第2話

 朗らかな日差しに誘われてか、門櫓の衛兵が大きなあくびをする。

 衛兵はあわてて口元を抑えると、少し離れたところに立つ同僚に目を向ける。

 同僚も大きく口を開け、その視線が衛兵に向いた。

 ふたりは自然と苦笑いを浮かべると、肩を小さくすくめて姿勢を正す。

 その視線を遠くに向けると、街道を歩くふたりの人影が近づいてくるのが見えた。

「こんにちは!」

 良く通る明るい声が衛兵の口元を緩ませる。

 手を振る人影に衛兵も手を振って応えた。

「よう! 雀! 久しぶりだな!」

「雀じゃないわ! 『雀蜂』!」

 『雀蜂』は笑みを返しながらそう訂正する。

「どうだい? 東のほうは?」

 もうひとりの衛兵が『雀蜂』に訊ねた。

「こっちよりは穏やかかしら?」

「じゃあ仕事もなかったろ?」

「だからここまで足を延ばしたのよ」

「なるほど。それは良い判断だったが、ちょっと遅かったな」

 衛兵のその言葉に『雀蜂』は足を止め、少しだけ上に向けていた顔を、さらにはっきりと衛兵へと向けた。

「どういうこと?」

「確かにここのところ西の方がきな臭くなっててな」

 もう一人の衛兵が言葉を継いで答える。

「西でオークの野営地が出来つつあるっていう報告がはいって、討伐隊が向かったばかりなんだ」

「それっていつですか?!」

 『雀蜂』に並んで歩いていた、大きな箱笈はこおいを背負った少年が声を上げる。

「ここを出たのが昨日の朝だ」

「あー。『薬屋』の薬なら、ひと稼ぎできただろうな」

「今から追いかけようか?」

 『薬屋』の言葉に『雀蜂』は笑いながら首を横に振った。

「準備が終わったから出発したんでしょ? 追いかけても無駄よね」

「そっかぁ……」

 『雀蜂』の答えに肩を落とす『薬屋』。

 そんな『薬屋』の頭を軽く叩きながら『雀蜂』は笑った。

「そんなに気を落とすことでもないわ。討伐隊がこの街から出たって事は、この街の人手は減ってるってことよ」

「……そっか」

 『雀蜂』の言葉に『薬屋』も頷く。

「大きな仕事は無いかもしれないけど、小さい仕事は多いはず。しかも人手が無いとくれば、小さい仕事も結構割が良くなってるもの。大きい仕事で名前を売るのはやっぱり魅力的だけど、小さい仕事で実績を積み重ねるのも冒険者としては大切よ」

