第七章 転機(1)

 夜の帳が上がり、薄紫の空に蜂蜜色の光が溢れる。夏に向かって朝が巡り来るのが早くなってきた。

 アルマは重い瞼をこすりながら、ドルラルの起床に合わせて身を起こした。眠り足りないために何度瞼を持ち上げても自然とまた垂れ下がってしまう。洗顔用の水瓶を持ってきたハワルが慌てた様子でサィンの不在を訴えてきた。

 ドルラルは一日の始まりには到底似合わない重い溜息を吐いた。

 就寝前までは確かにいた。ハワルはそういった。

 サィンが蝋燭の火を消して床に入るのは見たが、天声壇での緊張もあってハワルは早々に熟睡してしまったという。今朝ドルラルの部屋に水を持っていくのはサィンの番だったのだが、誰もが見かけないというので代わりに持ってきたそうだ。

 ドルラルはハワルの訴えを承知すると、何も答えずに濡れた布をアルマに寄越した。目に当てるとひんやりして気持ちが良い。眠気が少しだけ治まった気がする。

 ハワルはアルマがいつの間に主と足を触れながら同じ寝台で眠るような仲になったのかと狼狽している。

「ハワル、あなたはいつも通りのお仕事をなさりなさいな」

 そういわれるとハワルは返事をして、螺鈿の施された鏡台に座るドルラルの髪を梳きはじめた。巻き髪を梳く手つきは丁寧で、ひっかけぬよう細心の注意が払われていたが、表情には不安が滲み出ていた。

「アルマ、あなたも早く室に戻らなければオルツィイが心配なさるわよ。彼女にはここで寝ると言付けていないのですから」

「あっ、そうだった!」

 体温ですっかり温まった布を銀盥にかけて襟を正す。だが、衣服を整えきらぬうちに、オルツィイがドルラルの部屋の扉を叩いた。

「アルマお嬢様、こちらにいらっしゃるとお伺いしたのですが!」

「騒々しいですわよ」

 ドルラルが扉の向こうにいるオルツィイをぴしゃりと叱る。オルツィイが佇まいを直す姿が影で透けて見えた。彼女は胸の前で手を重ねて礼を取り、

「失礼いたしました。ドルラル様、こちらにアルマお嬢様がご在室とお伺いいたしました。この度の天還祭で姫神子をお任されになるとのことで、別所に案内せよと命じられました。ツァガーン様がお見えになっております」

(姫神子……!?)

 どういうことかとドルラルを見ると、ツァガーンの名に須臾、髪飾りを差すハワルの手が止まっていた。アルマは気付かぬふりをして家主であるドルラルの判断を待つ。そういえば、昨晩ドルラルとともに異変に駆け付けたエルデニネが卜占の結果を受けて、次の天還祭の姫神子を決めていたといっていた。

 ドルラルは鏡越しにアルマの慌てふためく顔を見やった。

「そういうことになりましたの、アルマ。ハワルたちの卜占で出た条件を合わせますと、養花殿内で最も姫神子の条件に適合するのはあなたでしたわ」

「え、ええっ!?」

 確かに昨日の卜占では黒か茶色の髪色の者に資格があるといっていたから、アルマが適合する可能性は高いが、他の条件は誰にだって当てはまるような内容であったはずだ。にもかかわらず己が選ばれた。エルデニネの予知の通りになってしまった。

 実感の湧かないアルマをよそに、ドルラルが鏡に向き合ったまま扉の向こうに告げる。

「ツァガーン様、身支度をしておりますので今しばらくお待ちを。養花殿の女がだらしがない恰好で人目に出ては女の威信を失いますわ」

 「はーい」と間延びした男の返事が聞こえた。

「さて、アルマ。こちらへいらっしゃい」

 ハワルの手にはあと二本、銀の髪飾りが握られていたが、ドルラルは差し終わるのを待たずにアルマに席を替わる。昨晩から頭頂で結んだままのアルマの髪を解くと手ずから櫛を入れる。三つ編みを避けて程よい強さで手際よく梳かれるのを後頭部で感じながら、アルマは彼女の高飛車な自意識は、決して口先だけの虚ではないのだと感じた。手際の良さがそれを示している。

