第34話 何のために?

 翌日から桃華は学校を休んだ。その後、彼女が姿をみせたのは期末テスト当日の朝になってからだった。ただ、力太郎たちとは挨拶すら交わさなかった。

 三日間実施された期末テストの最終日。最後の試験科目である数学のテストが終わり、ようやく解放されたとばかりに力太郎が両手を組んで前に突き出し、ぐっと伸びをしていると、ポケットの中で携帯電話が振動した。

 こっそり取り出して確認してみると、桃華からのメールだった。

 何事もなかったかのように、さっと携帯電話を机の中に突っ込むと、周囲を確認するように見まわしてから、改めて手元に視線を戻した。赤い通知マークのついたメールのアイコンをタップすると、ディスプレイに桃華からのメールが浮かび上がった。


『生物部はわたしに関わらないで』


「そうか、リキにも同じメールがいってたのか」

「ああ」


 拒絶するような桃華からの短い文面は翔真と若葉にも届いていた。無意識にスマートフォンを握る手に力がこもる。冷静になれと、何度も自分にいい聞かせ、力太郎はなんとか気持ちを落ち着けた。


「それにしても、どうしてわざわざこんなメールを桃華は送ってきたんだろう」

 翔真が小首をかしげると、若葉がぽつりとつぶやいた。

「もしこのメールを肥後君に見られたとしても、きっと彼は言葉通りに受け止めると思う。でも、自分の決断を次の大会の結果に委ねたのは、桃華ちゃんのほうでしょ? それをわざわざこうして、桃華ちゃんは言葉として送ってきてくれた。わたし、これは桃華ちゃんが、今できる方法で送ってくれたエールなんじゃないかって思う……」


 一瞬、時が止まったかのように、力太郎と翔真はぴたり動きを止め、若葉の顔をじっとみつめた。その視線に動揺したのか、若葉が迷子の子供のように、「あの、だから……」と、目を泳がせながら言葉を探している。

 すると、力太郎はニカッと若葉に笑いかけて、若葉の両肩をがしりと掴んだ。


「そうだ。ワッキーのいう通りだ。これはきっとモモから俺たちへの『負けるな』っていうメッセージなんだよ! 闘牛で勝つためには、余計な心配をしている場合じゃねえ。そんな暇があるなら、若力のトレーニングをしろっていってるんだ!」

「で、でも……そうだって決まったわけじゃ……」


 ますます混乱したようにおどおどとする若葉の肩に置いた手に、さらに力をこめて力太郎が翔真もにこりと柔らかな笑みを返す。


「いいんだよ。そう思うだけで、俺たちはそれを支えにしていけるんだ。ものの考え方なんて、受け取った側の価値感でしかない。その価値に気づかせてくれるのは、いつもワッキーなんだ。だから、ありがとうな、ワッキー」

 

     ♉


 期末テストが終了したこともあり、清正による翔龍若力のトレーニングを開始することになった。

 放課後、三津間町の清正の自宅に立ち寄ると、彼は軽自動車に乗り込み、若葉を助手席に乗せると「自転車でついてこい」といって、西にむかって走り出した。

 しばらく走ると、周囲は次第に雑木林に囲まれ、道幅も対向車とすれ違うのも難しいくらいの細い農道になる。その後、少し開けた場所に出たところで、ようやく清正のトラックが停車した。

 見渡すと、あたりはきれいに手入れされたミカン畑が広がっていて、その一角に、周囲を簡素な壁で囲った小屋があった。そこには翔龍若力のほかに、三頭の闘牛が繋がれていた。


「すげえ、清正オジ、こんなにたくさんの闘牛を飼っていたのか?」

「そうだ。ただし、こいつらを闘牛大会に出してもまず勝てない。なぜかわかるか、力太郎」

「その弱い牛を、清正オジが調教して強くするってことじゃないのか?」

「そうじゃない。いいか、弱い牛だからといって、闘牛として価値がないわけじゃない。翔龍若力はこいつらと戦って勝つことで、自分の強さに自信を持つようになる。牛だって生き物だ。自分が強いという自覚を持つことで強くなる。要は思い込みが大切ということだ。力太郎、翔龍若力を連れてこい」


 牛舎のすぐ近くに太い鋼管を円形に組んだだけの簡素な闘牛場があった。

 真夏の太陽が容赦なく照り付ける屋外闘牛場で、二頭の黒牛がむかい合った。もちろん、一頭は翔龍若力。そして、もう一頭は清正が飼っているパンダという牛だった。頭頂部分から眉間を通り、鼻のあたりまでが白毛に覆われていて、目の周りが黒いパンダ模様に見えることから、パンダという名前になったのだという。ちなみに、牛舎にいたもう一頭の黒毛の牛はクロ。そして赤毛の牛はアカといった。


 対戦が始まると、若力は真っ向勝負とばかりに角掛けを狙ったが、パンダはしきりに首を動かしながらその攻撃をいなし、逆に首をひくく下げて、カウンターを放つように、頭突きで若力のあごを突き上げた。そのタイミングを狙って、パンダは若力の右側に回り込み後脚を力強く踏み込んだ。たまらず、若力は五メートルほども後退した。