「そうだぞ『薬屋』! さすがねぇちゃんはわかってるな!」

 衛兵が門櫓の上から笑い、さらに大仰に頷きながら言葉を続ける。

「よし、それじゃあ早速小さい仕事をお願いしよう」

「なに?」

 応える『薬屋』を見ながら、衛兵は軽くひざを撫でた。

「古傷が最近また疼いてな」

「それじゃあ薬を調合しておくね! 詰め所に届ければ良い?」

「おう! よろしくな!」

 衛兵と言葉を交わしながら、ふたりはそのままとがめられることも無く、門櫓をくぐり街の中へ。

 門を抜けるとちょっとした広場に出る。

 そこで顔見知った行商人と軽くあいさつを交わしながら、広場を抜けて街の本通りへと足を進める。

 本通りはふたりの入ってきた東門と反対側の西門をつなぐ大通り、自然と人通りも多く、色々なものを扱う店も立ち並んでいた。

「この街はいつきても活気があるわね」

「辺境だけど西の備えだからね」

 『雀蜂』の言葉に『薬屋』も頷く。

 店主とあいさつを交わしながら道を進む。しばらくするとふくよかな体格の威勢のいい女店主に『薬屋』が呼び止められる。

 立ち止まって話し始める『薬屋』。

 そこに近くの店舗から、話し声に誘われるように、それぞれの店の店主らしい人物が集まってくる。

「ごめん、姉さん」

 一通りの話を終えて、待っていた『雀蜂』に走り寄る『薬屋』。

「薬の注文?」

「うん」

 『薬屋』は頷く。

「ちょっと仕入れてくるから先に行ってて」

「わかったわ」

 そのまま二人は別れると、『薬屋』は大通りをまっすぐに、『雀蜂』はしばらく進んでから横道を路地裏へと入っていく。

『雀蜂』は路地裏のさらに狭い枝道へと入り込む。

 表通りとは変わって狭く、でこぼこな道。

 狭い道の両側に、壁のような高い建物が並び、そのせいか日当たりも悪い。

 ただ表通りとは違った、飾らない活気にあふれていた。

 『雀蜂』は走ってきた子供たちにぶつからないように身を避け、上の窓から声をかけてくる体格のいい女性とあいさつを交わしながら、道を進んでいく。

 狭い路地を抜けると表通りとまではいかないまでも、そこそこ広い通りに出た。

 その広い通りを歩いていくと、ひと際大きな建物が見える。

 木材とレンガを組み合わせた建物は四層にも及ぶ高さで、窓にはすべて鎧戸が設えられていた。

 一見するとおおきな宿屋といった感じだ。

 『雀蜂』はその建物に近づいていく。

 そしてその端にたどり着いたとき、その建物の脇から奥へと延びる路地にふと目をむいた。

 その目の先に映ったのはボロ布の塊。

 それはところどころ破け、黒い染みのこびりついたフード付きのマントを頭からすっぽりとかぶり、壁に寄りかかってうずくまる人の姿だった。

 物乞いかな?

 『雀蜂』はそう思ったが、こんなところに? という思いもある。

 物乞いをするなら表通りに近いほうがいいはずだ。

 それをこんな奥まったところの、さらに建物の影の方にうずくまっているなんて。

休むにしても、こんなところは考えにくい。もっと雨風しのげるところがいくらでもある。

 物乞いの縄張り争いに負けた輩かもしれないが、今までにこんなところで物乞いを見た記憶がない。

 ただ物乞いと断じるには『雀蜂』はどこか違和感を感じていた。

 とはいっても、特にかかわりを持つつもりもない。

 『雀蜂』は視線をすぐに戻すと、建物の扉を引いた。

「お久しぶりです」

 良く通る声が建物の中に広がる。

 高い天井に太い柱。

 壁や天井から下がったランプは灯されていないが、高いところにあるいくつもの採光用の窓のおかげで部屋の中は明るい。

 部屋の中には丸いテーブルと椅子が並び、いくつかの席には人の姿があった。

 それぞれが何かを飲んだり談笑したり、思い思いに過ごしているのが見て取れる。

 部屋の一番奥にはカウンターがあり、そこに坊主頭の眼帯の男が見て取れた。

 そこは一見すると酒場だった。

 カウンターの男は『雀蜂』の声に片手を上げる。

「よう! ひとりか? 珍しいな」

「そんなわけないでしょ。後から来るわ」

「だよな。『薬屋』は早速仕事か。忙しいのはいいことだ」

 『雀蜂』は丸テーブルの間を抜け、席についていた幾人かとあいさつを交わしながらカウンターへと向かい、そこで椅子に座った。そして腰につけた鞄から小さな袋を取り出すとカウンターに置く。金属の擦れる小さな音が静かに鳴った。

