(7-3) もう一人の作家と

「…………」


 舞花の膝の上で僕は目を覚まし、どうしてこうなったのか最初は思い至ることが出来なくて茫然と天井を見上げた。そうして何がどうなっているのか分かると恥ずかしいやら情けないやらで舞花に気付かれないよう、頭の上にあった手をそっと退ける。


 こんな僕に付き合ってくれていた舞花は静かに寝息を立てていた。起きるかと思ったがよく眠っているらしい。風邪をひかないようにと背もたれに乗せてあった毛布を引っ張るとそのままかけてる。


 こうして静かに眠っている分には可愛いもんなんだよな、と相変わらず変わらない一面をしばらく眺める。人の弱みをどうこうする奴じゃないのは分かってるけど、こいつが目を覚ました時、どうフォローすべきかいい案は浮かんでこない。


 何とも面倒なことになったものだ。つけっぱなしになっていたテレビでは、彗星をどう軌道修正するのか、どれ程の成功率があるのかという話を報道番組があれやこれやと説明している。僕はそんなものを聞く気にはなれなくて画面を消した。


「ほんと……いくつになっても子供のままだ……」


 何をどうすれば大人になれるのかは分からないけど、子供のまま、何もできないってのは気持ちのいいもんじゃない。


 冬華さんは、ニュースをもう耳にしただろうか。

 集中治療室にはテレビはない。だけど誰かが話しているのを耳にしたかもしれない。そしたらあの人は、……どう思うんだろう。「だから言ったじゃない」って笑うだろうか、それとも「そっか、おめでとう?」って少し寂しそうな顔で祝ってくれるだろうか。自分一人、死んでしまう未来が近づいているという現実に。


 いや、冬華さんだって死ぬと決まった訳じゃない。母も無能じゃない。あれから色んな場所で勉強して、父さんの命を奪った病気も治らないものじゃなくなってきているとニュースで読んだことがある。だから今度こそ、母は医者としての責任を果たせるハズだ。果たしてくれると、あの母親を、信じている。


 なんていうのは身勝手な気持ちの押し付けで、自分にはどうしようもないからって丸投げして、すげぇダサい。


 玄関の鍵が回ったのはそんな時だった。まさか鍵が開いているとは思わなかったらしく、一度鍵を閉めてからまた開ける。ガチャガチャと玄関から錠の回るの後に扉が開き、そしてまた鍵の閉まる音が聞こえて来ていた。

 そんな音に吸い寄せられるようにして顔を出すと、ちょうど母は靴を脱ぎ、廊下に上がったところで、向こうも僕の存在にも気が付く。


「……どしたの」


 珍しく、神妙な面持ちで母が尋ねる。

 そんなに僕は酷い顔をしているのかと参ってしまう。


「冬華さんの手術、母さんがするんだよね」


 その問いかけの意味するところを分からない母でもなかった。一瞬目をそらしたかと思えば背負っていたカバンを自室に放り込み、首をかしげてほほ笑む。


「なにさ、母さんが信じられないっての?」

「信じてるから頼むよって、言いたかった」

「そりゃプレッシャーだねぇ?」


 茶化しながらも僕の横をすり抜けてリビングから台所へと、冷蔵庫の中の牛乳をコップに並々注ぐと一気に飲み干した。


 訪れたのは沈黙と、深いため息。

 これほど弱った母を見るのは随分と久しぶりだった。


 体力的な事ではなく、母もまた、自分の夫と同じ病気を抱えた少女に対して気負いしている。そんな予感があった。

 そして、それはどうやら的中しているらしい。


「葉流には嫌われたくないなぁ……?」


 そんな、母だからこそ許されるような言葉。

 患者の前では絶対に吐けないような弱音を吐きだしてくれたことに対して、僕はどうすればよかったのだろう。


 ただ分かることは、「一人のただの人間として背負いきれるものには限度がある」、そんなことすら分かっていなかった僕は、無責任にも主治医としての立場を諦めたように感じた母に対し、憤りを感じ、詰め寄った。


 何か黙っていられないほどの怒りを感じ、母の裏切りにも等しい行為に対して暴言の一つや二つ、吐き出せるハズだった。


 なのに、部屋の中に立ち込めた静寂は破られることはない。

 ただ、自分の心臓の音だけが耳の中でうるさく鼓動を奏でている。


「……葉流……? おばさん……?」


 いつの間にか目を覚ましたらしい舞花がいつもとは違う雰囲気に戸惑った。それを合図に母は話を打ち切り、「あらーっ、舞花ちゃんじゃない! 来てたのね、いらっしゃーい!」とかなんとか。「葉流と舞花ちゃんがそういう関係になってただなんてっ……、ちょっと! 守るところは守りなさいよね、はーるっ?」とかなんとか。ただひたすらにカラ元気を振舞い続ける。


