弥シチの風車

 翌日は生憎の曇り空だった。しかし雨は降っていない。朝飯を済ませたわしらは座敷で藤左衛門の帰りを待っていた。


「ふふふ、今日も御馳走にあり付けそうだわ」


 スケ姫はもう夕食のことを考えているようだ。藤左衛門も要らぬ気遣いをしてくれたものだ。昨晩、戸田川の魔退治を引き受けると、大喜びで一筆したためてくれたのだ。宛名は蕨宿名主岡田おかだ嘉兵衛かへい正吉まさきち。名主の他に蕨宿の本陣と問屋場も任されている男だ。


「蕨宿の竜神の由縁ゆえんはかつての蕨城城主渋川義基しぶかわよしもと様の奥方様にあると聞いております。岡田殿のお父上は渋川家にお仕えした武将。竜神について詳しい話が聞けるかもしれませぬ。この書状に事の経緯をしたためておきました。川を渡られましたら本陣の岡田殿にお会いなされませ」

「えっ、それって明日は本陣で飲み食いできるってことよね。ふふっ、どうやら御馳走の女神様はあたしたちを気に入ってくれたみたいね」


 そうなのかもしれぬな、と本気で思いたくなる。この旅が始まってから前田家、平尾脇本陣、志村の名主屋敷と大名顔負けの待遇しか受けておらぬからな。さすがに本陣に宿を取るのは無理だろうが、これまでに負けるとも劣らぬ持て成しを受けるのは間違いないだろう。


「お喜びくだされ。本日は川留め解除となりました」


 藤左衛門が吉報を持って戻ってきた。よし、これでようやく前へ進める。


「行くよ、スケ様、カクさん」


 荷をまとめて外へ出る。藤左衛門に礼を言い戸田川へ向けて歩き出す。空は灰色の雲に覆われているが心はすっきりと日本晴れだ。


「うわあー、今日は凄い人ね」


 昨日とは打って変わって水主小屋の周囲は旅の者たちで溢れ返っていた。向こう岸にも人だかり見える。数日間足止めされていたのだから当然の光景だ。この有様では船に乗るまでにかなり待たされそうだな。


「一番に乗せてもらえるように名主さんに頼めばよかったのに」

「そんな便宜を図ってもらうのはよくないよ。僕らは旅の商人とそのお供なんだからね。列に並ぼう」

「兄ちゃん!」


 聞き覚えのある声がスケ姫との会話に割り込んできた。弥七だ。いつも突然現れて突然消えてしまう。風みたいな奴だな。


「弥七、昨日はどこへ行っていたんだい。心配したんだよ」

「心配? 会ったばかりのおいらを心配するなんておかしいや。それとも本当においらの兄ちゃんなのかい」


 九歳の割には生意気な口を利くではないか。さりとてこんな愛くるしい笑顔で言われてはとても憎めない。そこがスケ姫との違いだ。


「会ったばかりでも心配はするよ。まだ子供なんだから。どこに泊まったんだい。銭は持っていたのかい」

「銭は持ってない。どこかの馬小屋にこっそり潜り込んでそこで寝た」


 思った通りだ。わしは於カクに頼んで藤左衛門が持たせてくれた握り飯を弥七に与えた。勢いよくかぶりつく。昨日の昼から何も食べていないのだろう。


「ねえ、兄ちゃんたちは向こう岸へ行くんだろう。おいらも行きたいんだ。だけど銭がない。おいらの分も出してくれないかな」

「えっ、うん、そうだなあ」


 川留めの翌日となれば渡し賃は一六文。さして惜しい額でもないが、弥七の素性が気になる。このまま川を渡してしまってよいものだろうか。


「何を悩んでいるのよ。困った人は見捨てておけないって昨日言っていたじゃない。一六文くらいでケチケチするなんて、それでも金箔問屋の若旦那なの」


 スケ姫の罵詈雑言はいつものことなので無視する。


「待てスケさん。たかが一六文と言っても大切な路銀であることに変わりない。私が一肌脱ごう」


 突然於カクが脱ぎ捨てた。言葉通りに一肌を脱いだのではない。法被を脱ぎ捨てたのだ。その上股引にも手を掛けている。わしは叫び声を上げると慌ててその手を押さえた。


「うわあー、カクさん。いきなり何をしているんだよ」

「だからこの子のために一肌脱ぐと言ったではないか」

「一肌脱ぐのは分かるけど、どうして股引まで脱ごうとしているんだよ」

「昨晩、言ったであろう。私は川を渡る時、船も人足も使わぬ。ここでも同じだ。渡し船には乗らぬ。素っ裸になって泳いで渡る。だから私の分の渡し賃をこの子のために使ってやってくれ」