 眼帯の男は頷くとその袋を受け取りカウンターの下へと仕舞う。

「東はどうだった?」

「こっちに比べれば穏やかね」

「それじゃあ残念だったな」

 男の言葉に『雀蜂』は肩をすくませた。

「門で衛兵から聞いたわ。討伐隊が出たんですってね」

「ああ。ここに残ってるのは殆どが乗り遅れた連中だな」

 そう言いながら男がカップを差し出す。

「残りものには福があるかもよ?」

 『雀蜂』はそういってテーブルの方に身体を少し向けると男が差し出したカップを掲げながら、少し大きな声でそう嘯いた。

 小さな明るい笑い声と共に、テーブルの連中もカップを捧げる。

 『雀蜂』は応えるようにもう一度カップを捧げると、口をつけて傾ける。そして身体をカウンターへと戻した。

「まぁ細かい仕事はあるんでしょ?」

「選り好みしなけりゃな」

「そういうのを地道にこなすのも大切だし、実際、冒険者の本分はそっちよね」

「お前は本当にわかってるなぁ」

 奥の棚を片付けながら男が笑いながら答える。

 『雀蜂』も小さく微笑みながら静かにカップを傾ける。

「あ、そういえば」

 三回ほどカップを傾けてから、『雀蜂』が何かを思い出したように声を上げた。

「さっき外で見慣れない人を見たんだけど?」

「ん? ああ、あいつまだいるのか」

 男は頭を掻きながらそう答えた。

「しってるの」

「ああ、奴も一応冒険者でな」

「冒険者? じゃあなんであんなところに? 中に入ればいいじゃない」

「いや、俺が追い出したんだ」

 男がすこしばつが悪そうに答える。

「えぇ?」

 少し驚いたように聞き返す『雀蜂』。

「どんな輩にも門戸を開くのが冒険者組合なんじゃないの?」

 『雀蜂』のその言葉に男は腕を組んで唸る。

 この建物はこの街の冒険者組合の会館であり男はこの会館の長であった。

 その長が、だれでも受け入れるはずの組合の方針に背いて外の男を会館から追い出した。

 そのことが『雀蜂』には腑に落ちなかった。

 ただ、すぐにそれを非難するような事もしない。

「訳があるのよね?」

「まぁな」

 長は重々しく、しかしそれが喋れることに安堵するように、語り始めた。

「奴は『名無し』って二つ名で知られる冒険者でな」

「『名無し』?」

 『雀蜂』は首をかしげる。

 冒険者は冒険者となるときに今までの名前を捨てる。

 そして冒険者は二つ名を得ることで一人前と見なされる。

 二つ名の無いものは名前の無いものとして扱われるが、その二つ名が『名無し』とは。

 それにもう一つ、『雀蜂』には引っかかることがあった。

「そんな二つ名の冒険者聞いたことがないわ」

 そう、そんな二つ名の冒険者は聞いたことがない。

 二つ名とは大体において冒険を共にした仲間や、その冒険者にかかわった人々、そんな周りの人間が、親しみを込めて、敬意をこめて、あるいは畏怖や恐怖を込めて、場合によっては憎悪を込めて、自然と付けられるものなのだ。

 なので二つ名がある以上、それは多かれ少なかれ人の耳に届くはず。

 そのはずなのに、『雀蜂』はそんな二つ名の冒険者の話を聞いたことがない。

「だろうな」

 長は頷く。

「冒険者の間でつけられた二つ名じゃない。組合の長の間でつけられた二つ名なんだよ」

「長の?」

 組合の長が二つ名をつける。そんなこともないわけではないが、それならそれでその二つ名は冒険者の間に広まるはずだ。

「あいつはな、長いこと冒険者をやってるが、いまだに二つ名を得られない。それで長のあいだでいつしか『名無し』って呼ばれるようになってな」

「長いことってどれぐらいなの?」

「さて、話では十年ほどってことだが。その十年間いろんな街の組合を流れ歩いて、長の間で噂になり、それでついた二つ名が『名無し』だ」

「十年!」

 『雀蜂』は小さな悲鳴にも似た声を上げた。

 『雀蜂』は冒険者になって四年ほどだ。

 初めて二つ名を得たのは冒険者になって一年ほどたった時、その二つ名が馴染んだのはその一年後ぐらい。

 その後の二年は『雀蜂』の二つ名もようやく自分のものになったと実感しながら冒険してきた。

 結構早くに二つ名で呼ばれるようになったと自負してはいるが、それでも十年も二つ名を得られない冒険者は聞いたことがなかった。

 なぜならそんな冒険者は、早々にあきらめて足を洗うか、もしくは死ぬかだからだ。

 それが十年もの間、二つ名の無い冒険者として生きているという。

「何かの間違いなんじゃないの?」

 『雀蜂』の口からは自然とその言葉が漏れた。

 長もその問いが、さも当然とばかりに頷く。

「俺も初めはそう思ったさ。何かの誤解か、もしくは何かの厄介ごとに巻き込まれて、そんな不名誉な二つ名や、変な噂がついてまわってるんじゃないかってな」 

「で?」

「ここに来たのは三か月ほど前だ。俺は他の冒険者同様仕事を斡旋してやった」

「それで?」

 その言葉に長は小さく首を横に振った。

「ありゃ、だめだ」

「だめ?」

 その言葉に今度は小さくうなずく。

「まともに依頼をこなせたためしがない。まぁお使いみたいなのは無難にこなしてくるが、討伐関係はからっきしだ」

「そんなに?」

「駆け出しがひとりで受けるようなのがあるだろ? 腕試しというよりも、ちょっとした自信をつけさせるために斡旋するようなやつだ」

「地下下水道の大ネズミとか、農場の大芋虫を駆除したりするやつ?」

「そうそう、まさにそれだ」

「え? まさか?」

「そのまさかだ」

 長は小さく息を吐きながらうなずいた。

「そんな依頼も満足にこなせない」

「実は癒手ってことは?」

「ないな。癒手なら相当ひどくても仕事はあるし、引く手数多だしな。それにお前の弟の『薬屋』も、直に戦うのは得意じゃなさそうだが、大ネズミぐらいは難なくこなしてただろ?」

「まぁ、そうね」

 大ネズミもまともに倒せないような冒険者、本当にそんなのがいるのだろうか? 

