ep.18◇とある少女の回顧録 - 幻想
ふわふわと、今までとは違う空気が身体を包んでいた。
近いのにどこか遠くて、鮮明なのに、曖昧で。
これはいったいどちらだろう。現実なのか、夢なのか。
青く広がる空をぼんやりと眺めていると、横から知らない声が聞こえてくる。
顔を向けると
見覚えがある気もするし、無い気もする。
名前、なんだっただろう。思い出せない。
「*****」
声もどこかぼやけてて、全然上手く聞き取れない。
でも何も分からないはずなのに、雰囲気はぽかぽかと暖かかった。
ここはなんだか、陽だまりの中みたいだ。暖かで優しい夢の中。
ああ、ずっとここに居たいな。もうあそこには戻りたくない。
だって現実は、とてもとても痛いもの。
なのに私は彼に向かって、「帰ってください」って繰り返すの。そんなこと、言いたくなんてないのに。
口を閉じたくても、閉じられなくて。いつかの私は同じことしか話さない。
あ、やだ。まだ行かないで。ここに居て。
遠ざかる背中に言いたくても、いつかの私が言わないから、心の中で響くだけ。
見えなくなったその姿に、ため息が二つ重なった。
──帰っちゃった。
◇
ぼうっと目を開けると、至近距離で布が動いていた。
床に頬をつけたまま寝ぼけ眼でそれを見て、何か分からず瞬きをする。数秒後にはこの布が服で、それを着ている誰かが目の前に居るのだと分かったのだけど。
横向きの身体を起こそうと身じろぐと、途端に全身を走る苦痛に、小さく声が漏れた。
「えあっ、へ、平気です?」
直後、真上から声が降ってくる。
一拍置いて緩慢に見上げると、そこにいた少女と目が合った。十代半ばくらいの、同年代の。
……同年代?
どうしてそう思ったのだろう。私はまだ、十二なのに。
「あ、ご、ごめんね! 平気なわけないですね! 痛いね!」
彼女はわたわたと焦りながら、その手には真新しい包帯が握られていて。
それを見た途端、背中と右腕がじくじくと疼き出す。目覚める前に主人に受けた仕打ちを思い出し、ああと現状を理解した。
いつも治療をしてくれていたのは、この人か。
「ごめんね。助けられないけど、これ以上傷つけもしないから。どうかゆっくり休んでてください」
そう言いながら眉尻を下げる彼女は、気弱そうな顔で微かに笑った。
『ああ、勿体ない。顔のつくりは美しいのに。この火傷さえなけりゃ、もっと高く売れるのに』
奴隷商は、私の顔を見るたび嘆いていた。
『こんな醜いものに、名など過ぎた代物だろう』
私を買った主人は、そう言って私を嗤った。
顔を損なったまま売られた私は、長い間奴隷市の売れ残りだった。
日ごと
しばらく後に私を買った商家の子息からも、向けられる視線は例外ではなかった。
買われた私の役割は、ただ主人のなぶり物で。彼の気分次第で犯されて、殴られて、裂かれるだけの存在でしかなくて。
それでも全てが些事に思えるほどに、長い間私の心には何も響かなかった。
『要らない』と母に烙印を押されたその時に、幼少の狭い世界は壊れ果て、跡形もなく崩れてしまったから。
だから。
物に等しい私に同情するような彼女の眼差しは、とてもおかしなものに見えた。
「ごめんね、ただの自己満足なんです」
何故奴隷の私を気にかけるのかと問いかけた時、彼女は眉を落として謝った。
痛そうで見てられないから、見て見ぬふりは寝覚めが悪いから、つい声をかけてしまうのだと。
「でも、私は貴女の味方にはなれないし、助けることもできない。自分の身が一番可愛くて、あの人がどれだけ横暴に見えても従う他ない。なのに、勝手な同情心と罪悪感から貴女に優しい言葉をかけてるだけ。ただそれだけなんです」
そう言って、彼女は私と目が合うと自嘲を零した。
「卑怯ですよね」
商家の下働きである彼女は、私に
ずるい人だと思った。
だけど、どこか憎めない人だった。
「名前はなんです?」
いつかそう聞いてきた彼女に、私は何も返せなかった。
だって、名前はもうないの。主人が言うには、焼け爛れたこの顔に名前があるのは、贅沢なんだって。
『イヴ』は死んだ。
あの日実の母に顔を炙られて、首を絞められた時に。
今の私はただ、奴隷という名の残骸だ。人の形をしているだけの物でしかない。
私が何も言わないことを汲んだのか、それ以上は聞かれなかった。そしてまた、彼女も名乗らなかった。
だけど互いに名無しの状態で対面する時間は、思った以上に立場を希薄にさせ、いっそう彼女を身近に感じさせた。
彼女と会う頻度は二日か三日に一度だったり、連日だったり。
彼女が傷の箇所に包帯を巻く手つきは、皮膚に軟膏を塗り込む動作は、丁寧で迅速だ。治療だけを早々に終わらせて、しばらくその場で一緒に過ごすことが多々あった。
だからと言って会話が多いわけではない。ただつかの間の休息を噛み締めているかのような、そんな緩やかな空気感。
