我が愛しの化け物へ

insane or innocent ◆４

　誰も居ない所へ行きたい。

　膝から力が抜けて、思わず目の前のシーツに縋りついた。

　視界が歪んでる。上半身をベッドにもたれさせて頭を埋（うず）める。確認しなくても、指先まで冷え切っているのを自覚していた。耳元で砂が擦れるような雑音が響いて、うまく身体が動かない。

　寒い。

　頭が痛い。

　気持ち悪い。

　胃の中を好き勝手に掻き回されてるみたいに、息つくごとに気持ち悪さが湧いてくる。じっとしていても全然治る気配はなく、自分の荒い息だけがやけに耳についた。

　今立ったら吐く。間違いなく吐く。

　というか、そもそも立てる気がしない。実際無理に立とうとして、こうなってる。

　床の冷たさが崩した膝から伝わってくる。それがさらに悪寒を煽って、小刻みに身体が震えた。なのに、起き上がる気力もない。

　せめてこの吐き気が治まるまでは、耐えきるしかない。

　シーツを掻きむしりながら、薄い空気を求めて喘ぐ。

　だから、軽症のうちに済ませたかったのに。

　なんとなくわかってた。ろくに眠れそうにないことも、悪化することも。

　元々人が近くに居ると、安心できない性分だ。ただでさえそうなのに、こんな部屋に居たままじゃ、休めるもんも休めない。

　だから、早く出ていきたかったのに。これじゃもう、動けそうにない。

　うっすらと開けた視界は、他人のものかと思うくらい現実味がなかった。薄暗くて狭まっている景色に、まともに目が機能してるのかもわからない。

　目と鼻の先にあるはずの扉が、やけに遠くて。その先に行くのなんて、なおさら。

　……無理だ。

　何をする気力も湧いてこなくて、目を閉じる。息苦しい。しんどい。

　誰も居ない所へ行きたい。

　なのに、どこにも行けそうにない。

　せめてどうか、ほっといて欲しい。

　誰にも見られたくない。認識されたくない。取り繕うだけの余裕が無い。自分のことで手一杯だ。

　治ったらまた頑張るから、今は休ませて。

　一人にして。

　誰も、来ないで。

　◆

「……わーお」

　ドアノブが回る音が聞こえて、閉じていた目をゆっくりと開ける。

　いつの間にか床に転がっていた。無意識で引きずり下ろした掛布が頭の上にかかっていて、視界が覆われてる。床はとっくに体温が移ってるみたいで、冷たくはなかった。硬いだけだ。

　どのくらい経ったんだろう。わからない。

　気分は変わらず最悪だ。

「やんちゃしてんね」

　すぐ傍で聞こえた声に、身体が強ばる。

　近い。

「……だれ」

　喉から出た声はからからに掠れていて、我ながら酷く聞き取りにくかった。

　かたりと何かを置くような音がする。

　何をしてるのか気になって身体を起こそうとすると、固まった関節が軋んだ。そんな動作すらいちいちぎこちなくて、信じられないくらいだるい。

「はいはいケイシーさんですよ。ご機嫌いかが？　麗しくはなさそうね」

　被った掛布をまくりあげて見上げると、開けた視界の中に、しばらくぶりの顔があった。

　ケイシー。たびたび顔を合わせる昔馴染みの女性が、すぐ傍で腕を組んで立っていた。

　なんで、ここに居るんだろう。

　一瞬の違和感の後に、あることを思い出して腑に落ちる。ケイシーはヤブの妹だ。医者ではないけど、助手としてなら時々手伝いに来ていた。居ても別に不思議じゃない。

「……居たっけ」

「今来たんですよ。うちの馬鹿兄貴が連絡寄越さないからさー、ったく気ぃ回らんのだからなんかあったら呼べっつってんのに。生活補助もまともに出来ん癖に横着ばっかしよる。すまんね遅れて」