 『雀蜂』は大きく首をひねった。

「でも今まで生き残ってはいるのよね?」

「そう、そうなんだよなぁ」

 長も首をかしげる。

 冒険者にとって生き残ることは最も重要だ。

 生き残っていさえすれば経験を積むことが出来る。

 そしてその経験が糧になっていく。

 しかし『名無し』は十年も生き残っているにもかかわらず、まったく芽が出ない。

 それはあまりにも異常だった。

「危険な依頼は受けてないってことは?」

「それがそんなこともない」

 長の表情がさらに曇る。

「ここに来てからも何度か仲間を組んで、そこそこ厄介な依頼を受けてたんだが……」

「あまり良い結果じゃなさそうね」

「ある意味最悪だ。なにせほとんどが全滅。無論奴を除いてだが」

「ああぁ……」

 『雀蜂』は息を深く吐き出す。

 それは確かに最悪だ。

 一度や二度なら生き残った幸運を羨望させるかもしれない。 

 しかしそれが幾度と続けば、その羨望は容易に疑惑に変わり、あるいは不吉に変わる。

 そんな意図は全くなかったとしてもだ。

 そうなれば一緒に組みたがる者もいなくなるだろう。

 冒険者としてはある意味詰みだ。

「このままじゃ、あいつもまわりも不幸になるだけだ。ここの組合の沽券にだってかかわる」

「だから会館から追い出したのね。冒険者から足を洗わせるために」

「まぁ、そうなんだが」

 そこで長は再び言葉を濁す。

 それはそうだ、足を洗わせるために会館から追い出すなんてことは、他の街の長もやっているだろう。

 それでも未だに冒険者を続けているということは、会館を追い出されたら次の街に行き、また追い出されたら次の街へと転々と渡ってきたのだろうことは想像に易い。

 そうして付いたのが『名無し』の二つ名なのだ。

 何とも言えない息をふたりが吐き出す。

 とその時、その行き場のない息をかき消すかのような明るい声が響く。

「こんにちは! お久しぶりです!」

 その声に『雀蜂』は入口の方に顔を向けると、片手を上げて大きく振る。

 それに気がついた『薬屋』はまわりの人々とあいさつを交わしながら、足早に近づいてきた。

「元気そうだな」

「おかげさまで!」

 『薬屋』は背中の荷を下ろしてカウンターの席に腰を掛けると、腰のポーチから小さな袋を取り出してカウンターに置いた。

「姉弟そろって景気が良いし律儀だな」

 長は笑みを浮かべながら小袋をカウンターの下にしまう。

「材料はそろったの?」

「うん」

 『薬屋』はカップを受け取りながらうなずく。

「値上がりしてたけど、薬を納めるって条件で結構安くしてもらえたよ」

「上手くやってるな」

 長が笑い声をあげる。

「そういえばお前たち、今晩はどこに泊まるんだ?」

「もちろんここにお世話になるつもりだけど、空いているなら」

 『雀蜂』の言葉に長は頷く。

「空いてるぞ。今日は特別に三階を使っていいぞ」

「え! あの湯が沸かせる煙突付きの広い部屋?」

「ああ、そうだ。その部屋だ」

 三階はこの会館でも人気の部屋のある階で、ある程度実力のある冒険者にあてがわれる部屋であった。

「嬉しい! 久しぶりにお湯で身体が洗える! ベッドも広くてふかふかだって話よね! 早速行ってみましょう!」

「あ、ちょっとまってよ!」

 短槍を手に取り階段へと向かう『雀蜂』を、あわててカップの中身を飲み干した『薬屋』が荷物を背負って追いかける。

「まずは湯浴みをして、背中の流しっこをしましょうね。いつもは片方が見張り番だったから。身体を洗ったら、少し奮発して外で食事にしましょう」

「え、いいよ。自分で洗えるよ」

「わたしが流して欲しいし、流したいのよ!」

 そのままふたりは明るい声を上げながら上の階へと上がっていく。

 そしてその明るい声が、外の人物のことなど、湯浴みで流される埃のように、きれいさっぱり記憶の外に流していく。

 きれいさっぱりと。

 

