第九章 再会(5)
「それでは。ハドゥ様もお聞きくださいね。まず、本日はこの後に禊をして円丘の全ての祭壇に花と香を捧げます。明日は朝に詩学、舞踊の稽古、そして禊に献花献香です。夜にはクラの儀式を行います。併せて、皇帝が天斎宮に入られるのを出迎えねばなりません。クラの儀は深夜に行われますので、お嬢様は先に十分睡眠をお取りください。翌日は本祭・天還之儀です。既に迎賓館に到着している賓客たちを迎えて夕刻より行います」
以前は一年をかけて禊をしたり、神に細かく祈りを捧げていたそうだが、準備の期間を含めて予定が大幅に短縮されたそうだ。
はじめは本祭の天還之儀を除いて重要な儀式を幾つか取り上げて三日間で終わらせようとしていたそうだが、瑛帝であるションホルの意見に神官たちがことごとく異議を唱えたため、互いに譲歩して準備期間を含め計三か月となったらしい。
その期間に
ションホルとて神明をすべからく疎かにする意図はないが、期間が延びれば延びるほど、儀式が増えれば増えるほど、祭祀のために国の財を圧迫するので避けたい魂胆があるのだ、とハドゥが代弁する。
ハドゥ自身は祭祀の忠実性を重んじているので主の大胆な提案を制して神官の思いを代弁し、いかに細事と思われている祭祀が伝統的で重要であるか説得にかかったほどだ。
「お嬢様、それぞれどのような儀式か神官たちから聞いていらっしゃいますか?」
アルマは視線を逸らして髪の先を弄った。
「聞いてはいるんだけど、詩とか踊りの解説で頭がもつれちゃって……。とりあえず明日のクラの儀式についてもう一回教えてもらえると嬉しいかなーって……。ね、オルツィイ……」
「もう、仕方ありませんね、お嬢様は」
オルツィイはわざとらしく呆れてため息を吐いたが、態度とは裏腹に嬉しそうな笑みを浮かべて快く解説をはじめる。アルマはこういうところがオルツィイにとって妹らしいと思われていることに気付いていない。
「クラの儀式というのは命の誕生を象徴する秘儀です。具体的には地下にもぐり、また地上へ出て来るんですが、母親の胎内に宿り、生まれ出ることを行動で象徴しています。この儀式は大神官とともに行います。地下に潜った際に姫神子は神の代行者たる大神官に対し、純潔を示して神の嫁にならなければなりません。以前に禳州で祭祀が行われていた時には大きな
「なるほど。元々神子は神の
ハドゥが興味深そうに腕を組んだ。
「大神官である
「へぇ。そう考えると面白いね」
「ん。そうだろう」
感心するアルマに頷いて、彼は懐から糸で縫い合わせた歪な形の帳面を出すと、筆を取り、そういった考えを記し始めた。反故紙をもらってきて束ねたので歪らしい。彼が神話や伝承を集めている帳面だろう。
「ところで、
エルデニネの問いにオルツィイが眉を落して口ごもった。
「それがですね……」
「大神官は王が担う。だから事前に天斎宮に入る。オルツィイはアルトゥンがアルマの兄だから案じているのだろう。秘儀で交合を伴うのは祭祀では良くある話だ」
ハドゥの言葉にオルツィイが赤面した。エルデニネとアルマは眼をしばたかせた。
一瞬ハドゥの言葉がうまく呑み込めなかった。
しばしの静寂ののち、エルデニネは思い切って尋ねた。玉のような面にひびが入ったかのように険しく眉を顰めている。
「それはションホル様がアルマ様と床を共にするということでしょうか」
「そうなります……」
オルツィイが両手で赤くなった頬を包んで答える。
「ええっ!! ちょっと待って何それ冗談でしょ!!」
アルマは大仰に驚いたが、エルデニネの懸念はその先の未来を見据えていた。
――姫神子は最後、大神官に宝刀で弑され、天への供物となるんです。
トゥルナ族の聖典『
「一つ、無理を承知で提案させて頂いて宜しいでしょうか」
エルデニネはこれから己の口から出る不道徳な発言に自ら唾を飲んだ。
