去年の春 ~若村桐子の恋、志麻紀一郎の日常~ ②



 入学式を終えて、ガイダンスであの人の顔を見たとき、とても驚いた。


 私の名前を褒めたあの人は、この大学の先生で、私の基礎ゼミの担当でもあった。そのとき、志麻先生は教室にいる私に気づかなかったらしい。きっと、キラキラ光っている周りと比べると少しだけくすんでいるから、私には気づかなかったんだろう。


 授業が始まってすぐ、志麻先生に会う機会ができた。と、言っても彼がバイト先に来たわけではない。基礎ゼミの教室だ。


 そのとき、ようやっと、一週間以上ぶりに目が合った。私に気づいた志麻先生はびっくりしたのか、目は文字通りまん丸になっていたので思わず少し笑ってしまった。



「それでは、自己紹介していきましょうかね。僕も、君たちも、互いの事をよく知らないですし」



 ガラスの破片を拾ったときと変わらないトーンで先生は話す。いつだって、この人はニュートラルな状態でいれるのか、と少しうらやましくなった(数ヵ月後、紀一郎さんが『ニュートラル』から離れた表情を私に見せるようになる)。


 自己紹介は、学籍番号順で一人ずつ終わっていく。志麻先生も、頷きながら、時折学生に質問しながら、楽しそうにそれを眺めていた。手元には黒い表紙の薄い綴りが置いてある、おそらく学生の個人情報でも書いてあるのだろう。しかし、志麻先生はそれを一切見ず、学生をまっすぐ見ていた。


 最後が、「わ」で始まる私の番だった。



「……若村、桐子です。一浪してます、よろしくお願いします」



 私がキラキラしていない理由、それは私が周りより一つ年上だったせいだ。今思えば、こんなつまらない理由で何うじうじしているのだろう? と思う。



「若村さん」



 彼は柔らかいトーンで私を呼んだ。でもそれは、彼が褒めた私の名前ではなかった。



「……はい」


「どうして、この学科に? 何を勉強しようと思ったの?」



 面接で、志望動機を聞くような聞き方だった。その真っ直ぐとした彼の目線から、少しだけ視線を外す。



「百人一首が好きで」


「へえ! どうして?」


「……昔から好きだったんですけど、高校生のとき、カルタ部に入って……」



 顔をあげて、もう一度志麻先生を見た。先生は良く頷き、私が続き話すのを待っていた…いや、私の言葉を巧みに引き出していた。



「でも、札を取るのが下手で……読み上げてばっかりいたんですけど」


「うん」



「部活じゃいつも、私が読み手でした。そんな事していたらいつの間にか気になってて」


「好きな句は?」


「え?」


「知りたいなあ、若村さんの好きな句」



 彼に真っ直ぐに見つめられると、まるで心の奥底までまっさらに浚われていくようだった。



「……浅茅生の 小野の篠原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき」


「そっか…僕もその句、好きです。いつかゼミでもやりましょうか、百人一首」


「え」


「もちろん、君が読み手で。慣れているだろうしね」



 先生の口角を少し上げて微笑んだ。

 私は笑うとまではいかないが、溜まっていた緊張感を息とともにようやっと吐き出すことができた。それは、先生が纏う空気と混ざり合っていた。



「ねーえ」



 明るい茶髪の女の子が、荷物をまとめている私に声をかけた。



「……何?」


「暇? この後、時間ある?」


「う、うん」


「じゃあさ、学食、一緒に行こうよ!」



「う、うん……」



 私は彼女に背中を押されながら、記憶を遡り、彼女の名前を思い出そうとしていた。私のふたつ前に自己紹介をしていた、とても快活な彼女……何て言っただろう?