 


 そう、きれいさっぱり忘れていたので、目の前に立つその人物が、件の『名無し』だと気がつくのに、暫し時間がかかったのも無理はない。

 それに目の前に立つその人物が、長の話していた『名無し』の印象と大きく違っていたのも要因であった。

 大ネズミ退治でさえ満足にできない人物。もっとヘタレた人物なのかと勝手に想像していたのだ。

 ところがどうだ、サイクロプスの正面に立つ人物は、まるで臆した風もなく、堂々と対峙している。

 そしてあの腰につけた奇妙な器具。

 あれは音を出すことで敵の注意を引く器具なのは間違いない。

 ということは護手なのだろうか。

 しかし頑強そうな籠手はしているものの、手に武器はなく、鎧にしても手足を除けばどちらかといえば軽装。格闘士の格好に近い。そして格闘士といえば普通は攻手だ。

 なぜこの人が『名無し』などと不名誉な二つ名で呼ばれているのか。見かけ堂々としているからこそ皆が騙されて仲間に誘い、そして全滅の憂き目を見ているのか。とにかくさっぱりわからない。

 ただ、たった今『雀蜂』が確信出来ること。

 それは目の前の『名無し』のおかげで、自分たち姉弟がひとまずは窮地を脱したということ。

 そしてもうひとつ、『雀蜂』の視線が『名無し』に釘付けになっているということ。

 オークたちのようにあの音に刺激されて目が離せないわけではない。

 そのあまりにも予想が出来ない行動に、ある種魅了されていた。

 『雀蜂』の視線の先、当の『名無し』は完全に囲まれている。

 正面に巨壁のごときサイクロプスが立ちはだかり、左右には乱杭のごときオークが立ち並ぶ。

 それはサイクロプスを要とした、血肉の通う要塞。

 しかも守るための要塞にあらず、相手を攻めるための要塞であった。

 対する『名無し』は眼前の要塞に比べればあまりにも小さい。

 それは道をふさぐ一本の立札に似ていた。

 立札の文言はこうだ。

 【抜けるものなら抜いてみろ】

 一見簡単に抜けそうな立札。

 しかし、あまりにも得体が知れない。

 それ故に抜くことを躊躇させる。

 そんな立札だ。

 しかし『名無し』の実力が立札並みのコケ脅しであったならば、その結果は言わずと知れる。

 サイクロプスが再び咆哮すると、巨大な棍棒が真直ぐに振り上げられる。

 『名無し』はゆっくりと左腕を持ち上げ、頭上で横に構える。

「うそ?」

 短槍を構えたまま、様子を伺う『雀蜂』は息をのんだ。

 確かに頑丈そうな籠手ではあるが、あんなものでサイクロプスの棍棒を受けきれるはずがない。

 受け流すつもりなのか。

 そうだとしても、『雀蜂』には余りにも無謀に思えた。

 もしそれができるなら、その技は達人の域だ。

 しかし……

 達人なのに『名無し』?

 害虫駆除も満足にできない達人?

