(9-1) それはきっと許された奇跡という名の夢

― 9 ―


 広い世界の中で、自分一人になってしまったようだと辺りを見回して思った。

 緑が景色を埋め尽くしていて、人々の暮らしの後は植物たちの命に飲み込まれてしまっている。


 ざわめく風が草花を揺らし、揺れる木々が囁き声のように耳へと届く。

 何処までも続く、地平線。果てしなく広がる、青い空。

 かつては人々が歩き回った大地にその足跡は無く、僕の足取りだけが残されていく。


 ふと、空を見上げる。青く、澄み渡った空の中、いつの間にかそこまで辿り着いていた宇宙からの来訪者。彗星。


 雲を押しのけ、現れたそれは手の届きそうな所にあっても届かない。

 大気圏でその身を燃やしながら赤く、青く光を放ち落ちてくる。


 僕の元へ、彼女の元へ。



 死の象徴は、落ちてくる。



「————…………、…………ぇ……、」



 天井がそこにあった。


 酷く、全身が重い。首を動かすのも億劫な程で、何とか視線を動かすと淡いベージュのカーテンが見える。


 ここは病室だった。病室に、僕は寝かされている……のか……?

 状況がうまく呑み込めない。肩に力を入れて、動かない腕を何とか手繰り寄せて、体を起こして、その腕に点滴チューブや心電図のコードが纏わりついていることに気が付いて、……なんだ……なにが、どうなって……、頭が重い。ズキズキと、眼球が痛い。


 包帯だらけだ、怪我をしたらしい? なんで、どうして――……、


「…………あぁ……、」


 そうしてようやく自分が屋上から落ちたことを思い出す。

 彗星の爆発に引き寄せられるようにして、後ろ向きにゴロン、と。


「よくもまぁ……生きてたな……」


 何処にどう落ちたとしても助かるような高さじゃなかっただろうに。

 お腹を触るとギブスでがちがちだった。とりあえず、ナースコール……で、いいのかな……。


 目が覚めた事を知らせた方が良いかもしれない。ボタンはベット脇にあるはずだった。ただ、後ろを振り向くことすら困難で、「あだだ……」まともに後ろを向けない。


 あまりにも身動きが取れないので唸っているとベットを囲っていたカーテンの開く音がした。隙間から窓の光が差し込んで、まともに目が開けられない。


「葉流……くん……」


 日差しの中から冬華さんの声がした。


 ペタペタと、裸足で床を踏む音が聞こえて、膝元にその姿が倒れこんでくる。


「分かる……? 何処か、痛くない……?」


 目を丸くして、これまでに見たことないほどに怯えた表情で、心なしかいつもよりも髪がボサボサだ。


「とりあえずはまぁ……全身痛いんですけど……、痛いって事は生きてる証拠って言いますし、こうして生きてるのも夢じゃないっていうか……」


 どういえばいいんだろう。上手くまとまらない頭でごちゃごちゃ言っていると冬華さんはその顔を僕の膝に埋めた。


「よかった……、ほんと、よかった……」


 泣いているのか声が震えている。

 反応に困った僕はとりあえずぎこちない腕で頭を撫でてみる。子供をあやすみたいに。


 その後、ようやく泣き止んだ冬華さんにナースコールを押してもらって、看護師さんが駆けつけて、しばらくして仏頂面の母さんがやってきて。命に別状はないけれど、あちこちの骨に軽いヒビが見受けられるのでしばらく入院する必要がある事。また、頭を強く打った形跡があるのでその検査も後で行うとかなんとかかんとか。色々具合に関する報告というよりもここ数日意識が戻らなかった僕への愚痴を聞かされ、ついでに屋上のフェンスを越えた事を叱られ、最後に「冬華ちゃんと同じ病室だけど変な気を起こさないように。起こしたら死ぬから」だなんて付け加えられた。