 僕は耐え切れなくなって自分の部屋に戻ると扉を閉めた。

 後ろで舞花の呼ぶ声が聞こえた気もするけれど、もう、散々だった。

 ただでさえ整理の追い付いていなかった頭の中はぐちゃぐちゃで、これ以上なにも考えたくなんてない。


 扉を背中で閉めた後、そのままズレ落ちるようにして床に座りこみ、気が付けば眠ってしまっていた。

 人間、都合の良いように出来てるもんだと、つくづく感心する。



 ――ああ、またこの夢なんだ。



 その景色が目の前に広がっていると気が付いたとき、漠然とそう思った。

同じ夢も何度も見れば夢だと気が付く。

 とはいっても、そんな経験は数える程しかなくて。今回、そうだと気が付いたのはベットの上で眠っていなかっただとか、気持ちが不安定だったとか、そういう要因が重なった結果だったんだろう。


 死んだはずの父がいて、書き終えた原稿を封筒に詰め込むと母に手渡していた。

 呆れた顔で母はそれを受け取ると憎まれ口を叩きながらも郵便局へと持っていく。何度も繰り返し見て来た光景だった。こうやって父は作家を続けていたのだ。筆を握れなくなるその日まで。


「父さんは、どんな気持ちだったの」


 ここにいる僕は幼い頃の僕ではない。なのに父さんは何も不思議に思うこともなく、首を傾げる。成長してしまった僕を見て驚くこともなく、いつものようにただ微笑む。


「母さんもきっと怖かったんだ……、誰にも打ち明けられずに父さんに心配かけることも出来ずに、戦ってた。だったら父さんは、……そんな母さんにどんな気持ちで向き合ってたの」


 父さんの時も、僕は怖かった。

 いつになっても我が家に戻ってくる気配のない父。先の見えない、病院での生活。

 母さんをダシに使って、訴えてるのは僕自身の不満だ。


「父さんもッ……、怖かったんだろ……?」


 そんな風には見えなかった。決して弱音を見せるような人ではなかった。だからこそ周りもそういう風に接したし、僕の記憶の中では突然父はいなくなってしまったように思える。


 だけどそんなわけがない。父さんも、冬華さんもきっと、訪れる死が怖くないはずがないんだ。なのに、僕は何もしてあげられていない。何もしてあげることが、出来なかった。後悔しているなら、行動に移すべきだと分かっているのに。


「誰でも、迫りくる死の前には臆病になるものだ」


 何も書かれていない原稿用紙を一枚手繰り寄せるとそこにペン先を添え、何か言葉を綴ろうとしては浮かばず、ペン先は何度目かその先を紙から浮かせた。何度も繰り返し見た、言葉に詰まったときの父さんの癖。


 とうとう書くことを諦めた父は苦笑しながらもペンを置き、僕に向き直ってまっすぐに目を見つめ返してくれる。原稿用紙にばかり向き合っていた父の姿ばかり印象的で、時折こうしてちゃんと遊んでくれていた事すら僕は忘れていた。そんなことすら覚えていなかった事が酷く恥ずかしい。


「だけど、後悔しないように生きるというのは、……誰しも同じだと私は思う」


 僕の髪をくしゃくしゃと掻き回しながら、照れ臭そうに笑う。

 父の手がやけに大きく感じる。ペンを握り続けた指はごつごつとしていて、その感触は確かに懐かしかった。


「残された時間は短いかもしれない……。だけど、何も残せないわけじゃないしね」


 なんて都合のいい夢なんだろう。都合の良い冬華さんの気持ちを代弁させ、それで解決した気になってる。

 酷く、冗談みたいな夢だ。


「ワケわかんないよ……」


 嘘だ。きっと僕は自分でも気づいてる。気付かないふりをして、目を背けてる。


「アレは――、目を閉じれば見えなくなるが……、だからといって消えるわけじゃないんだろう?」


 見上げた先に天井はなかった。

 あるのは殆ど空のすぐそこまで迫った大きな彗星。

 遠くない未来、そう難しくない確率の果てに訪れる終わりの瞬間だった。


「限られた時間は誰しも等しく抱くものだ。アレは平等に人々の元へと降り注ぐ」


 父さんは子供のように目を輝かせてそれを見上げ、ペン先で触れられるはずもないその光をつっつく。それを合図に彗星は粉々に砕け、流れ星となって空を駆け、夜空の果てに降り注いでいった。