「別に待ってない……」

「寂しいこと言うじゃん」

　軽い物言いで返しながら、ケイシーはいつものように肩を竦める。

「意識はあるのね。最悪ぶっ倒れたままでいると思ってたけど。よかったよかった」

　にこりと口の端をあげる様子は、いつもの笑みと変わらない。仕草も態度も全部、なにも含むところはないけど。

　あまり、見ていたくはなかった。

「てかなしてアルちゃん床に落ちとるん？　横になりなよ」

　その言葉に口を引き結ぶ。俺だって、好きで床に転がってたわけじゃない。知らない内に寝てただけ。

　なのに身体は重いままだし、視界もやっぱりどこか変だ。あげく、嫌な夢まで見た。

　ケイシーが膝を折り目線を合わせてきて、思わず目を逸らす。落ち着かない。居心地が悪い。

　ああ、たぶん今、駄目なやつだ。

　景色がだぶる。背景の病室が、いつかの記憶と。

　──やっぱり、早く出ていけばよかった。

「しんどそうね」

　頭が痛い。

「……別に」

「バレバレの嘘つくなって。お顔真っ青よ」

　寒い。

「へいき」

「超強がるじゃん。というかひっさびさに見たわ、こんな余裕のないアルちゃん。小生意気な口閉じると可愛げあるね」

　息が苦しい。

「……い、からもう、たのむから、ほっといて」

　喋るのが、苦痛だ。

　今自分が、どんな顔をしているのかもわからない。身体を起こしているだけで精一杯で、外面まで取り繕う余裕はなかった。

　うつむいて息を吐いた瞬間、急に額に冷たさを感じて、ぞわりとした。

　反射的に振り抜いた手が、何かに当たって乾いた音を立てる。とっさに出たのが右手だったせいで、すこし遅れて傷口が疼いた。

　顔を上げた先で、目を丸くしたケイシーの手が、中途半端な位置で止まってる。その手の甲は、少し赤みを帯びていて。

「な、に」

　速くなっていく心臓の音が、うるさい。思わず下がった背中が、ベッドに食い込む。

　目の前で「あー」と呟いたケイシーは、少し眉尻を下げた。

「久々だから忘れてたわ、すまん。まだそれ直ってないのね」

「……」

「熱測るだけ。すまんね、驚かせて。……ちょっとだけ我慢して。もっかい触るよ」

　断りの後にまた額に触れてきた手は、ひんやりと冷たくて。

　ぶわりと鳥肌がたって、目を伏せる。目の前にいるのはケイシーだ。わかってる。なのに、抑えがきかない。

　ああ、だめだ。いつもはこれ程じゃないのに。

　生温かさを感じないだけましなはずなのに、素肌に伝わる皮膚の感触が、驚く程に不快だった。

「うっわ、ありえないくらい熱いんだけど。っと、大丈夫？　目ぇ虚ろだぜ？」

「……見んな」

「無茶言いよる……ハイハイ。嫌ならさっさと治そーね」

　ケイシーは一度立ち上がると、枕元の方に移動する。それを確認する気力もなく、ベッドに寄りかかったまま、ぼんやりと下を向いていた。

　なんで、ほっといてくれないんだろう。

「ほら、お薬飲んで寝よ」

　声とともに視界に割り込んで来たのは、トレーに乗った木のコップと、薬包。

　ちらっと視線を上げれば、ケイシーが膝を着いてそれを差し出している。

　なんで、俺に構うんだろう。

「……いらない」

「ちゃんと変なの入っとらんか確認して来たよ。兄貴はまー、何しでかすかわからんけど、あたしなら多少信用出来るでしょ」

「いらない」

「なして？」

　不満げに口を尖らせたケイシーが、首を傾げる。

「アルちゃんのそれは、ちゃんと休めば治る類の病気。お薬もあるし、飲めば早く治るのに。わざわざ苦痛長引かせたいの？　その分ここに居ることになるけど」

　長引かせたいわけないだろ。

　こんなところ、長居したくない。でも薬だって飲みたくない。

「アルちゃんの希望通りほっといてどーにかなるなら、いくらでもほっときますけど。実際逆でしょ。どーにかなるどころじゃないじゃん。治す気ある？」

