放っておいたら際限なく髪が伸びそうなタイプの。

 腕時計を見る。色々な些事のせいで十五分以上も遅れを取ってしまった。待たせるのはあまり気分が良くないな、と考えたところでふと疑問が湧いた。

「ずいぶん遅かったけど、二組はいつ解散になったの?」

 仄香のクラスは二組で、僕の一組の隣に位置している。僕を誘いに来たのならもっと早く着いていてもいいはずだ。

「ホームルームが終わったのはずっと前。部室に行ったら鍵がかかってて、ノックをしても返事がないから、修也くんはまだ来てないと思って戻ってきたの」

「ってことは、四組にもいなかったんだ」

 トイレに行っているか、他の教室に遊びに行っているかのどちらかだと見当がつく。修也は趣味こそ変わっているが、多方面から好かれるキャラクターなので交友関係は広い。

「向こうで待ってれば来るよ、たぶん」

 一階まで下りて渡り廊下を進み、理科棟の裏にひっそりと佇む部室棟に向かった。焼けるような昼下がり、表を歩く人は少ない。渡り廊下の終わり際、なんとなく建物の上部を見上げた。

 理科棟の窓のない側壁が目隠しになっているので、ぎりぎりまで建物に接近しないと渡り廊下から古代史研究部の窓は見えない。修也はそれを悪用して、たまに窓辺で堂々と煙草をふかしていることがある。窓には落下防止の鉄格子が設けられているので、隙間から立ち昇っていく煙だけがうっすらと見えるのだった。

 鉄格子のせいで見づらいが、窓は閉まっていた。

 校舎のエアコンは事務室で一括管理されていて、節電のため、必要のない時間帯にはクーラーの電源がつけられないようになっていた。昼休みは教室のエアコンを解禁する代わりに、部室棟では一切使えない。クーラーが使えないのに窓が開いていないということは、やはり誰もいないらしい。


 部室棟の中はむっとする熱気が淀んでいた。階段を四階まで上がり、廊下に出ると、暗い廊下の突き当たりにうずくまる小さな人影があった。ちょうど古代史研究部の部室に背中をつけている。

 僕たちが近づくと顔を上げ、イヤホンを耳から引き抜いた。目元が隠れるほど鬱蒼とした巻き毛。顔立ちは中性的で、頬が丸く膨らんだベビーフェイス。僕や仄香と同じく、外見の年齢が高校生とはほど遠かった。

「鍵、持ってきたか?」

 祝倫明は、ドアに体重をかけたままゆっくりと立ち上がった。僕より背の低い仄香と比べても、倫明は身体が小さい。僕たちと同級生なのだが早生まれなので、その発育の差が六年前に固定されてしまったのだ。

「職員室に寄ってきたけど、無かった。鍵は修也くんが持ってるはずだよ」

 仄香の返答に、倫明は眉を寄せる。

「だとしたら遅すぎる。なんかあったのかもな」

「倫明くんはずっとここにいたの?」

「俺が来たのは十分くらい前。ノックしても開かないからここで待ってたんだ。さっき貴司が修也探しに行ったんだけど」

 ここから教室まで普通に歩けば一、二分だから、職員室から部室もそのくらいで着くだろう。どこかで道草を食っていないかぎり不可解な遅れ方だ。

 そこで、階段のほうから廊下を走ってくる人影があった。

 修也とは対極にいるようなストイックな黒の短髪。やや面長な顔には猛禽類を思わせる鋭い眼がついている。

 近堂貴司たかしは僕よりやや背が高いが、それでも高校生の平均身長をはるかに下回る。僕たちの前まで来ると、膝に手をついてぜえぜえ苦しげに息をした。

「どこに行ったのかさっぱりわからない。修也、戻ってきたか?」

「それやめろって。うっとうしい」

 あ、と貴司は素早く身を起こすと、荒々しい呼吸をやめて普通の喋り方に戻った。

「体育の授業とか体育祭とかで、激しい運動をしたあとはこうやって心臓が昂ってるふりをすることにしてるんだ。何もしないよりは自然に見える」

「涙ぐましい努力だな」

 何となく口にした僕の感想を聞きとがめて、貴司はこちらに指を向けた。

「他人事みたいなこと言ってるが、おまえも気をつけるべきなんだぞ。どうせ転んだり身体をぶつけたりしても平然としてるんだろ。そりゃ俺たちは痛覚もないし怪我だってしない。だが、おまえが疑われたら、俺たちだって芋蔓式に火の粉を浴びることになる」

