(1-5) 静かな始まりと終わり

 いつだって冬休みの始まりは夏休みに比べれば静かな物だ。けれど今回は特別静かなようにも思える。

 静まり返った病院の廊下で長椅子に腰かけ、いつもなら何処からともなく聞こえてくるであろうナースコールも先ほどから鳴っていない。もしかすると僕が聞き逃しているだけかもしれない、パタパタと足早に通り過ぎていく看護師さんの姿を見送り、ただ茫然と足元を見つめている。


 母はお葬式の段取りに追われ、僕も残された荷物をまとめて病室を引き払う段取りをつけなきゃいけないのに、気持ちが体についてこない。


 だって、そうだ。もう夜中だ。時計の針は0時を回り、普通の人たちは眠りについている。冬華さんだってきっと、寝てる。

 だからこんな夜中にベットの周りを片付けるとか、非常識にも程がある。


「…………」


 大丈夫、平気だ。僕は平気。分かり切ってたことだ。


 祖母がここに入院するようになってから。母が病状について何も教えようとはしなかったことから。それがそう遠くない未来だってことは分かってたし覚悟もしていた。舞花に言われるまでもなく、これを受け止める準備は出来てたんだ。


 ぼんやりと自分の足元を見ているようで見えていない。自分が何を見ているのかも分からない程に疲れている。

 そう、疲れてるんだ。きっと。僕は、いろいろあったから、今日も。


 冬休みだからって朝は寝ぼけてなかなか起きられず、昼過ぎに図書館に寄ってから病院に来ることになった。案の定、冬華さんには本が違うと突き返され、「良い運動になるじゃろう」だなんて祖母にまで言われてもうひとっ走りする羽目になり、戻ってきたら戻ってきたで「外の空気が吸いたい」とかいう冬華さんの我が儘に付き添う形で中庭を散歩させられた。

 思えば、あれは冬華さんなりの気遣いで、おばあちゃんから僕を部屋から連れ出すようにとかなんとか言われていたのかもしれない。

 甘えてくれたってよかったのに、なんてのは身勝手すぎるか。


 今更何を考えたところで何も変わらないのに、ぐるぐると妙に冷静な頭が思考をやめない。


 後悔してるのか……? そう思ったところで一体なにをしてあげられた訳でもない事実が気持ちを静めていく。

 まだ、泣き疲れて眠ってしまった方が楽だろうに、自虐的な想いも感情を突き動かすにはほどほど足りなかった。


「風邪ひくよ」


 ふと、左側に人影が座り込む。


 そこでようやく自分にカーディガンをかけてくれたことに気が付いて、「どうも……」と気のない返事を返し冬華さんは浅くため息をついた。右肩で一つにまとめられた髪が妙に甘く感じられた。

 トクン、トクンと隣に人が座ったことで意識が外側に向けられ、何処からともなく自分の心臓の音が響いてくる。

 いつも通り、おかしくはない。冷静な自分と何も言わない冬華さん。

 膝に肘をつけて項垂れている僕とは対照的に壁に頭をつけて何処か天井の先を見上げているようだった。


 別れは辛いことじゃない。だってこれは必然だ。

 どんな理由があったとしても人は死ぬし、別れの数で言うならば「置いて逝く側」の方がきっと辛かったんだ。

 だから僕は悲しくなんてない。大丈夫だと、言い聞かせた。


「眠れないんだ」


 独り言のように冬華さんがつぶやく。

 それが僕への問いかけなのかそれとも冬華さん自身のことを言っているのか僕には分からなくて「眠たいと思えませんね」僕自身のことで返した。


「どうせ今夜はやらなきゃいけないこと沢山ありますし、明日もきっと……、……だから眠くないならそれはそれで構わないです。母さんも忙しそうだし」

「そっか」


 天井を見上げる冬華さんと、床に視線を落とす僕。

 お互いに何か話したいわけでもないけれど、黙っているのもなんだか辛い。


「ばあちゃんは、……彗星アレが落ちてくるまでは死ねないって、ニュースが流れたとき言ってたんです」


 時間が止まったかのように、世界が静まり返った瞬間。僕は「エープリルフールにしたって季節外れだよね」とかなんとか言おうとして、ばあちゃんはそれより先に「どうせ、落ちてこんよ」と笑ったんだ。

 あの時にはもう、自分がそう長くないのを知ってたのかもしれない。まだ入院する前の、自宅での出来事だ。


「入院してからも時々は空を見て、ああ、まだそこにおるんだねぇって。……なんだかまるで、それが……」


 命を刈り取る死神みたいに。見えていたのかもしれない。

 思っても、口には出せなかった。ばあちゃんに彗星の事を言われても「どうせ外れるんでしょ」って話を逸らすことしか出来なかった。向かい合うのが、怖かったんだ。ばあちゃんの、死と。死を間近に感じていた、ばあちゃんと。


