第6話 街に舞い散るのは雪と

 五階のレストランはディナータイムのオープンの看板を出したところだった。

 レストランに勤める大川咲子おおかわさきこは、仕込みも準備も終えて、次のシフトのバイトの子に引き継ぎをしようとしていた。

 咲子は、この下のショッピングセンターで課長をしている夫の紹介でこのレストランに勤めだした。子供がいるので遅番はできないが、子育てにも理解のある職場で実に働きやすく、楽しい十年だった。

 その楽しい職場を紹介してくれた夫と、今日離婚することになっている。

 五階の窓から街を見下ろすと、すこしだけ市役所の屋根が見える。今頃、夫はあそこで書類を提出している頃だ。

「ふう」

 つい、ため息が出てしまった。


「すみません、これ、使えますか?」

 若い女性の声が聞こえて入り口を振り返ると、バイトの子が若い男女に声をかけられていた。

「ええ、ご利用いただけます。こちらへどうぞ」

 男女は窓辺の席に案内された。

 咲子は余計なことを考えないように頭を軽く振ると、二人分の水とメニュー表を持ってテーブルへ向かった。


「いらっしゃいませ」

 二人それぞれに水を出すと、メニュー表を開いて渡した。

 女性は何やら大きな紙袋を横に置いている。

 二人はなんともぎこちない様子でメニューを見始めた。

 ――初デートかしら?

 何だか、今日夫婦生活に終わりを告げる自分が給仕するのは、縁起が悪い気がして申し訳ない気分になった。

「ご注文が決まりましたら、ベルでお呼びください」



「あの、名前、聞いていいですか?」

 注文を済ませるなり、小百合が上目遣いで言った。

「ああ、そういえば! す、すみません名乗りもせずにこんな……」

「私は近藤小百合です」

「あ、え、遠藤大です」

 お互いに名乗って、ぺこりと頭を下げる。少しして、小百合がくすっと笑った。

「遠藤さん? ふふ。ああ、ごめんなさい。私、近いに藤で近藤なんです。遠藤さんが遠いに藤だったら、遠いと近いで反対だなって思って」

「あ、本当ですね。遠いに藤ですよ」

「へえ、面白い偶然。私の名前、小さい百合って書いてさゆりなんです」

「あ、俺の名前は大きいで、だいです」

「ふふ、名前も反対ですね」

「あはは、本当だ、すごい偶然ですね!」

 大は、小百合の横の大きな紙袋を見た。中には、さっき下の店で買った白いニットポンチョが入っている。

「あ、あの、白、好きなんですか? 俺が汚したコートも白かったし……」

「え? ああ。いえ、そういうわけじゃないんですけど」

「はあ」

「さっき公園で、真っ白な可愛い女の子を見たからかも」

「あっそれ、もしかして銅像の台座に座ってた子ですか?」

「あ、そうそう! すごく綺麗な子だったから、影響されちゃって」

 照れたように笑う小百合を、大は可愛いなと思った。

「あ、あの、クリーニングが終わったら、また、あの……一緒にご飯食べてくれませんか? 今度は俺がおごるので」

 顔を真っ赤にして言う大を、小百合は可愛い人だなと思った。

「いいですよ」

「本当ですか?」

 大が喜んで声を上げたところで、料理が運ばれてきた。

 二人はにっこり笑って、揃って「いただきます」と言った。



 結愛は、自宅で電子ピアノの前に座り、ヘッドフォンを持っていた。

 練習しなきゃいけないのに、どうしても鍵盤に触れる気になれない。

 気付けば、涙がボロボロとこぼれていた。

 キッチンもリビングも、昨日と全く同じ景色なのに、もうまるで異世界になってしまったように見えた。

 昨日までの、かろうじてでも、あたたかな家は、もう冷えきって、結愛の指を凍てつかせてしまった。


「いやだよ。ピアノなんかもう弾かなくていいから、前のパパとママに戻ってよ」


 思わず口にだして言ったとき、窓を何かがこんこんと叩いた。

 驚いてそちらを見ると、なんとスズメがベランダにいて、窓をくちばしで叩いていた。

 駆け寄ると、スズメはすぐに飛んでいってしまった。

 飛び立ったスズメを目で追うと、大粒の雪がふわふわと、薄暗くなってきた空から舞い降りてきた。

 結愛は、雪に招かれるように窓を開けた。

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