 それは、僕の元へも。


 ふんわりと、雪のように落ちてきたその欠片を手で受けると、光は手のひらの中に溶けてしまった。

 同じように、光は父さんの胸の中へと消えていく。


 馬鹿げた、天体ショーだ。


 僕はどこか冷めた気持ちでそれを受け止めながら、父のひざ元に置かれていた発売されたばかりの単行本を手に取ってページを開く。言葉は意味を成してはいなかった。ぼんやりと目の焦点が合わなくて、文字が形をとどめてはいない。だってこれは夢だから。僕は父の物語を殆どと言っていい程に知らない。触れてはこなかった。


 父さんと、向き合ってこなかったんだ。ずっと。


「悪かったな」


 父さんは突然謝った。驚いて顔を見上げるけど父さんはいつものように原稿用紙に視線を落としていて、僕の方を見ようとはしない。ゆっくりとペン先を動かしながら言葉を綴り、苦笑する。


「けど、こうしておけば、きっといつか、お前に届くだろ?」


 そうしてそれが幼い頃に見た光景だということに気が付く。

 遊んでほしいと、珍しくねだった僕への父さんが見せた初めて困ったような笑顔。

 それでも手を止めることはなく、書き続けた原稿用紙——。


 それが、どういうことだったのか、ようやく分かった。


「言っとくけど、父さんが悪いんだからね。いつもいつも原稿ばっか書いて、構ってくれないから」


 らしくないとは思いつつ、拗ねて見せる。すると父さんは「それは悪かったな」とまた僕の頭を撫でる。子供をなだめるように、優しく、片手間に。……別に怒ってなんかない。怒ってないけど、あの時の僕は確かに寂しかったんだ。だから、


「目が覚めたら、読んでみるよ」


 その分、期待外れだったら嫌ってやると誓った。

 別に父さんの本を避けていたわけじゃない。そうする機会がなかっただけだ。——なんていうのは見苦しい言い訳なんだろうけど、読んでこなかったのは理解できなかったからだ。


 自分の事を放って、書き続けた物語を。

 どうしてそこまでして書き続けたのかと。


「不器用すぎるよ、ほんと」


 似ているにも程がある。


 誰かさんとは違ってちゃんと照れ臭そうに苦笑してくれるだけ、僕の父はまだマシな方かもしれない。あの人なら多分、こんなことを言ったらムキになって言い返すか、拗ねて、話を聞いてくれなくなるだろうから――。


「困っちゃうよ」


 これは夢で、僕の理想が作り出した都合のいい現実。自分で自分を肯定するための酷く身勝手な願望。だけど、そのおかげで少しだけ父さんの事を考え直すきっかけにはなった。


「冬華さんも、同じ――……ってか、作家になるような人って皆そうなの?」


 少しでも、自分の言葉を誰かに残しておきたいと。

 自分が直接伝えられなかったとしても、文字として、言葉として、その想いを記して置きたいと、思うのだろうか。


 なら、心に決める。僕が諦めるわけにはいかないと。


 例え避けられない結末が待っているのだとしても、そこに至る道のりを諦めてしまってはならない。

 きっと父も、冬華さんと同じだった。最後の一瞬まで生きようとしていたはずなんだ。だから。


 目を背けず、まっすぐにその日を迎え入れよう。

 父さんがそうしたように、冬華さんがそうしようとしているように、僕も――。


「……ところで、父さん? 雪が何処から来るのか、みんな、知っているようで知らないって、どういうことだったの?」


 夢はそう長く続かない。夢を夢だと認識できているときは特に。だからなんとなくもう目が覚めるって予感があって、目が覚める前に尋ねたかった。

 なのに父さんは聞かなくても分かるだろって顔で笑って、分からないから聞いてるんだよって僕は拗ねて、目が覚めた。


 目が覚めた僕は妙にハッキリとした意識の中で夢に見た父さんの困ったような照れ笑いを思い出していた。


 戸惑っている時間があるのなら、勿体ないじゃないか。


 父さんにそう言われているような気がして。


「まずは父さんの本だったな」


 急いだところで何も変わらない。

 変わらないのなら、着実に、その時を刻めばいい。


 自分の本棚には並べていない。父さんの本は母さんに借りなきゃならない。母さんは驚くかもしれないけれど拒みはしないだろう。

 あの頃は聞くことのできなかった言葉を受け取るために手を伸ばそう。ずっとそこで待っていた父さんの想いに触れる為に。



 冬華さんとの面会許可が下りたのは卒業式が終わって、少し早い春休みを迎えた頃になってからだった。

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