(5-2) その時はともに

 とはいえ、受験そのものはなんてことはなく、いつも通り「舞花がうるさいなぁ」とか思いながら受験会場に向かい、何のハプニングに見舞われることもなくビックイベントを終えることになった。


 予想外の問題もそれなりにあったけれど、落ち着いて対処すれば何とかなった。そういう普通の試験。

 学校の友達と別れた後も舞花はぶつくさとどの問題を間違えたとか、点数が思ったよりも伸びてないかもしれないだとか言い続けていたけれど、何はともあれ、受験勉強からは解放されたわけだ。


「とはいっても、落ちてたら浪人だけどな」

「のぁーッ!!」


 別れ際。玄関先でそう告げると思いっきりおしりをけられそうになったのでさっさと退散する。扉を閉めた向こう側でまだ舞花が騒いでいるのが聞こえた。これからは受験勉強しなくていいからってテンション高すぎだ。


 荷物を降ろし、着替えを済ませて雪の少なくなった道を自転車で駆け抜ける。


 今日は暖かく、マフラーも必要ない。徐々に暖かくなってきている気温は春の訪れをすぐそこにまで感じさせてくれていた。

 いつもなら腰を下ろしてペダルを漕ぐ足も、今日は妙に軽く感じ、流行る気持ちが立ちこぎにさせる。


 舞花だけじゃなく、僕もまた受験から解放された喜びにはしゃいでるのかも知れない。


 帰宅途中、少しずつ傾き始めていた太陽はもう夕日と呼べる色にまで変わって来ていて、面会時間の事も気になるけれど、病院に近づくにつれてどういう顔をして会えばいいのか少しずつ決意が揺らいでいった。冬華さんにはもう、来なくていいと言われてしまっているし、それを押し切って会いに行ったらそれはもう、取り返しのつかないことになるんじゃないかという予感すらある。

 元の関係には、戻れないじゃないかという恐れも。


 サドルに、腰を下ろした。もう、河川敷の上で、人通りも少なからずある。

 それほど速度を出してしまっては危ない場所だから。そう、言い訳して。


 街並みの向こう側に姿を現した病院に近づくのが怖い。ドキドキと、愛の告白をするわけでもないのに心臓がうるさい。

 思いっきり勢いで飛び出して来てしまったけど、いいのかな。本当に。と、自問自答し、遂にペダルを漕ぐ足も止まって地面に足をつくと、夕焼けと病院を前に足がすくんだ。


 多分、今日会いに行かないともう冬華さんとは会えない気がする。いや、会いに行く口実がなくなってしまう。もう来るなと言われ、受験が終わったのに行かなければ、きっともう、僕は、あの人の病室に足を運べない。分かってる。分かってるんだ、それぐらい。


 僕は自分が思っている以上に怖がりで、きっとばあちゃんの後押しがなければ冬華さんとも積極的には関わらなかっただろう。それぐらい、僕の交友関係は狭い。身をもって知っている。友達は少なくもないけれど、多くもない。仲のいい連中が数人いれば満足なんだ。だから、冬華さんに……、……ぼくは、会いたいのか……?


 生温い風の中に一段と冷たいそれが混ざっているように感じられた。


 少しずつ、夕日は傾いていく。影を増していく景色と共に、僕の気持ちまで重く、息をひそめて誰かに背中を押してもらえるのを期待している。――だけど、そんな都合のいい存在は現れない。こういう時に限って舞花はきっと家で断食していた甘いものを食べ漁っているだろうし、都合よく、冬華さんが病室から抜け出して来ることもない。


 自分の足で、向かうしかない。


「……なんだよ、それ」


 自分で思って、馬鹿みたいだと一人笑う。

 冬華さん一人に会う為に決意がどうこうとか、大袈裟すぎるだろう。

 止まっていた足をペダルに乗せ、車輪を回して、病院へと向かう。急ごう。本当に面会時間が終わってしまったら笑い話にもなりゃしない。


 いつも通り駐輪場に愛車を止め、ロビーを通り抜けて受付を済ませると病室に向かう。窓口の人は酔いつぶれた母を何度か送って来てくれた同僚の方で、軽くかわした挨拶が少しだけ肩の力を抜くのに役立った。小さく深呼吸をしながら病室の扉の前に立つと、控えめにノックをして、反応を探る。