 本日二度目の、耳に痛い忠告だった。

 確かに、僕は転んで怪我を負いそうになるような状況にあっても、地面に手をついたり受け身を取ったりと本能的な反射行動をとらない。その必要がないからだ。

 要らない器官を切り捨てることで、生物は生存競争を勝ち抜いてきた。必要のない器官を維持し続けるのにも栄養というコストがかかる。深海魚に視力の高い眼はいらないし、陸から海に戻ったクジラに足を与えてもきっと喜ばれないだろう。

 走りすぎて心臓が早鐘を打つことも、転んで痛みを感じることも、膝をすりむいて傷を作ることも、そして死ぬことすらも許されなくなった僕たちが、生存本能に由来する反射を満足に行えるはずがない。

 当然、そんなことは貴司にしても重々理解しているはずだ。だからこそ、僕たちが心身ともに人間から離れていくのを阻止しようとしてくれている。

「わかった。今度から気をつける」

 神妙に頷くと、仄香も唇を引き結んでこくりと頷いた。倫明は素知らぬ顔をして再び床に座り込んでいたが、ふいに声を発した。

「修也、本当に学校にいるのかよ。帰ったんじゃねえか」

「いや、ここにいるはずだ。靴箱に靴があった。……あいつ、終業式の最中に携帯が鳴りまくって没収されてたからな。連絡を取る方法がない」

 予想は的中していた。この学校の校則は基本的に緩いが、携帯の取り締まりは最近厳しくなっている。所持が発覚すれば直ちに没収され、返却されるのは翌日以降。相手を巻き添えにして没収させるとはあくどい手口だが、これは修也にも非がある。彼女を着信拒否なんかしたら話がこじれるに決まっているのだから。

 僕たちにとって最良の道は二人が和解すること。修也には悪いが、万由里をここに連れてくるべきだったかもしれない――と、そこであることに思い至った。

「もう、部室の中にいるんじゃないか?」

 三人はいっせいに僕を見る。僕たちに共通する青白い顔に、ひとつまみの恐怖がトッピングされていた。

「いや、あいつはいつも鍵をかけないだろ」と倫明は反論する。「閉まってるってことは、誰もいないってことだ」

「どうかな。何かあってドアを開けられない状態なのかもしれない。学校のどこを探してもいないんだったら、この中にいるとしか考えられない」

「ドアを開けられない状態って、具体的には?」

 やや上目遣いに仄香が訊いてきたので頭を働かせる。

 冷房の効いていない部室棟。コンクリートの建物は炎天下ではさながら熱の塊だ。暑さや寒さをあまり感じない僕たちは平然としているが、「まっとうな人間」の修也はどうだろうか。

「……熱中症だ。早く手当をしないと」

 貴司はすぐさま踵を返すと、「先生を呼んでくる」と走り去った。


 しばらくして戻ってきた貴司は、グレーの作業服を着た初老の男性を連れてきた。用務員の谷中さんだ。

「この中かい?」

 貴司が頷くと、谷中さんは腰につけた鍵束から一本を選んで鍵穴に差し込んだ。

 かちゃん、と澄んだ音が響いて、ドアが内側に押し開かれる。

 部屋は薄暗かった。正面の窓から射しこむ光は鉄格子にさえぎられて、八畳ほどの空間を縞模様に照らしていた。右手側にも窓があったが、そちらは西向きなのでやや暗い。中央には学習机を五つ集めた島。その上には、修也が持ち込んだ多種多様な本が散乱している。壁際の棚には、どこから出土したかも定かではない土器や黒曜石の矢尻。部室の空気がいつも砂っぽいのはこれらが原因だ。

 今はその匂いに、錆臭いものが混ざっている。

 机の島の一番奥、修也がいつも脚を載せて古代史の本を読みふけっていたあの机に、男子生徒が突っ伏していた。

「おい、君」

 谷中さんが鋭い声を上げた。素早く、しかし慎重に雑多な品物のあいだをすり抜けて彼のもとへ近づくと、目に見えて表情を硬直させた。

 僕もそっと足を踏み入れる。男子生徒のワイシャツは赤黒い色に染まっている。突っ伏している机も他より色が濃いようだ。

 男子生徒が首から大量に出血していることにようやく気づいた。

 うつぶせの姿勢を取っているので顔はわからないが、腕に嵌まっている腕時計がその名前を物語っていた。ヴェクターのデジタルウォッチ。気圧計や電子コンパスを内蔵してるからフィールドワークには欠かせないんだ、と誇らしそうに語っていた彼――

「修也……」

 鍵本修也は死んでいた。脈をとらなくてもそれは明白だった。

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