「……いや、ダメだろ、同室は」

「なんでよ。やっぱり女の子だって意識してるわけ?」

「僕がどうのっていうより病院的に、男女が一緒の部屋になるのって緊急性の症状がある人だけだろ? 意識もはっきりしてるし、第一、この部屋、ナースセンターからは「良いのよ、ご両親からも是非お願いしますって言われてるんだから」「…………」


 なんだそれは。

 恐る恐る隣に座っている冬華さんに確認を取ると遠慮気味に頷かれた。僕の寝ている間に何があったんだ。


「というか、私がそうしてくださいってお願いしたの。落ちたの、私の責任だし……」

「いや、僕の不注意でしょ」


 後、なんなら自業自得だ。


「いいの。私の気が済むまで一緒にいて。……知らない間に冷たくなってたら、怖いじゃない」


 なるほど。理解はできないけどここは納得するしかないらしい。意地を張りだせば折れないのが冬華さんの悪い癖だ。


「そんじゃ、検査の用意出来たら呼びに来るから。――あと、舞花ちゃんにも連絡しとくね」

「うへー」


 アイツには煩く言われそうだなぁって気が滅入る。人のことなんてお構いなしだ。

 せめてそれまでは大人しくしていようと再び天井を見る作業に戻る。見てたって仕方ないので目を瞑った。冬華さんの視線は感じるけれど、ただただ今は体が重い。これで春休みの予定が埋まってしまったわけだ。


 天井を見つめる日々。冬華さんとおしゃべりする毎日。

 生きていることが奇跡だというのなら、僕らは奇跡みたいな存在なんだなーってバカみたいな事を考え、右手に触れる感触にため息を溢す。


 どんだけ心配性なんだ。この人は。


「大丈夫ですよ。死にやしませんから」

「分かってるよ。けど、こうしてると安心するのよ。分かるでしょ」

「……そですか」


 僕の方はちっとも落ち着けないのだけど。

 こんなところを舞花に見られでもしたらそれこそ流血沙汰だ。あいつに何を言われるか分かったもんじゃない。


 僕が何も言わないからかもしれないけれど、冬華さんは珍しく黙り込んだままだった。両手で包んだ僕の右手を膝の上にのせて、眠っているわけでもないのに目を閉じて。落ち着かない時間が、過ぎていく。


 どうしたものかとちらちら辺りを伺ってはいるのだけど、問題の舞花も現れないし検査のお呼びも掛からない。第一、どれぐらい時間が経ったのか。もしかするとまだ数分と過ぎていない可能性だってある。


「原稿、書かなくていいんですか」

「うん。もういいの」

「……それって書き終わったからって事ですか?」


 目を見る事が出来なかった。


 だって、冬華さんから書くことを取り上げてしまったら。それこそ、冬華さんそのものを捨ててしまったような気がして、見ていられない――だから、……? なんだかとても右手の皮膚が痛かった。じわわわわっと蜂に刺されたような痛みが広がっていく。


「何してんですか」


 流石に無視できるわけもなく。視線を動かせば冬華さんが黙って手をつねっていた。うちの母顔負けの仏頂面で思いっきり、つねっていた。


「悲鳴ぐらい上げてよ。感覚ないのかと思っちゃうじゃない」

「じゃなくて」


 ていうか返事してないのは僕じゃなくて冬華さんの方だ。


 書き終わったのかどうか聞いただけなのにこの仕打ちは酷い。てか、あれ? 前に書き終わったって言ってたっけか……?