「すみません……」


 こんな話を冬華さんにしたところでどうしようもないのに。

 ぽつぽつと語りだしてしまった自分を恥じた。本当は分かってる。こんなところにいたって何にもならないことぐらい。

 だけど、一人にはなりたくなかった。誰かの存在を、例え、僕に話しかけてくれなくとも。そこに誰かがいるのを感じていないと、駄目になりそうだったから。


「大丈夫だよ。……慣れない方が良いもん、こういうの」


 相変わらず言葉が足りないんだよなぁ、冬華さんは。なんて思いながらもそれでも言いたいことは伝わるんだから、この人の事は本当に苦手だ。


「……ねぇ、私の原稿おはなし、読んでみる?」


 冬華さんは左手で持ってきていた原稿用紙の束をぱさっと自分の膝の上に置いて、僕を覗き込んだ。

 無地の、薄ピンクのパジャマの上でそれらは薄明かりに照らされて文字はぼやけているけれど、読めないほどじゃない。


「……読みます」

「……うん」


 気晴らしになるとは思わない。ただ単純に他のことを考えていたかった。

 祖母の死から目を背け、当たり前の現実から逃げ出したかった。

 僕が、駄目にならないように。


 父が、そうなったときのようにどうしようもなく折れてしまわないように。ちっとも大人になれていない僕なりの足掻きでしかない。それでも受け取った原稿の上に視線を落とす。女の子の字というにはあまりにも達筆すぎる筆跡で言葉は綴り出されていて、ぎこちなく、その言葉を拾う。特徴のある、味のある字。言葉。連なり。そうして次第に転がり落ちるように、流れ込むように言葉は僕の中へと入ってきて、そのまま身を任せ、物語をすくっていく。決してのめり込んでいるわけじゃない。他人事のようにそれらの景色をなぞって、捲って、手をとめれば勝手に浮かんでくる違う景色を塗りつぶすかのように僕は原稿用紙を握りしめた。冬華さんの物語で、頭の中を埋め尽くそうとした。


 ……文字が、滲んで読めなくなる。


 ぽたぽたとこぼれた涙から原稿を守るように冬華さんに押し付けた。顔を手で覆う。これ以上、頭の中を何かで埋め尽くすのは不可能だった。次から次へと、祖母との思い出が、よみがえってきてしまうから。


「凄いですねっ……おもしろいです……つい涙がこぼれるぐらい……感動的なお話だと思います……」


 ぐしゃぐしゃになりながらも言葉を伝え、鼻水を啜り上げる。めちゃくちゃかっこ悪い。めちゃくちゃ子供っぽい。

 そんな風になりたくなくて、ならないぞって何処かで心を固くしていたはずなのに、歯止めはもう聞かなくなっていた。

 そんな僕の頭に冬華さんはそっと手をまわして優しく包み込んでくれる。

 甘い、シャンプーの香りが鼻先をくすぐっていく。気恥ずかしさよりも甘えたい気持ちがそれを上回った。誘われるようにして胸元に顔をうずめ、悲鳴のような泣き声は、自分のものだとは思えなかった。きっとそれは非常識な、はた迷惑な叫び声だった。


「……お父さん、作家さんだったんだってね。……私がこういうことしてるの知ったからか、おばあちゃん、いろいろ話してくれた」


 泣きつかれ、ぐずるようになった僕におとぎ話でも聞いて聞かせるように彼女は告げた。


「葉流君も、お父さんの書くお話が大好きだったって。……楽しそうに話してくれたよ」


 その声は湿気を帯びたように震え、けれど零れ落ちそうになるそれをなんとか抑え込むかのように、落ち着いた素振りで、言葉を紡ぐ。


「……私も……悲しいわ……?」


 震える声に吸い寄せられるようにして顔を上げ、お互いに大人ぶって必死にそれ以上涙を流さないように庇い合った。

 うるんで大きく揺らいだ瞳はとても綺麗で、そこに映る僕の姿はなんだかおかしくて。でも、笑ってしまえばまた泣き出してしまいそうで。

 鼻の奥で息をするように、こみ上げてくる気持ちを奥へと押し込んで。

 いつの間にか日差しが僕らを照らし始めるまで、廊下で一晩を過ごした。


 翌朝、いつの間にか眠り込んでいた僕の隣には彼女の姿はなく。肩に掛けられたカーディガンだけが彼女の存在を物語ってくれているかのようだった。

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