第十章 天還祭(6)

「この手配書、本当は恩赦になってないんだよねぇ。兄ちゃんかその仲間が墨書で印をつけたのかな? それが鄧柵望って人? いや、本当の名前はトゥルケ族のフチテーって書いてあったっけ」

 彼は破かれた紙をツァガーンに放り投げる。寝床の上に散らばった手配書はわざわざ掻き集めなくとも、ツァガーンはその内容はよく知っている。

 トゥルケ領ヒンガン山脈南方出身で、曄人の父と白トゥルケの母を持つ男だ。国境地方はそういった出自の者が多い。故に曄人名とトゥルケ名の二つを持つ。

 交易品を主に扱う商人をしながら裏で情報を売る。その情報の精度と伝手、それに間諜の技を曄の有力貴族に見出され、利害一致で手を結ぶ。或いは傘下に入る。これもよくあることだ。

「何のことだかさっぱりだぜ、ハル……」

「そうなんだぁ。ま、いっか。じゃ、これは何でしょう?」

 ハルは再び袖からあるものを取り出した。暗闇の中で光を反射してハルの手の中のものが光る。ハルがそれを抓んで宙に振る。透明な液体がとろりと混ざり、中の草花に絡みつく。いっぱいに満ちていた液体はいつの間にか半分になっている。

 玻璃の小瓶――いつかの夜にハワルにあげたものだ。

 ツァガーンは凍えた心地で小瓶を取り返そうとして手を突き出す。しかし、手は空を掴んだだけで、小瓶はハルの懐にしまわれてしまう。

「ハルッ! お前、ハワルちゃんに――」

「ふふっ。兄ちゃんって遊び歩いてる割にはハワルちゃんには本気だったのぉ?」

「そんなんじゃ……」

「安心して」

 甘ったるい声でハルが囁いた。優しい声音が余計に弟の不気味さを増長させる。

「ほんのちょっとしか何もしてないから」

 言い含めた声音に、明確に何かしたのだと察する。

 激昂したツァガーンの匕首がハルの首を狙う。高い金属音を立てて、ハルは余裕でその太刀筋をいなす。いなした隙を突いて、ハルが匕首を再び閃かせた。

 ツァガーンの胸に一筋の血がほとばしる。致命傷に至らなかったが、躱した衝撃で寝台の柱に背中を打ち付けた。

「ねぇ、兄ちゃん。あんたハワルちゃんにエルデニネちゃんを姫神子に選ばないように指示したでしょ? もっというと、オルツィイちゃんをアルマちゃんの側仕にしたのもエルデニネちゃんを孤立させるためだよねぇ? 今宵、殺すために。俺はちゃぁんと分かってるんだよぉ。兄ちゃんのこと。弟だからね」

 匕首に付着した血液を拭って指先で弄る。

「ま、本当の弟だったら、の話だよね」

 ハルが指先を一舐めする。 

――本当の弟だったら。

 この言葉を聞いてツァガーンは息を詰まらせた。

「ねぇ、あの小瓶はフチテー――鄧柵望から買ったんだよね? 兄ちゃんはフチテーの舎弟? それとも同僚? はたまた同じ貴族の羅氏傘下の好敵手? ま、どれでもいっか。黒幕が羅氏だって分かったんだから」

 ハルが上掛けを剥がして寝台の上に座った。ツァガーンににじり寄るように膝で進む。

「良いこと教えてあげるけど、好きな子には気分を高揚させる毒薬なんて贈らないことだよぉ。ハワルちゃん、別に中毒者じゃないでしょ。こんなん贈る男って、これがないとやってけない男って、下賤の出身じゃないかなぁなんて疑われちゃうと思うんだよねぇ。それも兄ちゃんが可哀相だから、俺、姫神子選定の儀の前、ハワルちゃんに折角だから飲んだらどう? きっと儀式失敗しなくなるよ? 教えてあげたんだよね。そしたら急にあおり出すからちょっと俺びっくりしちゃったなぁ。でもすっごい喜んでたよ。姫神子の選定の裏事情、聞いたら楽しそうに洗いざらい話してくれてさぁ。もっとも、あの子は兄ちゃんが裏切り者だなんて露ほども知らないみたいだったけど」

 ツァガーンは柱を背にして呻いた。

あの女エルデニネは俺たちの計画を知っている。始末するしかねぇだろぉ……!」

 ハルはまるで悪霊に憑りつかれたかのように首を傾げながらゆらりとツァガーンを追い詰める。

「ハル、お前、俺を殺す気か」

 ハルはゆっくりと頷いた。

「あんたは本当の兄ちゃんじゃないからねぇ。頑張って俺の真似して双子のふりしてくれてお疲れ様ぁ! でもあんたが真似てた俺は双子の兄のために演じてた俺なんだ。互いに双子の真似ができて良かったね!」