 屋上でそんな感じの話をしていたようなしてなかったような、落ちた時の影響なのか記憶が曖昧だ。とはいえ、それが原因で抓られてるにしても、理不尽なような気がしないでもない。


「……らしくないっていえばそれまでですけど、そこまで責任感じる事無いと思いますけどね。さっきも言いましたけどフェンスのよじ登ろうって誘ったのは僕ですし、あんなところでぼーっと空見上げてた僕の落ち度では?」

「だけど、屋上に誘ったのは私」


 ようやく指先を離してくれた冬華さんは呆れたように呟く。

 少し赤くなった手の甲を撫でながら目を伏せた。

 思うところがあるのは分かるけれど、そこまで気負いされると僕だってどうしていいのか分からなくなる。


「いつものようにしてくださいよ。幸い、奇跡的にも命に別状はないんですから」

「私が倒れた日にさ、春川さんにね? これ以上葉流くんを苦しめないでくださいって言われたの」


 冬華さんは顔を上げ、ようやく目と目がようやく合う。

 今にも泣きそうな、だけど、泣く事すら諦めたような、頬をひきつらせた笑みで、


「駄目だね、私は。……君と話せることがこんなにも嬉しいのに、それと同じぐらい、君を傷つけてしまう――。……きみは、もう、これ以上はないってくらい……、かなしいこと、たくさん、あったのに」


 震える唇で無理やり紡ぎだされた言葉は僕から周りの世界を奪っていく。


 ぽろぽろと、零れ落ちる涙を袖でぬぐって、それでも、震える手で、僕の手は握っていて、……静かだな、って思った。いつもは聞こえてくる病院の中の音が、随分と遠い。


 近づく程、相手を傷つけてしまうだなんて。ヤマアラシじゃなくたって誰でもそうだ。

 冬華さんは物語を書く癖に馬鹿だなって思う。散々取材だって言って、知識を貯めこんでいるくせに肝心なことが見えていない。そんなことは人のことを良く見ていれば分かるハズなのだ。


 僕は、この人に触れることで後悔したことなんて一度もない。


「僕だって、……こうしてお話しできるのは楽しいので、良いんですよ。別に」


 確かに入院することにはなって、春休み、何処にも行くことは出来ないのは間違いないのだけれど。入院していなかったらしていないで、きっとここに通う日々だっただろうし、父さんの事にしたって、それこそ、もうとっくに乗り越えてしまっている。


 読み終えてしまっている、っていうのが正しいのかもしれない。


「いままでずっと、父の書いた本を読むの、避けて来てたんですけど……、……冬華さんの原稿読んだらなんだか読みたくなっちゃって、ここにこれない間に何冊か、読んじゃったんですよ。……だから、平気です。もう」


 父との思い出は、これからも築くことが出来ると、気付いたから。


「あの人、冬華さんよりももっと原稿用紙無駄にしてて。いつも手のここんとこが真っ黒でした」


 思えば、それはきっと、この世に少しでも多く、自分の言葉を残していきたかったのだろうと、冬華さんを見て思った。

 幼かった僕には話して聞かせたところで、まだ早すぎるような話を、残しておくために。


 父は父なりに言葉を残した。


 あの人は僕の事を見ていなかった訳じゃなく、自分がいなくなった先でも僕に伝えたいことが沢山あっただけなのだと残された本からも感じる事が出来たから。ただ、もう少しうまいやり方もあっただろって思わなくもないけど。