「此度の天還祭はご神意で凶と出ております。即ち、卜占の通りに執り行えば凶となると解せます。卜占によって選ばれた姫神子は絶対ですがその通り実行したならば祭祀は失敗するかもしれないのです。既に皇帝が大神官で、妹が姫神子という時点で暗雲が立ち込めております」
これが祭祀をつかさどるトゥルナ族の誇りを傷付ける不名誉な発言であることを承知している。生まれてこの方ずっと養花殿で育ったオルツィイの思想を否定する発言でもあるだろう。彼女はオルツィイがじっと己に視線を寄越すのを見られないでいた。
「だが、同腹の兄妹でなければ俺たちには許された行為だ」
ハドゥの言葉をエルデニネは否定した。
「曄では親兄弟の間にて婚姻やそれに伴う行為を禁じております。天還祭はあくまで曄の祭祀でございます。その視点に立てば禁忌であることはいうまでもありません。ですが、わたくしが懸念しておりますのはクラの儀ではなく、天還之儀のほうでございます」
「天還之儀に何があるんですか? ニーネさん」
天還之儀の儀式の流れは殆どが神官の演奏と姫神子の詩吟に舞だ。詩と舞の組み合わせと順番さえ間違えなければつつがなく進む。しかし、祭の終盤に執り行われる姫神子の最も重要な役割は説明されていないだろう。伝えれば姫神子は逃走をはかるか自死するかもしれない。
「天還之儀は天に生贄の魂を送る儀式なのです。歴代の姫神子は正に神饌で、祭祀の終盤に大神官の手で生贄とされて血肉を賓客に振る舞われるのです。このままでいけばあなたはションホル様に殺されてしまいます」
「まさか、そんなこと……」
エルデニネの銀色の瞳を見つめながらアルマは息を飲んだ。
ションホルが自分を生贄として殺すなど想像ができない。彼ならば例え兄であろうがなかろうがその道を回避してくれる。そんな気がするのだ。
しかし、祭祀という衆目の中で、生贄をするのが当然という空気の中で彼がうまく立ち回るのかと考えるとどうにも結論は出ない。彼を信じて祈ることしかアルマにはできない。
「ん。アルトゥンもその手立ては考えている。アルトゥンは前の天還祭で姫神子が祭壇で殺されるのを見て強い怒りを覚えている。だが、対策を講じるも間に合うかは分からない」
「天還之儀では姫神子の支度を終えれば神官たちは演奏や饗応に追われます。姫神子の周囲からは人がずっと少なくなるでしょう。ですから」
エルデニネは一旦言葉を切った。柔らかく滑らかな白磁のたなごころでアルマの手を包み込む。
「天還之儀の姫神子はわたくしに交代させてくださいませ」
誰もが驚きのあまり声を失った。だが、エルデニネの金剛石のような瞳には今までに見ないほど固い意志が宿っていた。
*
絶妙な時期に事件が起こった。
警護を強化していたにもかかわらず、地下牢に入れていたムグズが脱走した。
侵入者があって牢の鍵を破られたのだ。
黒い覆面の男だったという目撃証言から、養花殿でエルデニネを襲った一味だと察しがついたが、破る牢を違えたのか、養花殿の刺客ではなくムグズが逃げ出したのだ。
しかも、ムグズは侵入者に倒された守衛から剣を奪い取ったらしく、偶然近くにいて駆けつけたツァガーンは地下牢で怪我を負った。
恐らくムグズはまた女を求めるだろうと養花殿の警護を更に強化し、
武官に命じて秘密裏に凰都市街も捜索しているが、有力な報告は上がってこない。
黒幕の証拠を掴むまで覆面の仲間たちを泳がしておくつもりだったが、いよいよその段階ではないのかもしれない。
後手に回ったことをションホルは後悔し始めていた。
倒瑛勢力の内通者を根こそぎ駆逐しなくてはならないのは理解できる。しかし、王朝創始者にある血の粛清は彼の美学に反する。
奥歯を噛みしめながら、穹廬の床に横たわるツァガーンを振り返る。意識はしっかりしているし、深手ではない。休めばじきに動けるようになるだろう。
