花ちゃんが死んだ。

木沢 真流

訃報

 トントントントン、トントントントン……

 背後から絶えず響く、その音。

 一見単調に見えて、実はわずかなノイズが混じっている。このノイズこそが肝だと私は前々から睨んでいた。

 私は目を瞑り精神を集中させた。今、私の脳裏にはその音しか入っていない。


——今度こそ、必ず見つけ出してやる。ここまで何時間かけて来たと思ってるの? お願い、今度こそ……


 私は目をカッ、と開き振り向いた。


「大根!」

「えっ、何? 大根だけど」


 母さんは振り向かず、そっけない返事を返した。

 そのまま、まな板を叩く気持ちのいい音は続いた。

 母さんの大根、ほんっとに美味しい。あの絶妙な噛みごたえ、じわりと口の中に広がるだし汁……あの白い丸太のような物体が、母さんの魔法にかかるとなんであんなに美味しくなるのか、正直今でも分からない。今ごろ鍋では母さん特製のかつお出汁がじわりじわりとうまみ成分を広げ、そこに豆腐、わかめ、味噌が入れば出来上がり。あの美味しいハーモニーを思い浮かべるだけでよだれが出そう。


「ねえ、母さんの味噌汁ってなんでおいしいの?」

「なんでって聞かれてもねえ。今まで何回も教えたじゃない」


 そうだ、私がまだ実家暮らしの時、花嫁修行ということで何回も教わった。でもだめ、何回やってもあの味はだせない。


 それにしてもやっぱり実家は落ち着くな。

 大学生になって、東京で一人暮らしを始めてもう4年。だいぶ慣れたけど、やっぱり実家にはかなわない。


「そういえば、この前達也君みかけたよ。なんか小ぎれいなカノジョ連れて!」


 達也は、高校時代の元カレだ。そもそも始まりが文化祭の打ち上げで、勢いでくっついたような付き合い。できれば記憶から消したい過去だった。


「へえ、あいつ相変わらず趣味変わってないね」

「そうねえ、でも良かった、奈緒があんなチャラい男と別れてくれて。お母さん正直あんたがあの子連れてきた時、うわっ、キモいって思っちゃった」


 初耳だった。まあなんとなく気づいてはいたけど。

 なんか髪がユラユラ〜ってしてるでしょ〜と母さんは達也のキモさを追加した。


「しかも初対面なのに奈緒のこと『奈緒ちゃん』じゃなくて、『奈緒は……』みたいに言ってたでしょ、ちょっと何様、って思っちゃった。父さんの方がもっとひどかったみたいよ、普段からあまり不満を漏らさないあの父さんがよ? あの男は……」


 結構あったんだ、不満。まあ別れて良かった、ほんとに。

 大学に入り、親元を離れてだいぶ経った気がする。

 今でもこうやって色々と地元の話をしてくれる時間は、私にとって大事な時間だった。


「そうそう、花ちゃん。覚えてる?」

「うん、覚えてるよ。どうした?」

「亡くなったんだって。今朝ミッちゃんから聞いた」


 ミッちゃんとは母さんの妹のこと。もちろん私は美津子おばさんと呼んでいるが。

 眼科医師の妻である美津子おばさんは、エレベーター付きの億ションに住んでいる。会う度に車が違う外車に変わっている。連休にはフランスに行っている。あれもこれも「経費」というやつを利用すれば可能なんだとか。それより……


「そうなんだ、花ちゃんが」

「まあ、あんたにはあまり関係ないかもね」


——関係、ない。か……無理もないよね。


 だって花ちゃんと会ったのはたったの一回きり、それも数時間。

 しかも花ちゃんは……。


 犬だから。

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