第32話 決別

 いったいどのくらいの時間、このコロセウムの客席に座っていたのだろう。ぼんやりとした現実感のない桃華の意識は、ドーム屋根に反響する声に引き戻された。


「モモッ!」


 顔をあげると、リングをはさんだ、むこう側の観客席の上段に力太郎がいた。すでにリング内に烈豪鬼虎の姿はなかった。迷子の我が子を探す親のように取り乱した様子で駆け寄ってきた力太郎をぼうっと見上げる。


「リッキー……なんでここにいるの?」

「そりゃこっちのセリフだ。こんなところで、なにしてんだよ。探したんだぜ」


 力太郎は顔中汗にまみれ、息を弾ませている。言葉通り、桃華のことを探し回っていたんだろうと察しがついて、嘘をついてしまったことに、チクリと胸が痛む。しかし、桃華はなんでもない風を装って、いつものようにつっけんどんにいい返した。


「別になんでもないし、リッキーにも関係ない」

「ああ、そうだろうな。けど、俺は友人としてモモにいっておきたいことがある。一年の肥後虎徹ってやつに近づくな。あいつは自分の目的のために手段を選ばない男だ。だから……」

「わざわざそれをいう為に探してくれてたんだ?」


 そういって桃華は俯いた。瞬きに合わせてくるんとカールした長いまつ毛が何度か上下する。やおら立ち上がると、桃華は力太郎とむき合った。


「ありがとう。でも、私ね、肥後君と付き合うことになったから」


 そういうと、桃華は唖然とする力太郎を残して、観客席の階段をのぼっていく。


「モモ! おいモモ待てよっ!」


 力太郎が呼ぶ声を置き去りにして、振り返ることはなかった。

 胸の奥が大きく波打つように苦しい。

 力太郎はいい男だ。

 見てくれはつぶれた饅頭みたいで、イケメンとは程遠いけれど、いつも桃華のことを心から気遣ってくれて、本当のきょうだいのように接してくれる。喧嘩をすることもあるけれど、次の日にはケロっとした顔で、「よう、モモ!」なんて笑ってたりする。自分のことを町長の娘ではなく、龍田桃華として認めてくれる大切な人。

 でも、だからこそ力太郎を傷つけたくない。

 父親のスキャンダルくらいどうということはなかった。むしろ、それで町長の娘という枷がはずれるのなら、喜ばしいことだとさえ思った。けれど、やはり力太郎たちを自分自身の問題に巻き込むわけにはいかなかった。

 離島留学プログラム。

 里親手当金の拡充。

 数年ぶりにやってきた留学生。

 父親の隠し子。

 それらのピースを繋ぎ合わせ、桃華の中でひとつの答えを導き出したとき、桃華は決心した。

 自分がすべてを背負えばいい。そうすれば大切な仲間を傷つけることもない。そのために、力太郎たちとは同じ学校の生徒同士というシンプルな関係になる。そうすることが最良の選択なのだと。

 降り出した大粒の雨は、あっという間にアスファルトを藍鉄色に塗りかえていった。終わらない花火の残り火のような音が弾ける中を、ずぶ濡れになりながら、家までの道のりを桃華はただ無心で歩き続けた。


     ♉


 力太郎にとって、桃華は特別な存在だった。

 それを意識し始めたのは、中学校に入ったころだったと思う。

 そのころにはすでに、力太郎は和牛生産農家を営む実家の牧場を継ぐと決めていた。

 両親は、大学くらい出ればいいのにといったが、力太郎は「四年間も闘牛しない生活なんて考えたくねえよ」と、にべもなく答えた。

 むろん、それが本心だったわけじゃない。ただ、自分が都会に出て、何がやりたいのかも、何ができるのかもわからなかっただけだ。

 けれど、桃華は違った。

 今でも桃華のお気に入りの場所は、三津間港のフェリーターミナルの突堤だ。そこは、この島と外の世界とがつながっている場所で、桃華にとって手を延ばせば届きそうなほどに、夢に一番近い場所だったんだと思う。

 そこからフェリーに出入りする人びとを眺めては、瞳をキラキラと輝かせて、高校を卒業したら必ず自分も東京にいくのだと、夢を語る桃華の横顔も、水平線のむこうに消えていくフェリーをただ見つめているだけの時間も、力太郎にとって何ものにも代え難い、かけがえのないものだった。

 いつか、桃華はあの水平線のむこうに手を伸ばして、夢を掴み取るだろう。そう思わせる熱量をいつも放っていた。

 そりゃあ、ときにはその熱意が子どもっぽく思えることもあるし、それを周囲が「東京ばか奈」なんて揶揄していることも知っている。だけど、そんなものは桃華には逆風にすらならないことも、力太郎はよく理解していた。

 なによりも、桃華の夢を詰め込んだ気球に、自分自身の中にあった都会への仄かな憧れや、わずかばかりの希望を一切合切託しているのは、他でもない力太郎であり、その気球を大空に放つことが、今の力太郎の願いでもある。

 けれど今、その牧歌的な願いが、どす黒い不気味な力で、強引に引きちぎられようとしていた。

 力太郎が桃華のことを特別に思っているからといって、それを相手にも求めているわけではない。ただ少なくとも、お互い困ったときくらい、手を差し伸べあえる仲間だという自負くらいはあった。

 なのに、それすら、今の桃華には、何の役に立たないのだと突きつけられた気がして、胸の奥にちくりと刺さったその棘のような痛みが、徐々に全身に広がって熱を帯び始めていた。


     ♉


 翌日、力太郎たちは登校してくる桃華を昇降口で待ち構え、食堂まで連れ出した。テスト前ということもあり、朝一番の食堂はひと気がなく、閑散としていた。


「それで、何の用事かしら。

「なんだよ、いつもみたいにショーマって呼べばいいじゃないか」


 翔真は桃華に苗字で呼ばれたことに、ひどく困惑した様子で、声のトーンを荒げた。

 桃華はあからさまに不機嫌そうな声で「用事がないなら戻るわよ」と背を向ける。その腕を咄嗟に若葉が掴んで、引き留めた。


「桃華ちゃん、本当に肥後くんと付き合うことにしたの? どうして?」

「別に、高校生の男女交際なんて珍しくもなんともないでしょ? どうしてそんなことを生物部に干渉されなきゃいけないの?」

「別に、干渉するわけじゃないけれど……でも、桃華ちゃんに限って……」

「何? 私が男子と付き合っちゃダメなわけ?」

 取りつく島もなく、若葉はもどかしそうに「そうじゃないけど……」と首を振る。 

「私はもう子どもじゃないの。自分のことは自分で決められるわ。生物部は今まで通り、仲良く三人で闘牛やればいいじゃない。わたしを巻き込まないで」

 突き放すように、冷たくいい放つ桃華に、若葉は俯いて黙り込んでしまった。

「用事はそれだけ?」


 そういってこの会話を終わらせようとした桃華に、力太郎が重苦しい口調で「モモ」と呼びかけた。


「昨日、モモは『付き合うことになった』っていったよな。『付き合うことにした』じゃなくて。付き合うことを決めたのはモモ自身だとしても、そうせざるを得ない理由があったんじゃないのか? どうなんだよ」


 ものの数秒もない時間だったが、桃華が口を結んで力太郎のことをじっと見つめた。しかし、結局「そんなものはないわ」と事務的に返答して、そのまま桃華は食堂を出ていった。

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