彼女から時々出る言葉は、私を誰かと重ねているようで。それが気にかける本当の理由なのかなんて、思ったりもしたけれど。
「ごめんね、ごめん」
謝る言葉ばかりが多く、自分のことをあまり語ろうとしない彼女のことは、最後までよく分からないままだった。
服を剥がれる。首を絞められる。身体を拓かれる。愉悦と退屈が混ざったような目に見下ろされて、恐怖に身体が竦み上がる。
初めの頃は諦めの方が強かったのに、ここになって出てくるのは、やめて、助けて、そんな制止の言葉。
だけど全てが心の中で響くばかりで、口から出てくることはない。
『力がいるんです。何かを変えるためには、力が』
いつかの弱々しい言葉が蘇る。
ああ、そうだね。その通り。
立場も弱く年若く、権力も財力も知力もなく、単純な腕力にさえ劣っている私たちは、何も変えることなどできない。
助けは来ない。終わりは見えない。状況は緩和することなく平行線を辿ったまま、傷と痛みが増えるばかりで。
『弱くてごめんね』
あなたはずるいね。
でも、分かるよ。その気持ちも。
無力のまま歯向かったって、上手くいく保証はどこにもない。失うものの多さばかりが頭をよぎって、恐怖が心を支配する。
赤の他人のために、そんなことまで出来ないよね。
奴隷扱いしないでくれてありがとう。いいよ、大丈夫。
『毎回こんなふうにされて、死にたくなってきませんか』
あの日悲しげに問われた言葉に、素直に頷けなかった私は。
──自分で思っていたよりずっと、生き汚いみたいだから。
◇
別れの言葉もないままに、いつの頃からか彼女は居なくなってしまっていた。
その理由さえも分からないのは、聞ける相手がいないから。奴隷として買い上げられた立場が、何一つ変わってはいないから。
数ヶ月もすれば主人は飽きて、鬱憤の溜まった時に気まぐれに殴られるくらいになった。治療だけは変わらずされたけど、その相手はもう、あの気弱だった彼女ではない。
名も分からないままに消えてしまった彼女とは、それ以降会うことは無かった。
その日苛立った主人に放り込まれた倉庫は、埃まみれで物に溢れていた。
少し身体を動かすだけで、背中の打ち身が鈍く痛む。巻かれた包帯を汚しながらも立ち上がり、ふらふらと部屋の奥へ歩き出す。
入口から見えない隅で息をつこうとしたそこに、大きな姿見はあった。
掛けられた布を引くと、綺麗に磨かれたその中に、今の自分が映っている。久しぶりに見たそれをぼうっと見やって、いつか投げられた評価を思い出す。
確かにこれは、蔑まれても仕方がない。
服から覗く肌は所々包帯が巻かれ、伸びっぱなしの黒髪は、埃が絡まってぐちゃぐちゃだ。
血の気のない左頬と、変色し一部が盛り上がった右頬が、歪な対比を生んでいる。
鏡越しの自分の目には、生気というものが欠けていた。
鏡の表面に手を当てると、ひんやりとした冷たさが熱を奪っていく。
あの人は、どこに行っちゃたのかな。思いながら彼女の姿を思い出し、目を伏せる。
たった一人、寄り添ってくれる人が居ないだけで、世界はこんなに色がない。
『こんな環境で、どうして貴女は生きていられるの』
いつか問われた彼女の言葉が、頭の中で蘇る。
「……夢が、あるからだよ」
もし、もしもね。誰も傷つけずに、誰からも傷つけられずに、何も考えずに笑えたら。そんな平穏が、ずっと変わらず続くのならば。
過ぎた幸福なんて望まない。退屈で構わない。
ただ穏やかな日常が欲しかった。
あの日からずっと、それだけを夢見ていた。
こんな先の見えない場所に居て、本当にそれは叶うのかな。
膝から力が抜けて、埃まみれの床に倒れ込む。
ぼんやりと不確かな世界に思考が溶けて、全てが曖昧に崩れていく。
視界の端にちらりと映りこんだ何かに視線を向けると、床に小さな絵画が落ちているのが見えた。倉庫の奥にしまわれて、忘れ去られた神様の絵。
「……かみさま」
この地獄はいつか終わりますか。
◇
ふわりと浮かび上がるような意識に、優しく柔らかな空気感と、視界に入り込むアッシュブロンド。
少し間を置いてから、いつかの夢だと気がついた。
包まれた毛布ごと抱き上げられて、足は宙で揺れている。心許なさと微かな振動がだけが身体を伝って、やがてベッドに降ろされる。
それでも不安を感じないのは、今ならその意図が分かるから。
頭に乗せられたあなたの手が、なんだかとても優しくて。その小さな重みを受け止めるだけで、どうしようもなく心が満たされていくのを感じていた。
屈託のない笑みを見ながら、伸ばしたかった手は動いてはくれないけれど。
ねぇ、お願い。お願いだから、ここに居て。あなたはどこにも行かないで。
ひとりぼっちは、もう嫌なの。
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