第38話 決戦

「第一試合、花形戦。勝者は三津間の『とまり海運かいうん宙船そらふね、試合時間は七分十五秒でした!」


 歓喜に沸く場内の歓声が、リングへと続く通路の入口にまで届いていた。

 翔真たちの前方には次の花形戦の取り組みを待つ茶毛の牛が一頭。一方、その対戦相手の牛はようやくヤドリからこの通路にむかう途中だった。この島の闘牛では入場する順序に特に決まりはない。準備の整ったほうからリングにつながる通路、花道を通り戦いの地へと赴く。

 やがて、正面からは別の牛がこちらに近づいてきた。第一試合に負けた喇武勇らぶゆう音里おんりだ。綱を引く男も、付き添う者たちもみな顔を伏せ、肩を落としている。牛の顔つきもどこか悲し気にみえた。

 この島の男たちは闘牛を育てるために時間も金も生活の大半を注ぎ込む。一日たりとて、牛のことを忘れることはない。夜、飲み歩いていている若者たちが、牛のためにといって散会することもよく見る光景だ。

 皆、我が牛の勝利を信じて戦う。

 だからこそ、負けたときの悲しみは勝利のそれにもまして大きい。

 通り過ぎる後ろ姿を見送りながら、翔真は考えた。

 あと数十分後に、あの姿でこの通路を通るのは、自分たちか、それとも、虎徹か。

 自然と綱を握る手に力がこもる。肩から斜めにかけた勢子のタスキが、今はやたらと重く感じられた。

 リングからは、いまだに勝利の喜びに狂喜する人々が発する「ワイドワイド」のにぎやかな掛け声が続いていた。

 通路の外で様子を伺っていた力太郎が、小走りに戻ってきて耳打ちした。


「ヤドリのそばに大きな運搬車が一台入ってきた。おそらく虎徹だ」

「ずいぶんと余裕ぶったご登場だな」


 闘牛は賢い生き物だ。普段はのんびりとした生活をしている牛も、この闘牛場の空気にあてられると、途端に闘志を燃やすようになる。だからこそ、牛主たちは闘牛大会が近づくにつれて、少しずつ牛の気分を高めるように、角を研ぎ、食事を減らし、出番が近づくと、こうやって会場の熱気を感じ取らせるのだ。

 とはいえ、今回は虎徹と顔を合わせなくて済むならば、そのほうがいい。対戦前にあの男と顔を合わせれば、これまで集中してきた気力が途切れそうだ。

 リングでは数分前に花形戦第二試合が始まっていた。かなり実力が拮抗しているらしく、壮絶な角突き合戦が繰り広げられていた。この島の闘牛のルールでは、どちらかの牛が戦意喪失するまで続けられる。時には三十分を超える取り組みになることもある。通路の中ほどに立ち、無言でリング内での戦いに視線を送っていた翔真がぽつりといった。


「リキ、お願いがあるんだ。もし、三年前のときのように、虎徹の牛が暴走をしたときは、リキはすぐリング外に逃げてくれ」

「おい、なにをいってるんだ? 俺も戦うに決まってるだろ」

「ダメだ。万が一、おれもリキもやられてしまったら、誰が桃華や若葉を守ってやれる? 二人してあの狂気の的にならなくてもいい」

「だけど、翔真」

「もちろん、負けるつもりなんてないよ。けれど、若葉のことを思えば、やっぱりリキが残ってくれた方がいい。おれはまだ桃華に何も伝えてないから」

「なかったことにできるってのか?」


 翔真は無言でうなずいた。すると、力太郎がぐしゃぐしゃと翔真の頭を大きな手で鷲掴みにして髪をかき乱した。


「ちょっと! リキ!?」

「馬鹿野郎! お前のほうこそ、思いも伝えてねえうちからくたばるつもりか! 違うだろ! 俺たちは勝つんだ。勝って、みんなで笑顔になるんだ。寝言は取り組みが終わってからにしろ!」


 力太郎は角を立てたこぶしを突き出した。翔真も同じくこぶしに角を作ってぶつける。力太郎が考案した闘牛士の挨拶。まだこの島の中どころか、勢子たちの間でも全然浸透していないけれど、それでいい。こうやって、こぶしを合わせるだけで、ほんの少しの勇気が湧くし、気持ちは何倍にも高揚するのだから。

 場内がひときわ大きな歓声に沸いた。どうやら勝負が決したらしい。島太鼓チヂンの乱れ打ちの音に若力が耳をぴくりと動かして、顔をあげた。


「出番だぜ、翔龍若力」


 力太郎が若力の首筋をぱんと平手打ちした。それに応えるように「ムオォウ」とゆっくりと声帯を震わせながら、若力が前脚を二度、力強く踏みしめた。


     ♉


「さて、第三試合は指名特別戦! 今回はなんと! 両者とも現役の三津間高校生同士という高校生対決! この島の闘牛界の将来を背負って立つのは果たしてどちらの牛か!