「くそ、若力! 気を抜くな!」


 力太郎は若力を鼓舞しながら、攻撃に転じるタイミングをうかがう。若力も首を振ってパンダの角掛けから逃れ、強烈な頭突き合戦を繰り広げる。スキをついて力太郎が若力に攻撃を促す平手を打つ。しかし、若力のその眉間を狙った攻撃も、すんでのところでかわされ、またも角の掛け合いに持ち込まれる。

 そうやって十分以上も角掛けの応酬が繰り返される。押しては引き、引いては押しを繰り返す。攻めているのに攻め切れていない。若力の決定力不足が余計に焦りを生む。


「くそ、若力! 回り込め! 腹取りで一気に決めろ!」


 叫びながら若力に平手を打とうとした瞬間、力太郎は右手を掴まれた。はっとして顔をあげると、清正が真剣な表情のまま、力太郎の手首を握りしめていった。


「いったん止めろ、力太郎」


 翔龍若力とパンダを引き離すと、清正は悔しそうに唇を引き結んでいる力太郎にきいた。


「力太郎。お前、何のために闘牛をしている? なぜ、牛を戦わせている?」

「なんのって……もちろん、勝って島一番になるために……」

「そんなことは百も承知だ。けどな、力太郎。何を焦っている。なぜ勝負を急ごうとする?」

「それは……俺たちで若力を育てられるのは、あと一年半しかないから、全島一になるためには、絶対に負けるわけにはいかないから」


 口から出たでまかせだった。

 当然、次の大会で負けられない理由は、虎徹の存在だ。この勝負に負ければ、桃華が虎徹にどんな目にあわされるのか、わかったものではない。彼女を虎徹から守るには、負けは許されないのだ。

 しかし、そんなことを清正に話せるはずもない。ようやく、こうやって調教をしてもらえるようになったというのに、そんなくだらない理由で戦っているのだと知れたら、調教どころか大会の参加さえ取り下げられかねない。


「しかし、若葉ちゃんは一度でいいから、あの全島大会のリングで勝つ姿を見たいといって、全島一になりたいとはいわんかった。翔真はどうだ? 全島一になるために牛を育てるのか?」

「もちろん、やるなら全島一を目指します。でも……一戦一戦を大事に戦って、勝ちを積み上げた先に、全島一という称号があると思う」

「その通りだ。いいか、力太郎。お前の勢子は勝利を急ぐあまり、小手先の技に頼ろうとしがちだ。たしかに、勢子の技術は試合の優劣に大きく影響する。けれど、戦うのは翔龍若力だ。若力ができないことを勢子が無理やりさせても意味がない。今の若力ができることを見極め、その力でどうすれば、相手の弱点を突けるのかを判断する。それが勢子だ」


 ドがつくほど正論だった。力太郎が口をつぐんでいると、清正が続けた。


「ところで、まだ教えておらんかったが、次の大会の対戦相手のことだが……」

「肥後虎徹、だよな」

「知っていたのか。まったく。連盟には口の軽いやつがいるとみえるな」


 呆れて息をつく清正に、力太郎がいう。


「虎徹が勢子をするってことは、対戦する牛は烈豪鬼虎なんだろ? そいつは翔真の春疾風を廃牛に追い込み、俺からももタロを奪った仇なんだ。だから、余計に負けたくない」


 このとき、力太郎はそれを口実にできるのではないかと思った。桃華のことを隠しておいたとしても、翔真も力太郎も、それぞれ一度負けた牛へのリベンジに、力が入るのはごく自然なことだ。ところが、予想だにしない答えが清正から返ってきた。


「鬼虎は出てこん。あれは近々処分される」

 力太郎は我が耳を疑うように、目を見開いた。

「鬼虎じゃないって、それじゃあ……」

「対戦相手は雷神威虎らいじんたけとら。あの鬼虎を稽古台のようにねじ伏せた若牛だ」

「鬼虎を稽古台のようにって……ちょっと待ってくれ……それ、本当なのか?」

「ああ、先週の月曜日に、連盟理事の立会いで試しをしたらしいが、その場で、あっという間に鬼虎を倒してしまったそうだ。こいつも翔龍若力と同じく今回が公認大会デビューで、まだ四歳だ。まあ、今、対戦の心配をしても仕方がないが……正直、今の若力と力太郎で簡単に勝てる相手じゃない」


 まるで余命宣告でもされたかのように、力太郎は愕然とした表情になった。すがるような目をむけると、懇願するように声を張った。


「それでも、俺たちは絶対に勝たなきゃいけない。負けるわけにはいかないんだよ! 教えてくれ、清正オジ! 若力が勝つためにできることなら、なんでもする!」


 品定めするような厳しい視線をむけていた清正は、ほんのいっとき逡巡するように目を閉じて黙り込んだ。そのわずかな時間を、力太郎は息をのんで待った。やがて、判決をいい渡す裁判官みたいに低く威厳のある声で清正がいった。


「ならば力太郎。お前ではなく翔真に勢子をさせる。いいな」

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