「姫神子とは天還祭の大神官の一人です。選ばれようともなかなか選ばれないものですわ。身なりを整えて自信を持ちなさい。優雅で清廉でありなさい」

 綺麗に紐で総髪を仕上げると、床屋に通ったかのようにしなやかで張りのある姿になった。一度正した襟元をもう一度整えられ、上着をかけられる。最後にハワルの手から孔雀の色に似た翠玉が嵌められた銀製の花蝶櫛を差す。唇に淡い紅が指されると、血色が途端に鮮やかになって、寝不足とは似ても似つかない。

「さ、お勤めを頑張りなさい。無様な姿は許しませんわよ」

 背中を軽く叩かれて立ち上がる。

「ドルラル、これ……」

「昨晩のお礼ですわ。あら、ご心配には及びませんのよ。わたくしにはまだまだたくさんの髪飾りがありますから」

 鏡越しに月のような柔らかな光を放っていた花蝶の櫛は決して安いものではない。繊細な意匠は彼女を形作るための鎧ではなかったか。そう考えると安易に頂戴して良い物とは到底思えなかったが、突き返したところで彼女の気持ちを逆に傷付けるだけだろう。

「有難う」

「おかしな子ですわね。わたくしからのお礼といっているでしょう。――まあ、いいでしょう」

 ドルラルは呆れたように笑って、扉の前へアルマを促した。

「お待たせいたしましたわ」

 ハワルが扉を開く。

 外にはオルツィイとツァガーンがドルラルに身支度されたアルマを前に、眼を見開いた。

「まあ! お嬢様。とっても綺麗です」

「うんうん、化粧が映えるねぇ」

 笑顔の二人に迎え入れられて、アルマは気恥ずかしくなった。

「ええっと、あたしが姫神子……になるんだっけ?」

 オルツィイがあれこれ誉めそやすので、容姿から話を逸らそうと尋ねる。背後からドルラルの、シャンとしなさいという視線を感じて背筋を伸ばす。

「はい。本日より本祭まで毎日禊や儀式に参加していただきます。――その前に、姫神子が真に姫神子であるかの審査を挟むのですが。詳しくはまた後に致しましょう」

「オルツィイ、頼みましたわよ。ハワルはここにお残りになって。お話があります」

「お嬢様のお世話はお任せください!」

 ドルラルに見送られると、アルマはオルツィイとともにツァガーンの先導について行く。朝の養花殿はトゥルナ族の側仕たちが慌ただしく働いていたが、まだサィンの件は伝わっていないようだった。おのおのが自分たちの仕事に没頭している。時折これから摂られるであろう朝食の薬膳粥のあっさりとした鳥出汁と香草、それに上からぱらぱらと撒かれた種実類の香りが鼻をかすめ、渇いたのどを唾が潤す。

 しかし、ツァガーンは養花殿の一階に降りると、アルマの部屋には戻らずに、そのまま外へ促した。オルツィイを一瞥すると、点頭して従うように示される。

 疑問に感じながらアルマは乾乃宮を南下し、穹廬を過ぎて、遂に穹廬前の門まで潜ってしまった。すると、城内に大きな通路が現れる。その通路の左右には多数の扉があり、大勢の人々が行き来している。馬や牛こそ見当たらないし、商店が軒を連ねているわけでもないが、まるで町の喧騒であった。

「こっから先は宮城を出て皇城になるよ。人がいっぱいでびっくりでしょぉ」

 ツァガーンの言葉にアルマは口を開けたまま頷くしかなかった。

「今までは皇帝の私的な空間だったけど、こっからは国の重要施設が建ち並んでるからねぇ。民の住居、いわゆる街はもう一つ城郭を抜けた先なんだぁ」

 ちらと背後を見ると、オルツィイもこの賑わいにあんぐりと口を開けて驚いている。生まれも育ちも養花殿の彼女は養花殿の内側と御花園、それに乾乃宮から坤乃宮までしか知らない。

 それに比べてアルマは大きな街を何度か見たことがあるが、皇城は既に都市を思わせる雑踏をしており、さすがは京であるといわざるを得ない。大極宮や乾乃宮がすっぽりいくつも建てられそうな空間がただの通路とは、やはり凰都は聞くに勝る規模なのだろう。

 灰褐色の土壁の先は長くて終わりが見えない。その壁に穿たれた穴の奥に大小の官庁が並んでいる。通行人の中でも揃いの服を着た者同士は同じ職場なのだろう。本を結んで歩く若者は学徒だろうか。