「広瀬エリサ。聞いてなかったの」



 広瀬さんは、トレイをテーブルに置いた。今時の女子大生らしく、食事の量は少なめだ。



「聞いてたけど、私には関係ないと思って」


「まじネガティブ―。私、聞きたいことあったんだけどさ」


「……なに?」


「大学、落ちたの?」


「は?」



 思わず、箸を落とした。そして、お腹の底からじわりじわりと笑いがこみあげてくる。



「まさか、あけすけにそんな事言われると思わなかった」


「ごめん、気に障った?」



「ううん……。一年浪人しながらバイトして、お金貯めてたの」


「苦学生的な?」


「そういうわけじゃないけど……こっちの大学来ると、どうしても一人暮らしになるから初期費用くらい自分で稼ごうって思って」


「えらーい! すごいねーまじめー」


「母親にはめちゃくちゃに反対されたけどね、時間の無駄だって」


「でも、やったんだ。すげー」



 私は頷く。何故だろう、話を聞いているだけの広瀬さんはとても満足げだった。



「うん、まあ」


「どんな子かと思ったけど、トーコってやっぱり面白そうだわ。あ、私の事エリサでいいよ」


「……うん」



 恥ずかしくなって俯く。こんな『友達作り』もしばらく遠ざかっていたから、体がかゆくなっていく。



「……ねえ、トーコさ」


「何?」


「んー……、いや、あの先生、いつもあんならしいよ」


「志麻先生の事?」


「うん、のほほーんってしてて結構人気なんだってさ。けど、まだ独身なんだって」


「詳しいね」


「うん、サークルの先輩から聞いたの」



 志麻先生が穏やかで優しいのは、エリサより私の方が良く知っているに違いない。暖かくなっていく気持ちの名前が優越感というのは、後ほど分かる。



◇◇◇



 木々から漏れる光と、頬を掠める風はそれぞれ、初夏をまとっている。

 

 進学して、一人暮らしを始めて、ようやっと慣れてきた時期でもある。


 アルバイトは、それなりに順調だ。

 お店の中では、『マスター』と『店員』という立場で割り切っているけれど、叔父さんは結局私に甘い。食材が余った時は、すぐに私に押し付けてくる。姪っ子に甘い叔父は、いつでも私の顔色をうかがっている。毎日私が健康で過ごすことが、彼に対する孝行なんじゃないかと気づいた。



 志麻先生の授業は、結構好きだった。


 ゼミのメンバーには学期末に開催する百人一首大会に備え、少しずつ和歌を覚えてくるようにという宿題を課して、授業の中では先生の好きな話をメインにゼミ生でディスカッションをするという内容だった。先生はゼミ生ぞれぞれの解釈に耳を傾け、楽しそうに頷いている

 志麻先生は、きっと聞き上手に違いない。



 彼は、お店にもよく来ていた。

 一人でやって来ては、少しだけお酒を飲んで帰っていく。余計な詮索をしないのがお店のルールだけど、時折、志麻先生は誰かを待っているのではないかと思うときがあった。



 もちろん、それは私の気のせいだ。


 この数か月の間で、カウンターの端に座る志麻先生を視界の端で見るのがすっかりくせになっていて、キャンパスの中でも歩いている先生を見る度に、どうしてもそちらを向いてしまう。

 ただ、大学で見かけるときの先生は少し瞬きをしている間にすぐに行ってしまう。



「トーコ」


「……」


「ねえ、トーコってば」


「わ……エリサ、何?」


「またぼんやりしてるし……。何かあったの?」


「ううん、何も」



 この時も、少しだけ目を離しているうちに志麻先生の姿は消えてしまっていた。



「そうだ。トーコって、サークルとかって入ったの?」


「いや、何で?」



 出会った頃は『広瀬さん』と呼んでいたが、それをエリサが嫌がったおかげか、順調な友人関係が築けている。


 エリサも、私からよそよそしさが少し減ってきたらしい。



「講義終わった後、どうしてるんだろって思って。でも、トーコがサークル活動は中々想像できないなぁ」


「ちょっと覗いてみたけど、何か合わなくて……ノリとか。今はバイトだけでいいかな」


「好きだよね」


「何が?」


「だから、叔父さんのとこのアルバイト」


「……そう、かな?」


「うん。いつも、バイトある日は楽しそうだし」



 それには、全く気づいていなかった。



「あっ! もしかして……お気に入りのお客さんとかいたりして~」


「まさか。……ねえ、そろそろ次の講義行く?」


「もうそんな時間? やば、行こ行こ」



 トートバックを肩にかけなおし、少し先を歩くエリサの後ろを追った。


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