 相変わらず4人部屋には冬華さん一人しか入院していないらしく、名前のプレートは彼女一人分だった。


 だが、反応がない。


 寝ているのかと恐る恐る扉を開けると冷たい風が中から噴き出してきた。


 開け放たれた窓。それに捲られるカーテン。


 誰もいなくなったベットの上では原稿用紙がパタパタと音を立て、いまにも吹き飛ばされそうになっていた。


「冬華……さん……?」


 嫌な、予感がした。

 ドキリと、心臓が嫌な音を立てる。


 いつものように父の見舞いに来て、誰もいなくなった病室で、父が集中治療室に運ばれたと教えられた日の事が思い出された。


 苦しそうにほほ笑む父と、見つめる悔しそうな母の横顔が、僕の呼吸を乱す。頭がくらくらする。うまく、息が吸えていないせいだと気付いてからはそれを意識してみるけど、まるで肺に穴が開いているみたいに呼吸が空回りする。


 大丈夫、大丈夫だ。もしそうだったら受け付けで何か言われるハズだし。


 気持ちを落ち着かせようともう一度ちゃんと深呼吸して開け放たれたままだった窓を閉める。

 日も随分と傾いてしまっていて、夕日の当たった頬だけが僅かに暖かい。そんな窓からの景色を眺めていると当然携帯電話が音を鳴らした。めったに鳴らないメールの通知音。ああ、なんだ。と回っていなかった頭がようやく見当をつけた。カバンから携帯を取り出すと扉の開く音が響く。振り返れば目を丸くして冬華さんが部屋に戻ってきた所だ。


「はる……くん……?」


 胸元に寄せられた手に握られているのは携帯電話だった。

 今のメールの送信者はこの人だ。病室じゃ電波が入らないといっていたから外に出ていたのだろう。寒さのせいか少しだけ頬が赤くなってる。


「受験、終わったから寄りました」

「いやっ……そうじゃなくてっ……! えっ……へっ……?」


 一方冬華さんは冬華さんで絶賛混乱中らしく、その場で泡でも噴き出しそうな勢いだった。


「ていうか、め、メール……!! 携帯貸して!!」


 惚けていたのは束の間で顔を真っ赤にした冬華さんは慌てた様子で僕に詰め寄ると泣きそうになりながら怒る。


「出して! ほら、早く!!」

「あ……はい」


 あまりの剣幕にそれを差し出す。だが、どうやらスマートフォンは使ったことが無いらしく、「えっ、これ、なに、どうやったら……ええっ……?」とかなんとか冬華さんはそれこそ画面を割るんじゃないかって勢いでロックの外し方を模索する。暗証番号のところまで到達すらできていない。ちなみに、僕のは指紋認証だ。

 見かねた僕は取り返すとロックを解除してメール画面を開く。


「これ、消せばいいんですか?」


 差出人は緋乃瀬冬華と書かれている。余程恥ずかしいメールを送ってきたらしい。相変わらず涙目の冬華さんは顔を真っ赤にしながら首を上下に振った。


「はい。消しましたよ」


 言って携帯をしまう。


「本当に!? 本当に消した!?」

「消しました消しました。残しておいてもいいことないじゃないですか。冬華さんに怒られそうだし」

「怒りはっ……しないけど……、……んぅ……、ごめん。取り乱してるよね……ちょっと落ち着く」

「はい」


 ベットに戻った冬華さんはそのまま布団を被って「うー」とか「あーっ」とかひとしきり喚いた後、布団から顔を半分だけ覗かせて、それでもうまく言葉が出てこないらしい。


 この様子だと今日一日モヤモヤしていたのだろう。気にしていたのは僕だけじゃなかったのは幸いだ。こうして病院に来てよかったと少しだけ肩の荷が下りた気がする。


「……ごめんなさい……お久しぶりです……」

「ええ、どうも。お久しぶりです」


 ようやく落ち着きを取り戻した冬華さんが渋々と頭を下げる。僕は椅子に腰かけて向かい合う。なんだかこれじゃいつも通りだ。

 それが悪いことではないのだけれど、これからそうじゃないことをしようとしている。

 だから冬華さんの気持ちがまだ落ち着いていない間に僕は口を開いた。


「受験終わったのでその冬華さんの原稿、読ませてください。受験頑張ったご褒美ってことで」

「いやいやいやっ、ちょ、ちょっと待って? なんでそうなったの……?」

「試験中も気になるくらい、冬華さんのお話に興味がわいたから――……ですかね?」


 言っていて恥ずかしい程に、正面突破でしかない。別に舞花に倣ったわけじゃないけど、上手く誤魔化しつつ、話を持っていけるほど僕は話術に長けていなかった。だから、ただ正直な気持ちをぶつける。気恥ずかしい、本音の一部を除いて。