「オルツィイ、驚いたね」

 これだけの人間が国を支えるために城の中で働いていたのだと考えると、養花殿というのは本当に小さな鳥籠に過ぎない。

 反応のないオルツィイを振り返ってみれば、薄く涙を流していた。ハッと気づいて袖で拭い、申し訳ございませんと呟く。

「初めてこのような光景を目の当たりにしたもので、つい」

「そうだよね。あたしだって色んな街を見てきたけど驚いてるもん」

「どう表現したらよろしいのでしょう。驚きも感激もあるのですがちょっと怖くもあって」

 好奇心と未知への恐怖がないまぜになる気持ちはアルマにもよく分かった。

「ところでツァガーン様」

 オルツィイが表情を改めて尋ねた。

「んん? なぁに?」

 ツァガーンは首だけ後ろに回して返事をする。そういえば皇城の人々は曄人が多いようでツァガーンのような金に近い灰褐色の輝く髪は浮いて見える。

「お嬢様の御輿はございませんのでしょうか。円丘まで徒歩かちで向かわれるのですか? 皇城のすぐ近くとはいえ相当の距離があると聞いております」

 意外にもオルツィイは非難を込めていた。ツァガーンはやっと気づいたような表情になって、

「ごめんねぇ。王様が歩いて向かわせろと仰ってるんだぁ。下手に目立つのも避けたいし。それに輿を出すとそれを担ぐ人員が必要になるでしょ? ついでに警護する兵も。今そういう余裕ないんだよねぇ。何せ昨晩――」

「あたしは平気だよ! 輿って乗り慣れないから逆に疲れそうだし!」

 アルマはオルツィイをいい含めようとするツァガーンの言葉を遮った。

 オルツィイが昨晩の事件を既に聞いているのかは分からなかった。ハワルはドルラルの部屋に来た時にはまだ何も知らないようだったから、彼女もまだ耳にしていない可能性が高い。いずれ知る友人の死だが、今、この場で事件の内容をオルツィイに知らせるのは気分が乗らなかった。

「あたし各地を放浪してた時は、馬が乗れない場所は歩いてたから、脚は強いほうだよ!」

 そのようでしたら、と押し黙るオルツィイに悪いことをした気分になりながら、一行は針の孔ほどに微かに白い光の漏れる皇城の南門を目指す。もしかすると、ツァガーンやアルマよりもオルツィイのほうが長距離を歩き慣れていないのかもしれない。

 円丘とは皇帝が天地を祀る場所である。

 皇帝の私的空間である宮城、国の重要機関の集まる皇城と南北一直線に連なっており、正式には天円壇と呼ぶそれは天の神を祀る。冬至に天の神に祭祀を行う場所で、天還祭は本来ここでは行われない。以前は郊外の禳州じょうしゅうという地で行われていたのだが、準備や人手の不足かつ皇帝の強い希望で皇城からほど近い凰都内の祭壇に決められた。

 皇城の南門には空堀が巡らされて、白い大理石の橋が太く渡されている。門の上には『天命治国』と書かれた扁額が掲げられており、二層から成る楼閣が設けられている。

 天命治国門と呼ばれるこの門は皇城と市街を隔てており、曄とそれ以前の時代に皇帝がこの楼上から法や命を発布したことで有名だ。瑛国になる直前に曄哀帝が禅譲を国民に発表したのもここである。

 天命治国門を出るとまた堀がある。今度は水が引かれており、蓮の葉が生い茂るのが見える。王宮を二重に取り囲むこの外堀には、先程と同様の、しかし半分の細さになった大理石の橋が五本かけられており、真中の一本だけやや幅が広い。市街地から敵が攻め入った時に最初の砦となるのがこの天命治国門であり、容易に侵入させないために橋が細いのだという。

 門の正面を東西に穿つ大通りの向こう側に、こんもりとした緑の森が皇城や街の喧騒とは異質に静かに佇んでいた。あれが円丘だろうとアルマは確信した。

「さ、着いたらまずは姫神子様の考試だね。常駐のトゥルナ族の子たちが支度をしているはずなんだぁ。天還祭までここに住んでもらうことになると思うよ」

 ツァガーンが歯を見せてにっと笑った。アルマも、オルツィイと同様に好奇心と恐怖がない混ぜになった気持ちだったが、それを飲みこんでこくりと頷いてみせた。

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