「だから、冬華さんは悪いことばかりな風に言うけれど。全然、そんなことはないんです」


 話下手なのは自覚してる。何処まで伝わったかは分からない。ただ、伝わればいいと言葉を並べただけだった。


 そんな僕の話を聞いて冬華さんは苦笑して首を傾げる。


「なるほどね。私のお話が面白くなかったから、面白いお話が読みたくなったって事ですか。なるほどなるほど」


 分かりきってるように笑って、誤魔化す。

 僕も「まぁ、そういうことですよ」って乗っかっておく。


「けど、……わたしが言いたいのはそういうことじゃないのよ……」


 精一杯、こぼれそうになる弱音を噛み潰した声。


「私は死ぬんだよ? 君が私との時間を大切にしてくれるのは嬉しいけれど、君を残して私は逝く。それでも、平気なんだね……?」


 感情を押し殺して、冷酷であろうと絞り出した最後通告。

 ずっと強がっていた冬華さんなりに見せた本心。

 ただ、いまの僕にとって痛くもかゆくもなかった。


 少しだけざわついた心臓はすぐに落ち着きを取り戻していて、覚悟を決めるってこういうことだったんだなって、思い至る。


 もしかすると屋上から落ちて度胸が付いたのかもしれない。


「奇跡は案外簡単に起きるそうですから、冬華さんも助かっちゃうんじゃないですか?」

「そうじゃなくてッ……!!」


 分かってる。冬華さんの聞きたいのはそういうことじゃない。だけど茶化さずにはいられない。

 だってあまりにも冬華さんが「悲劇のヒロインぶるから」。だってそんなの、冬華さんには全然似合わないから。


「わたしはっ……、怖いっ……」


 握られた手が酷く熱かった。


 死ぬことが怖くない人なんていない。

 どんなに諦めようとしたって終わりに向かって歩き続けるのは相当つらいことだ。


 死を宣告された地球上の人々だって直前になるまでその事を考えようとはしていなかったし、それが神の意志だとしても運命に逆らおうと奇跡を求め、起こした。


「怖いんだよ……。私は君が思っているほど強くないっ……」


 そんな風に睨む瞳は潤んでいて、否、睨もうとしてけど、くしゃって、目じりが歪んで。


「死にたくないんだよっ……」


 隠しきれない本音がこぼれ出る。


 僕は神様じゃない。

 この物語を描く作家ではない。だから彼女を救うことは出来ないし未来を予知することなんて出来はしない。——だけど、するべきことは決まってる。


「どんな未来が待っていようと、僕は冬華さんの傍に居ますから。……言ったじゃないですか、貴方の最期は僕が看取ります。貴方が後悔して逝かないように。見守って、……この手だって、離しません」


 自信がないわけじゃない。多分、冬華さんがそうなったとき、僕は落ち込むだろうし、泣き崩れるかもしれない。だけど、絶対に後悔だけはしないと思う。だって、ここで彼女の元から身を引く方が、ずっと、ずっとずっと、後悔する事になるのは、分かっているから。


「暇つぶしになるとは言いませんけど、気を紛らわせるぐらいの事は出来ると思いますよ? 僕が落ちてからこの数日、退屈はしなかったでしょう?」


 そう告げると冬華さんはやっぱり小突いたけど、その照れた顔が可愛かったから儲けものだ。


「……だけど、……そっか……?」


 その後、しばらくの間俯いていた冬華さんだったけれど、気持ちが落ち着いたのか何度か深呼吸を繰り返してからようやく僕の手をベットに戻して腰を上げ、足元に回り込むとまた小さく深呼吸をした。慎重すぎる程丁寧に。何度も繰り返して、それはあまりにも芝居がかった動きだったからつい笑いそうになった。相変わらず何考えてんのか分かんない。僕はちょっと次の一手に期待しつつ、冬華さんを見つめる。見つめて、目と目がまっすぐぶつかって、年相応の、冬華さんにしては幼すぎるような笑みで、彼女は告げた。


「それじゃ、もうちょっとだけ、付き合って貰おうかなっ――、葉流くんっ?」


 と。


 カーテンの隙間から差し込んでいる眩しすぎる光に僕は目を細めて苦笑した。僕が何か言い返す前にドタバタとやってきた舞花によってその場の空気は元に戻される。だけど返事なんて必要ない。既に僕らの未来は決まっているのだから。これ以上、青臭いやり取りで確認し合う必要なんてない。


「なんでもないんだよ、きっと」


 そんな風に僕が落ちた当日の事を問い詰めてきた舞花をはぐらかし、僕らは笑う。



 知っているようで知らない事が沢山ある。

 だけど、知らないことは悪いことじゃない。その分だけ、僕らは空想の世界で冒険できるのだから。



 そしてその一か月後。僕が退院して間もない頃、冬華さんは帰らない人となった。

 最後に交わした言葉は、他愛のない、お約束みたいな面白くもない約束だった。

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