　トレーをずいと押し付けられて、コップの中の水が揺れる。それを見ていると、やがて凪いだ水面に、歪んだ顔が映っていた。

「飲もーぜアルちゃん。これ以上悪化したら最悪死ぬよ」

　なんで。

　だからなんなの。

　ほっといて、悪化して、もしそのまま、俺が死んだら。

「……それで、」

　あんたが、何か困んの。

　言葉が口からついて出た瞬間、空気が凍ったような気がした。

　静まり返った部屋に顔を上げると、ケイシーが顔をしかめている。それを見て、未だ荒い息が漏れる口を、片手で覆う。

　駄目だ。変なこと、口走ったのかもしれない。

　でも、どこが変なんだっけ。

　何を言って良くて、何が駄目なんだっけ。

　わからない。……頭が、痛くて。

　薬なんて飲みたくない。

　例え治らなくたって、悪化したって、死んだって、結局は全部自己責任だ。ケイシーは関係ない。ケイシーが食い下がる理由もない。別に何も困らない。

　なら、ほっといてくれていいだろ。なんでしないの。

　どこか、間違ってるんだっけ。

　どこが、間違ってるんだっけ。

「『生きても死んでも同じように地獄なら、知っている地獄の方がマシだ』」

　不意に聞こえた言葉には、どことなく覚えがある気がした。

　ケイシーが薬包を弄り、折りたたまれていたその紙を開いていく。

「ねえ、昔自分でそう言ってたでしょ。落ち着いて考えてみなよ。今はあの時ほど底辺じゃない。なのに今更投げ出すん？　後悔すんのはそっちだぜ？」

　開かれた紙の上に白い粉が乗っている。

　その紙を軽く縦に折ると、ケイシーは薬をトントンと中央にまとめた。

「今と昔は違う。この薬は害にはならない。楽になるだけ。……楽になっていいよ、アルテ」

　ほら、手どけて。

　言いながら薬包を摘む姿に、少し躊躇う。

　昔。あれは、昔。

　じゃあ、今は。

　見下ろした自分の右腕には、包帯がぐるぐるに巻かれている。投げ出されたその腕は、もう小さくて非力だった、子供の腕じゃない。

　それなら大丈夫、なんだろうか。

　ああでも、ひとつ訂正。非力は非力のままだ。筋肉ねぇし。

「……のん、だら、出てって、くれんの」

　ぽつりと呟くと、ケイシーは頷いた。

「そーだね、出てってやるよ。ついでにしばらく誰も入ってこれんように、見張っといてやる。安心して休みな」

「…………ん」

　少し迷ってから、左手を下ろして口を開く。ケイシーの手が伸びて、口の中に苦味がなだれ込んできた。

　そのまま差し出された水を飲み下すと、溶け始めた粉が喉を滑り、その下へと落ちていく。それがぐるぐると腹の中で渦巻いて。

　……ああ本当に、久しぶりの感覚だ。

「すまん大丈夫？　吐きそ？」

　身体が異物を拒んでる。不快感が込み上げて、それを押し出そうとしてるみたいだった。

　喉が詰まって、うごめいて、胃がせり上がって来るようで。それでも、だいぶ薄れてきているこの感覚は。

　確かに昔ほどじゃ、ないか。

「へ、き……」

「いや、明らか平気って様子じゃないし……あーもー、嘘つくくらいなら無言でいーよ。だるいでしょ」

　平気だって。嘘じゃない。

　どうしようもなく気持ち悪いけど、これはきっと吐くまでいかない。

　時間が経ったから、忘れかけてるのかもしれない。慣らせば慣れる範囲だ。繰り返せばそのうちなくなる。どうせ精神的なもんだし。

　大丈夫。俺は昔から、──嘘をつき始めるより、ずっと前から。

　慣れるのと我慢は、得意だから。

　落ち着くのを待って「寝る」と言うと、ケイシーは「了解」と返事をした。

　身体はものすごく重かったけど、動かないってほどじゃない。「手ぇ貸そか」と言われたのを断ってベッドに上がると、ケイシーは呆れ顔で深々とため息をついた。

「ほんっと、面倒な子やね」

　今更だ、そんなの。

　ぼうっと天井を見上げながら、ゆるゆると目を閉じた。

　誰に言われなくたって、俺が一番よく知ってるよ。