幸い今宵から天還祭のため円丘に仮住まいしなくてはならない。祭祀の間は多くの官が祭祀に割かれるため、通常の業務は滞る。ツァガーンが傷を癒す時間も取りやすくなる。
しかし、反対に王宮の守りは手薄になる。ただでさえ曄から瑛に変わって王宮内はまだ一丸ではない。そういった盤石の態勢でない綻びが今回のムグズの脱走を許したのだろう。
「はぁ、兄ちゃん。俺はほんっとに心の臓が止まりそうになったよ。ムグズ爺に殺されてたらどうしようってさぁ」
ハルが寝床の脇に座りながらツァガーンに西瓜を切り分けている。西瓜に齧り付くツァガーンのかわりに皿を持ってやり、かつ滴る汁をその都度拭ってやっている。
「心配かけてごめんってぇ」
ツァガーンは斬られた脇腹を蓬で止血し、上から布で縛っていた。笑顔にも無理がなく、傷を除けば元気だ。
「で、お前は何であんな夜更けにうろついてたんだツァガーン」
「えっとぉ……」
ションホルの鋭い声にツァガーンは暫し眼を泳がせた。だが、彼は誤魔化しきれないと悟って白状する。
「養花殿のハワルちゃんに会いに行ってたんだよねぇ……。サィンちゃんのことで落ち込んでるみたいだったからさぁ」
「あっ、いけないんだ兄ちゃん。養花殿は全部王様の女だろぉ」
ハルとツァガーンの二人が女好きで、今までに何人もの女と遊んだり口説いたりしているのは知っていた。
対して、ションホルはさほど女に興味がない。興味があるのは鳥の飼育と出来栄えだけだ。
そもそも、後宮は解散するつもりだったので、この二人が後宮の女に手をつけても、最悪女が妊娠してもションホルには関係がない。万が一妊娠したなら、いっそその女を下賜してもいいし、女に飽きたというのならば自分の側室に入れるか、或いは不必要ならばその子供を引き取って次の皇帝に育てても良いと考えていた。
ハルたちはトゥルケ族酋長の血縁であるから血統自体に文句はないはずだ。もしも己が道半ばで斃れたならば次の皇帝は彼らの可能性がないわけではない。
ただ、有能な者に位を明け渡すという行為は血統を重んずる曄ではありえないことだ。曄の王朝文化を正当に継承する王朝であると広く内外にしろしめすのであれば決して実行してはならない。
「お前、今度こそ本命なんだろうな。遊びならそろそろ手を切れよ。相手は初心なんだぞ」
「疑うなんて酷いっ」
呆れ顔のションホルに、ツァガーンは不満そうに軽口で返事をする。
「ハル、俺は今宵からクラの儀式に入る。その間ツァガーンを頼んだぞ。もうこれ以上犠牲を出すのはやめだ」
「アルトゥ~ン! 王様になっても仲間想いのいい子だねぇ!」
ツァガーンが眼をうるうるさせて感激する。ションホルは眉を顰めて「そんなんじゃねぇ」と狼狽えた。
ハルは食べ終えた西瓜の皿を下げて、兄の口元を甲斐甲斐しく拭いてやりながら笑った。
「任せておいてよ王様。兄ちゃんの面倒は弟が責任を持って見るからさぁ。安心して天還祭に挑みなよ。大っ嫌いな天還祭にね」
冷え冷えとするような笑みだ。それでいて底意地の悪さがある。ションホルは彼のこういう面が苦手だ。
「ハルってたまにいじわるだよねぇ。アルトゥンは第四夫人の連れ子でしょ。俺たち第二夫人の息子とは義兄弟なんだから優しくしてあげないとねぇ」
「兄弟をいじめるのも兄弟の務めなのぉ」
口元をひときわ強く拭ったのでツァガーンが痛いと訴えた。ハルは加虐的な面が兄よりも強い時がある。大抵は苛立っている時だ。ションホルは振り向きざま、鋭い視線を投げかけるハルに気後れしながら頷いた。
「ああ、行ってくる」
ションホルはツァガーンの穹廬を後にして円丘へ出立した。
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