「読んだ感想伝えるって約束、果たせてませんし。どうせしばらく暇ですから。嫌だって言っても無理やり読みますし、なんなら依然僕に言った『何でもしていい権利』をここで使わせて頂きます」


 隠し事はしていてもこれも嘘偽りのない本音だ。口をぽかーんとあけて珍しく固まってしまっていた冬華さんだったけれど、顔は徐々にはにかんでいく。雪解けを感じさせる、山の景色のように。


「ならっ……仕方ないかなっ……?」


 僅かに残された夕焼けの光が、そんな彼女の顔を紅く染めていた。


「けど、ほんとにそんなことに使っていいのかな? 私みたいな美人と、えっちなことしたいっていう欲求は皆無ですかっ?」

「後が怖くてそんなのできませんよ」

「よくわかっていらっしゃる」


 そう笑う冬華さんの瞳からは涙のようなものがこぼれ、それを照れ臭そうにぬぐう。そんな様子がむず痒くて、言葉に詰まる。こういうときどうしたらいいんだろうと必死に頭を回した結果、気の利いた言葉の一つも浮かばずに、適当に笑ってごまかした。


 自分のボキャブラリーのなさにはうんざりするけれど、仕方がない。きっと僕は恋愛小説の主人公にはなれやしないんだから。


「あとそれと、……作家じゃないから分かんないっていうなら、僕も、……書いてみますから、小説」

「……へ?」

「そしたら……、ちょっとは冬華さんのこと、……分かるかもしれませんし」

「ぁ……、あー……あはぁ……?? こういうとき、どういう風に笑えばいいんだろ……? え……えへぇっ???」


 素直に気持ち悪い笑い方だなぁってちょっとドン引きだった。

 にへにへと頬を緩ませて、手でそれを隠したいのかもじもじして、何だこの人。

 久しぶりにそういえば変人に属する種族な方だったと思い出す。


「ぃやあ……、それはいいよ? だって、ほら、私は好きで書いてるわけだし、強制されて書いたところで意味ないって言いますか、そんな重要なことでもないというか……」


 何を言いたいのか言い終わるまで待ってみたけれど結局意味が分からなかった。

 最終的に「とにかくっ! 君はそんなことしなくていいのです! 分かりましたかッ?」とお説教気味にまとめられてしまった。


 確かに僕も逆ギレ的回答なのは認めるけれど、冬華さんも冬華さんでこれは逆ギレなんじゃないだろうか。


「まぁ……、冬華さんがそういうなら、いいんですけど……」


 こうなってくると事の発端は何だったか思い出せない。

 確か書いた小説を人に見せるとかどうとかって話だったような気がするのだけど、……読ませてくれるんだよな? その、……えっちなことでもなんでも命令できる権利で。


 確認してみると冬華さんは顔を赤くして「えっ、えっちなことじゃなくてもいいっていうんならね!?」とまたもや逆ギレだ。

 お世辞にも大きいとは言えない胸と原稿用紙を見比べて、それでも少しは悩むべきなのかもしれないけど頷く。


「それほど興味も湧きませんし」


 べしんっ、と久しぶりに良い音を立てて原稿用紙で殴られた。


「好きに読めばいいよ!」


 どうやらそれが書き終えた原稿の束らしい。僕が受験勉強に精を出している間に冬華さんは冬華さんでシャーペンの芯を大量に浪費させたのだろう、ごみ箱の中も悲惨なことながら机の上の原稿もすごい状態だ。呆れ交じりに原稿を受け取ろうとすると慌てて冬華さんは手を引っ込める。


「まだっ……まだだから、書き終わったら、ね……? ちょっと気持ち先行で進めちゃったから、正直ひと様に見せられる文章じゃないっていうかっ……清書しなきゃ、葉流君にはきっと読めないからっ……」