 錯綜する頭を、『雀蜂』は小さく振った。

「姉さん?」

「大丈夫。何でもないわ」

 『薬屋』の言葉に『雀蜂』は構えを直す。

 そんなことは今考えることじゃない。

 彼が護手として敵の前に立っているのは事実。

 ならば自分は攻手としての力を発揮する。

 その一点に集中すべき時だ。

 自然と槍を持つ手に力が入るが、軽く息を吐いて力を抜く。

 そして前を見据える。

 その見据えた目が大きく見開かれた。

「うそ!」

 次の瞬間に目の前で起こった光景に『雀蜂』は再び間の抜けた声を漏らす。

 振り上げられた棍棒が振り下ろされる。

 押し込まれる空気が圧を生み土が舞う。

 しかして『名無し』は動かなかった。

 まったく。

 すこしも。

 微動だに。

 そして振り下ろされた棍棒を、律儀ともいうべき形で、左腕一本で、受けた。

 受け流すなんてとんでもない。

 見るからに無造作に、何の考えもなく、正面から、馬鹿正直に、その巨大な棍棒を受けたのである。

 普通ならそのまま潰される。騎馬隊の隊長同様肉塊だ。

 しかし『名無し』は肉塊にはならなかった。

 まるで鋼鉄の塊にでもなったかのように、棍棒を受け止めている。

「魔法の類?」

 『雀蜂』の問いに『薬屋』は曖昧に首を横に振る。

「わからないよ。生身で受けきれるはずもないけど、何かの力が作用しているようにも見えないし」

 魔法以外の、何か特別な技で力を逃がしている様にも見えない。

 その衝撃は間違いなく『名無し』の身体を直撃しているはずだ。

 現に『名無し』の両脚は、その衝撃を受け止めるように地面を踏みしめ、そこが緩やかに陥没しているのだ。

 サイクロプスの膨らんだ鼻から、颪のごとき息が噴き出し、周りのオークが小さくよろめく。

 『名無し』の脚が、さらに地面に沈む。

 サイクロプスは咆哮を上げた。

 その咆哮に促されるように、オークも咆哮を上げる。

 そして手にした武器を高く掲げた。

 振り上げられた武器は無論振り下ろされる。

 当然その矛先は『名無し』だ。

 『名無し』は右腕を自分の身体の近くで折り曲げると、右から振り下ろされた剣を、右腕を包む鎧で受け止める。

 しかし左側はがら空きだ。

 そこが見逃されるはずもなく、左側から振り下ろされた斧が、『名無し』の胴を打ち据える。

 分厚い革鎧と鎖帷子のおかげか、もしくはオークの斧が鈍っているのか、その刃が『名無し』の胴に食い込むことはなかった。

 しかし打ち据えられる斧を、避けるでもなく、受け流すでもなく、振り下ろされた力は鎧の上からとはいえ、『名無し』の身体を打ち据えたのは間違いなく、普通なら無傷ではいられない。斬ることではなく、叩き割ることに主眼を置いた斧の一撃であればなおのこと。

 それでも『名無し』は微動だにしない。

 微動だにしない『名無し』をオークが囲みこみ、滅多打ちに打ち据え始める。

 金属と金属のぶつかる音の中に、どこか鈍い重い音が混じり始める。

「もう死んでるんじゃ……」

 『薬屋』の口から小さな言葉が漏れる。

 『雀蜂』は短槍を構えたまま口をつぐんだ。

 どよむ音が次第に薄れ、オークが囲みを小さく解いた。

 

 WoW、WoW、WoWoo、oooow、wwwww!