 注目の一戦、まず登場したのは、三津間高校生物部の『翔龍若力』! 勢子は鶴野翔真! 三年前、春疾風の不運の事故からのカムバック第一戦は、なんと、春疾風の弟牛というまさに運命の巡り合わせ! 九重島から闘牛の島、奥乃島に渡ってきた黒い竜。堂々の入場です!」


 大会の名物アナウンサーが格闘技大会の登場コールのような、派手な呼び込みをする。最近の牛たちのリングネーム化の原因の一端は、このアナウンサーにもあるだろう。

 力太郎が露払いとして先行し、手にした真塩を撒いて道を清める。翔真は翔龍若力の綱を引きながら、その後ろを堂々とした足取りでリングの中央まで進み出た。三年ぶりに立つリングは、むせかえりそうなほどの熱気に満ちていた。つっと頬を伝った汗が、翔真の細いあごから零れ落ちる。


「翔真ぁー、力太郎ぉー。キバレよぉーっ!」


 スタンドの上段からひときわ大きな声が飛ぶ。見上げると、友樹が両手をメガホンにして叫んでいた。翔真は歓声にこたえるように、右手をあげると、口を一文字に引き結んだ。若力も戦意を高揚させるように、何度も角を地面にこすりつけ、前脚で土を掻いた。

 やがて、花道の奥の方に、大きな黒い影が映る。


「さあ、対するは、これまた今回初参戦。一ノ瀬町の闘将、奥島会病院長肥後義将の長男にして肥後家の三代目、肥後虎徹が放つ秘密兵器。殺し屋と恐れられた烈豪鬼虎にいとも簡単に勝利したという、闘牛界のダークホースならぬダークブル! 殺し屋をも恐れぬ鬼神となるか、『雷神らいじん威虎たけとら』!」


 重々しい足取りで入場してきた雷神威虎が若力と一直線上で立ち止まり、黒曜石のような瞳でぎろりと睨む。若力も威虎から目をそらすことなく、相手の挙動を凝視している。

 雷神威虎は若牛ではあったが、体格は翔龍若力とほぼ同じ、八百キロを超えるだろう。

 鋭い槍のような長い角は、左がほぼ真上にむけて伸びたタッチュー型で、右が大きく開いて湾曲するトガイ型という左右不ぞろいな珍しいタイプだ。特に、あの左角の長いリーチは相手を懐に飛び込ませずに、自分は突き技を繰り出せる。厄介なシロモノだ、と翔真は一見して判断した。

 威虎の傍らに立ち鼻綱を握る虎徹が、不気味に歯を見せた。


「よお、鶴野のボンちゃん。闘牛ごっこで今度は誰の足を切り落とすつもり? もしかして、肉団子先輩を盾にするのかなぁ? おいたはダメよぉ」

「ふざけてる場合か? リングでの油断は命とりだって、勢子ならみんな知ってる」


 まだ立会いもしていないのに、翔真の首筋には玉のような汗が幾筋も流れて、Tシャツの襟首はびっしょりと濡れている。緊張はすでにメーターを振り切って、どくどくと心臓が全身に血液を送る音が脳内に響いてきている。

 ところが威虎は間合いの外で身体の側面を見せるように、悠々とした足取りで左に歩き、すぐに脚を入れ替えてまた正面にむいた。

 若力を挑発しているのだ。

 若造に余裕ぶられて苛立つように前脚で土を掻く若力の背に手を置き、ゆっくりと撫でながら「集中しろ、集中しろ」と翔真は何度もいい聞かせるように呟く。

 立ち合いで有利な体勢を取らねばならない。間を誤れば、あっという間に押し切られて負けるだろう。挑発に乗ってその一瞬を見逃してはいけない。

 若力が軽く口をあけ、ブフゥと深く呼吸した。落ち着きを取り戻し、気合を入れた印だった。

 虎徹がつまらなそうに舌打ちをした。

 じりじりと、二頭の間合いが狭まる。翔真は若力の背に右手を置いたまま立ち合いの瞬間を図った。

 観客も息を呑み、しんとした空気がリングに落ちる。

 威虎の長い角があと数センチで若力の顔面に届かんとしたその瞬間、翔真は右手を大きく振るって若力の背に強烈な平手打ちを放った。


「やれぇっ! 若力っ!」


 若力の足元の土が弾け飛んだ。

 ガコンと岩どうしをぶつけ合うような衝撃音がリングの天井にはね返り、どおっと観客席が湧き上がる。しかしすでにこの瞬間、集中する翔真の世界には若力と威虎、そして虎徹だけしか存在していなかった。