「それを、いつから……」

「あれぇ、そんなことが疑問?」

 ハルが大げさに首を傾げた。

「うん、最初っから知ってたよ!」

 満面の笑みに寒気を催す。

「最初からって……」

「そのまんまの意味だけどぉ、兄ちゃんの方が忘れちゃってるのかなぁ? なら、思い出させてあげるね!」

 いちから説明されなくてもツァガーンの記憶には深く刻みつけられている。ツァガーンが最初に行った大きな暗殺の仕事がそれだからだ。

「俺は黒トゥルケの貴種オハーンタェ家の出身。親戚の集落を訪れた帰りにあんたたち曄の手下になった白トゥルケの一味に馬車を襲われて惨殺された家の一人息子。まだ四つか五つだったあんたが両親の気を引いて馬車を止めて、幕が開いた瞬間隠し持ってた匕首で何度も刺殺したそうだね。今のお父さんは父上の兄上。第二夫人は子宝に恵まれなかったから俺が養子になった」

 トゥルケ族は黒トゥルケと呼ばれる貴種と、白トゥルケと呼ばれる平民・奴婢の階級社会であるが、ともに間諜を生業とする。表立っては商人や農民が多い。

 ある時、白トゥルケの中に人を堕落させる妙薬を作り、曄の臣に売りさばくことによって影で収益を上げる一派があった。薬は政敵を貶めたり、気が高揚している人物から秘密を聞き出すのに有用だとして重宝された。だが、妙薬は使用後に人格が崩壊する恐れがあり、人道にもとるとハルの両親は反対していた。故に、邪魔になる有力者として始末されたのだ。

「どういうわけだかあんたは親戚の集落に預けられた生き別れの兄だといって、両親が命からがら守ったのだと仲間の白トゥルケと口裏を合わせてやって来たけど、最初っからあんたが俺の兄ちゃんじゃないことは分かってたよ。だって、顔も声も似てないでしょう? 双子の割にさぁ。皆目がおかしいんじゃないかと思うよ。その時はあんたが親の仇だなんて知らなかったけど、いつだったかな。白トゥルケの離反者を拷問にかけた時に温情を賜るためと過去の罪を告白してきたやつがいてねぇ。それであんたが主犯の一人だって知ったわけぇ。まさかすぐ近くに親の仇がいるとは思わなかった。――いつ、あんたを俺の手で粉々に切り刻んでやろうかそわそわしてたんだ」

 ハルは妖艶に笑っていた。

 ツァガーンは動揺した。幼い頃から非道な暗殺者として、捨て駒として育てられた彼は記憶にない年頃から手を血に染めてきた。

 ハルはそういうことはないはずだ。彼は純粋な貴種の生まれで、例え間諜しようが暗殺しようが、武器を用いて直接殺す底辺の人間のやり方は取らなかったはずだ。

 だのに、目の前の弟はまるで生来それを生業にしてきたかのような、もっといえば、殺人に快楽を感じる人間と同じような顔をしていた。

「さ、幕引きにしよ。アルトゥンもハドゥもきっとあんたをちゃんと殺せないだろうから、俺がじっくり殺してあげる」

 怒気を孕んだハルの匕首がツァガーンの鎖骨に深く沈み込む。

「ぁあっ……!」

 骨が融けるような熱さにツァガーンは叫んだ。

 だが、ハルの手を緩めることなく何度も小さな閃光を描いて急所を執拗に狙った。

 ツァガーンが苦痛の雄たけびを上げてハルに斬りかかった。短剣の技術はツァガーンの方が上だったが、傷ついては十分な実力を発揮できるはずもない。

 それに、彼はハルの言葉に愕然として心をも切り裂かれている。十何年もともに過ごして思った以上にハルのことを弟として見ていた。だが、そのハルが己を家族だとは認めていなかった。

「ハ、ル……、やめ、話せば……」

「分かるわけないでしょぉ」

 匕首を引き抜いて容易に兄の打撃をいなすと、そのまま鳩尾に突き刺す。ハルは傷を抉るように力いっぱい匕首を捻り返す。

「俺の家族に白トゥルケはいないんだよ」

 奴婢が己の家族のはずはない。愉悦に満ちて歪む口元と対照的に、瞳の奥に黒く渦巻く冷たい炎がある。

「安心しろよぉ。俺の匕首に毒は塗ってないから、息絶えるまで刻んでやるよ。俺の大事な両親を殺したこと、大事なアルトゥンを裏切っていたこと、全部ひっくるめて楽には死なせてあげないからね、ツァガーン兄ちゃん」

 囁くように、温かい息を耳元で吐きかける。

 もし何かがあった時、ハルだけは見逃そうと思っていた。弟だから。家族だから。――愛しているから。だが、そこに彼の長年親しんできたはずの弟の姿はもう存在しなかった。

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