 再びあの奇怪な音が鳴り響く。

 ただ、音の響きが途切れ途切れで、どこかぎこちない。

 見れば『名無し』の右手が腰の左側に回っていた。

 その音に触発されたようにサイクロプスが今までにない大きな咆哮を上げ、生暖かい突風と共に、あたりに粘り気のある唾液が飛び散った。

 そして『名無し』を抑え込んでいた棍棒を振り上げる。

 振り上げた棍棒が、サイクロプスの頭上高くでまるで固まったかのように止まった。

「まずい! まずいよ!」

 そう声を上げたのは『薬屋』だった。

 その叫びの意味は『雀蜂』にもわかった。

 サイクロプスの振り上げた棍棒は小刻みに震えている。

 その振動が焼け付くように肌に伝わってくる。

 ため込まれた力が周囲に共鳴し始める。

 顕著なのは気、特に土の気だ。

 土の気は硬さを司るがゆえに、力に対して良く響く。

 地面に含まれる土の気一つ一つは微弱だが、サイクロプスが棍棒にため込んだ力は、その強大さゆえに地面の微弱な気さえも共鳴を起こす。

 そして共鳴を起こした気は、薄く光る。

 それは共鳴する力が強ければ強いほどに濃く光り出す。

 この光は万人が見えるわけではないが、冒険を重ね、幾多の戦いを積んいると、次第と見えてくるものでもあった。

 光の色は様々だが、今この場では『雀蜂』の眼には淡い赤に見えた。

 その淡い赤が、『名無し』を中心に円形状に広がっていく。

 その赤い部分こそが、サイクロプスの攻撃の及ぶ範囲だ。

 その範囲にはおそらく、今までの攻撃とは比べ物にならないほどの衝撃が襲う。

 その衝撃をまともに受ければ、鋼鉄の全身鎧で完全に身を固めた、盾持ちの護手でさえも無事では済まないだろう。

 最悪の場合、即死だ。

 しかし攻撃の範囲は見えている。

 ゆえにそこから逃れることはできる。

 これは受けずに逃れるべき攻撃だ。

 『名無し』を囲んでいたオークたちも、サイクロプスの渾身の一撃に巻き込まれまいと退き始める。

 そのオークたちの動きが止まった。

 『名無し』の籠手から、幾条にも伸びる細い筋。

 それは何本もの撚り鋼線。

 撚り鋼線が『名無し』を囲んでいた五人のオークを絡めとり、さらには『名無し』へと引き寄せる。

「えええ!」

 思わず『雀蜂』は口から甲高い声を出した。

 撚り鋼線や鎖を使って周囲の敵の動きを封じ、自分の傍に引き止める技は、護手に長けた冒険者なら、それほど珍しい技術ではない。

 しかしそれを行ったタイミングが問題だ。

 この技で相手の動きを封じれば、自然と自分の動きも封じることになる。

 つまりその場から動けない。

 そして今この時、『名無し』はサイクロプスが気合を込める一撃のど真ん中にいる。

 『名無し』の意図はわからなくもない。

 その一撃にオークどもを巻き込むつもりなのだ。

 自身もろとも。

 それはあまりに無謀だ。自暴自棄ともとれる。

 しかし『雀蜂』はそれ以上の声は上げず、じっと構える。

 撚り鋼線から逃れようと、もがき暴れるオーク。

 動けないとみるや『名無し』に向かい得物を振り下ろし始める。

 『名無し』は微動だにしない。

 地面の淡い赤い光が次第に濃く強くなっていく。

 咆哮

 爆音

 衝撃

 それらが続けざまに、いや、まるで一つの塊のように巻き起こった。

 粘る唾液に混ざって、赤黒いものや薄黄いものまでが、すえた生臭い突風に乗り、切り刻むような叫びに乗って巻き散らされる。

 空気を叩き潰し、それが爆裂するかのような、耳をつんざく音が襲い掛かる。

 周りの家々が軋む音や屋根板が落ちる音が一斉に鳴り響く。

 穿ち抉られた地面が大きな塊のまま噴き上げ飛び散り、辺り一面を土煙、いや、岩煙が覆い包み、濃霧のごとく視界を遮る。

 地面に這いつくばって飛ばされまいと衝撃に耐える『薬屋』。

 身を低くして、それでも構えを崩さずに堪える『雀蜂』。

 次第に視界が開けてくる。

 その瞬間に『雀蜂』は駆けた。

 あれだけの大技、必ず隙ができる。

 『雀蜂』はそれを待っていた。

 死中に活を見出すには、この機を逃すことはできない。

 地面は大きく潰れて窪んでいる。

 オークの姿はすでにない。

 ただ撚り鋼線が絡みついた、泥濘のような塊が、あちこちに散らばっている。

 窪んだ地面の真ん中あたりに向けて、棍棒は振り下ろされていた。

 しかしその棍棒は、地面には達していない。

 棍棒と地面の間には『名無し』が立つ。

 サイクロプスの棍棒は『名無し』が頭上で斜めに組んだ両腕に受け止められていた。

 生きているのか死んでいるのか、そんなことは今の『雀蜂』にはどうでもよく、それが頭をよぎることもない。

 『雀蜂』はへこんだ地面を駆け下りるとその勢いで飛び上がる。

 飛び乗ったのはサイクロプスの棍棒の上。

 その棍棒の上をさらに駆け抜け、棍棒をつかむサイクロプスの両手の辺りで再び跳躍した。

 跳ぶ身体を低く伸ばし、手にした短槍を大きく突き出し、その切っ先を斜め上に向ける。

 切っ先は真直ぐにサイクロプスの血走った大きな瞳を目指す。

 狙いたがわず短槍は、その瞳の中央、濁った瞳孔に突き刺さった。

 そしてそのまま柄の半分当たりまで突き込まれる。

 棍棒が地面に落ち、サイクロプスが顔を覆って断末魔を上げた。

 『雀蜂』はサイクロプスの両手をすり抜け、その足元に片膝をつく形で舞い降りる。

 サイクロプスは顔を抑えて暫し叫び声をあげ、そのまま背中から地面に倒れ、しばらくの間ゆっくりともがき、次第に細かく震え始めた。

「大丈夫か?」

 小さく息を吐く『雀蜂』にかけられる声。

 『雀蜂』は片膝をついたまま顔を上げる。

 『雀蜂』を見下ろし、声をかけてきた人物。

 それは誰あろう『名無し』だった。

 

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