 若力の鼻綱を抜き、再度の肩に平手を打つ。背中の筋肉が波打ち、若力がぐんと大きく前進し相手を押し込む。

 土煙を上げながら威虎は後退するが、すぐに踏みとどまり、膠着する。

 真っ直ぐに伸びた左角を警戒したためか角掛けが甘く、若力の力が伝えきれていない。これでは片手で組み合うようなものだ。

 翔真の懸念通り、威虎は首をぶんと降って角を振りほどくと、その勢いに乗せて、曲がった右の角で若力のこめかみを狙う割りを繰り出す。

 ガンと音を立て、自らの角でその攻撃を防御したかと思えば、すかさず今度は槍のような左角が眉間を狙って飛んでくる。

 首を低くし紙一重のところでその突きをかわし、お返しとばかりに若力がすくいあげるような動作で、アッパー気味に相手の横面めがけて角を打ち付けた。角先で突く攻撃に比べて威力は弱くとも、巨大な鈍器でぶん殴るようなもの。間合いをとりつつ、相手へのダメージを蓄積させることができる。

 しかし、威虎にはまるで効いていないのか、その攻撃を気にも留めずに、ふたたび割りと眉間突きマキツキの連続技を叩き込んでくる。

 その華麗な技の応酬に観客席は、横綱戦さながらに盛り上がるが、その歓声すら集中する翔真の耳には届かない。

 勝つためには、まず相手の牛をよく見ろ。相手の動きを見極め、牛を動かせ。突きでくるか、割でくるかそれとも、角掛けか。

 敵の一撃が致命傷になることはあたり前にある。

 だが、敵の体力にも限りがある。

 無駄な攻撃をくりかえせばスタミナが奪われる。

 相手の攻撃をかわしつつ勝負どころを見極めろ。

 頭の中では清正の叱咤が繰り返される。

 この一か月間、毎日毎日特訓を繰り返してきた翔真と若力は、お互いに意図を汲み取るように的確に狙った通りに動けている。

 右角で割りを狙いに来た威虎に外からの角掛けで応戦し、首を抑え込む。そのまま「く」の字で組みあいながら、若力が押し込むと、威虎はうまく体をさばいて、力を逃がそうとする。頭を突き合わせたまま、その場でぐるぐると円運動をしたかと思うと、またぴたりと膠着する。

 これほどの激しい技の応酬を繰り広げているというのに、二頭ともまるで呼吸が乱れる様子はない。

 若力のスタミナがついてきたというのは、実感していたが、威虎の持久力も並外れているのだ。これは長期戦になるかもしれない。

 翔真は組み合った形からすこし若力を引かせると、すかさず小刻みに相手の顔を突く作戦に切り替えた。少しでもダメージを蓄積させスタミナを奪うつもりだった。

 しかし、威虎は若力の突き技にはかまわず、二本の角を巧みに使い執拗に若力のこめかみと眉間を狙ってくる。

 それはまるでノーガードの打ち合いだった。体の位置をすこしずつ移動させながら、お互いに相手の顔をめがけて角を振り下ろす。そのたびにガツ、ゴツと角と角、頭骨と頭骨が衝突する鈍い音が鳴る。

 やがて、角突きの応酬を繰り広げる威虎の角の先が赤く染まっていることに翔真は気づいた。はっとして若力に目をむけると、眉間の肉が切れ、目の上の毛が血が滲んで光っていた。

 ほんの一瞬、翔真の心に迷いが生じた。このまま角突きを続けさせるか、それとも強引に力で組み合うか。

 そのほんのわずかのスキをついて、虎徹が威虎の体に平手を放って叫んだ。


「やれぇっ!! ぶっ潰せえぇっ!!」


 スチームバルブが壊れたような息を吐いて、雷神威虎が跳躍するように突進してきた。

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