 確かに、殴り書きされた文字たちはどこぞの文豪よろしく、うら若き乙女が書いたものとは思えないほどにあらぶっている。


 冬華さんの字が達筆なのは今に始まったことじゃないのだけど、まぁ、いいか。そもそも冬華さんの原稿を読ませて欲しいというのもここに来る口実に過ぎない。僕としてはそれで冬華さんとの繋がりが出来るのならそれでいいのだし、元々、有ってないような繋がりだったのだからそれに比べれば随分とマシだ。

 ただ、冬華さんは少しだけ考え込み、ふと笑う。


「でも、一つ交換条件出してもいいかな」

「条件……、ですか?」

「そ。もしも君が、あり得ない話かもしれないけれど、何か物語を書く気になったら……、必ず、それを書く事。……書き記したい言葉が出来たのなら、ちゃんと形にすることーー。……まっ、無理だとは思うけど、おばあさまと私との約束。果たしてくれると嬉しいなっ?」

「そんな約束……、あってないようなものじゃないですか」

「けど、そんな日が来るって私は信じてる。だから、受けて?」


 祖母と僕との間で果たせなかった約束。


 何か、面白い話をして欲しいというお願いをまさか冬華さんが覚えてるとは思わなかった。ただ、冬華さんの原稿と天秤にかけるには些か面倒すぎる願いかも知れないけれど、それが冬華さんとの繋がりだっていうなら、それも悪くない。


「分かりました。約束します。——そんな日が来たら、ですけどね?」

「うむ?」


 そうやって冬華さんは笑う。

 きっとこれで僕らは元々あったように話をすることが出来る。そう思った。

 だけど、これだけは伝えておかなきゃいけない気がして、少しだけ息を吸い込み、一度、体の力を抜いてから告げる。


「僕からも一つ、提案というか、お願いなんですけど。……父の事は、気にしないでください。僕は冬華さんに会いに来てるので」


 貴方を、誰かの代わりにしているわけではないと、ちゃんと伝えておきたかった。


「そもそも、冬華さんはちょっと我が儘なぐらいで丁度いいんですから。最初から最後まで、きっと冬華さんは我が儘な女王様ってのがお似合いです」

「女王様ですか、なるほどなるほど。……それはつまり、私は気高く生きて、気高く死ねって事なのかな?」


 ドキリと、心臓がはねた。


 跳ねてから、事の発端が自分にあることを気付き、息をのんで敢えて重ねて言った。


「最後まで気高く、傲慢に、好き放題やって死んでください? どれだけ横暴な冬華さんでも、冬華さんが病気で死のうが、彗星で死のうが、その時まで、僕は傍にいますから」

「……葉流君……」


 言葉とは裏腹に、僕は冬華さんを看取りたくなんてない。その姿に父の最期を重ねるからじゃなく、冬華さんに逝ってほしくないからだ。

 だから、死という言葉も使ってほしくもなかった。ただ口に出しただけでもそれが一歩、近づいてくるような予感さえするから苦しくなる。


 だけど、もう僕らは向き合わなくてはならない地点まで来ていた。その事実と。

 これまで曖昧にして誤魔化して、在ってないようなものとして扱ってきたその当然の未来から。目を背けてはいけない。


 僕は更に言葉を重ねる。


「僕が、冬華さんを笑わせてあげますから」

「おばあ様のお願いは叶えられなかったのに?」

「だからこそ、今度は必ず」


 守りたいって思うんです。冬華さんの事を。

 そう告げると冬華さんは笑い、零れ落ちる涙を袖で隠した。


「なら、私が死ぬまで傍にいなさい。葉流くん。私も、君が逝く時まで傍にいてあげるから」


 抱きしめた原稿用紙を強く握りながら、くしゃくしゃの笑顔を、僕に向ける。


 ――半年後の、もしかしなくても訪れるその最期の時を、共に迎えようと。


 なんの制約もない、小指で交わす約束よりも儚い、ただの口約束だった。きっと果たされることもないであろう、 愚かな願望だった。

 僕には頷くしかできない。

 この人の病気を治すことも出来なければ、不安を取り除いてあげることも出来なかった。


 けれど、その時を約束する。


「仕方がないので、何があっても冬華さんの隣にいてあげますよ」


 少しだけ、意地を張って。


 そんな僕に冬華さんは黙って微笑み、開かれたままだった遮光カーテンの向こう側を見つめた。

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