 於カクの意図はよく分かった。相変わらず慈悲の心に溢れた娘だ。だからと言って素っ裸を衆目に晒すわけにはいかぬ。とにかく思い留まらせなくては。


「分かったよ。この子の渡し賃は別に出すよ。だからカクさんも泳いだりせず船に乗って渡ってよ。脱ぐのはやめて」

「そうか。ならば言葉に従おう」


 於カクは股引から手を放すと再び法被を身に着けてくれた。ほっと安堵の息を吐く。


「兄ちゃんも随分苦労しているみたいだね。お気の毒さま」


 こんな童に同情されてしまうとは、若旦那の面目丸潰れではないか。とにかく銭は出してやるにしても、もう少しこの子の素性を知っておきたいものだ。


「ねえ、弥七。君は川の向こうから来たんだよね。その時はどうやって川を越えたんだい。今日まで何をしていたんだい。父さんや母さんはどうしたんだい」

「ああ、おいらの身の上話が聞きたいのか。握り飯と渡し賃のお礼に教えてあげるよ。生国は上州じょうしゅう榛名山はるなさんの近く。爺ちゃんは立派な武将だったみたいだけどよく知らない。母ちゃんはおいらを産んですぐに亡くなったって聞かされた。父ちゃんも半年前に病で亡くなった」


 これは想像以上に悲惨な話を聞かされそうだな。少し気分が重くなる。


「身寄りがないから奉公に出されることになった。連れられてきたのは日本橋の飛脚問屋。おいら足が速かったからみんな驚いていたよ。でもそれがよくなかった。おいらに無茶な役目ばかりを押し付けるんだ。一日で戸塚まで往復させられたこともある。おいら長い距離は苦手で半里も走ると息が切れて動けなくなる。だからすごくつらかった」

「戸塚を往復! 酷すぎるわ」


 スケ姫ならずとも怒って当然だ。戸塚往復となると二十里。大人でも尻込みするような距離だ。九歳の子供にこれほどまでの仕打ちを与えるとは到底許せるものではない。


「最近は飯も満足に食わせてくれない。いつもお腹が減っていて、それでも走らされる。あんまりつらいんで逃げ出してきたんだ。おいら、古里に帰りたいんだよ。身内がいなくてもいい。寂しくてもお腹が空いても今よりは我慢できる。生まれ育った村でみんなの使い走りをして暮らしていきたいんだ」


 弥七の話を聞いてしみじみ思った。やはり旅に出てよかった。屋敷の中にいては決して知り得ない人々の苦しみや悲しみに出会えるのだからな。


「ねえ、この子、連れて行ってあげましょうよ。榛名山ならきっと安中宿の辺りでしょう。いくら足が速いって言ってもまだ九歳だし。あたしたちと一緒なら安心でしょう」

「本当! 一緒に連れて行ってくれるの」


 弥七の明るい表情が胸に堪える。スケ姫の言うようにこのまま放ってはおけない。だからと言って旅に同伴させてよいものだろうか。弥七は奉公先から勝手に逃げ出してきたのだ。それは奉公人としての義に背く行為である。言うなれば家出人、旅の供としては相応しくない。


「いや、一緒に連れてはいけないよ。それから渡し船に乗せてやることもできない。悪いけど君は江戸市中に戻って……ぐはっ!」


 腹部に強烈な衝撃を感じた。広がっていく鈍痛。スケ姫の右拳がわしの鳩尾みぞおちにめり込んでいる。


「見損なったわ。あんたがそんな腑抜けだとは思わなかった。困っている人を助けるんじゃなかったの。こんな可哀相な子を見捨てて、何が『不埒な振る舞いは許せない』よ。不埒なことをしているのはあんたじゃない」


 昨日のわしの台詞をまだ覚えているのか。気のない振りをしてしっかり聞いていたのだな。


「ち、違うよ、スケ様。奉公先へ帰れと言っているんじゃないよ。このままじゃ一緒に連れていけないって言っているんだよ。だって、この子は無断で逃げ出してきたんだよ。もしかしたら奉公先の人たちが心配しているかもしれないじゃないか」

「なるほど。若旦那の意図が分かった。旅に連れて行くのなら奉公先の了解を取り、然るべき手続きを踏んでからにすべき、そう言いたいのだな」


 さすがは物分かりのよい於カクだ。理解が早い。わしは旅荷から矢立と紙を取り出し一筆したためた。紙に包んで折り畳み弥七に渡す。


「これを持って小石川の水戸徳川家のお屋敷へ行くんだ。そして玄蕃というお侍さんにこの書状を渡すんだ。きっと良いように取り計らってくれるはずだよ。全てが済んだら僕たちを追い掛けて来るといい。君の足ならすぐに追いつけるだろう」

「小石川の水戸徳川家だね。うん、分かった」


 走り出そうとする弥七。その肩を於カクが掴んだ。


「待て、すまぬが腰に差した風車かざぐるまを見せてくれないか」

「いいけど丁寧に扱ってよ。母ちゃんの形見なんだ」


 於カクは風車を手に取った。手で回したり息を吹きかけたりしている。


「なるほど、合点がいった。風の弥シチか」

「もういいかい。返しておくれ」


 弥七は風車を受け取ると元通りに腰紐に差した。


「じゃあ、ちょっくら行ってくらあ」


 威勢のいい言葉を後に残して弥七は風のように走っていく。あっという間に芥子粒のように小さくなった。


「ねえ、カクさん、今、風の弥シチって言ってなかった。まさか、あの……」

「ああ、多分間違いないだろう。こんな所で会えるとはな」

「えっと、二人とも何を話しているのかな。それよりも早く列に並び直そうよ。ぐずぐずしていると昼までに渡れなくなりそうだよ」


 二人をかして水主小屋の前にできている列に並ぶ。わしはもう一度弥七の消えた方角を見た。曇り空に薄っすらと日が差していた。

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