黙示のメディカル・レコーズ(3)

 その店、居酒屋『喜すけ』は住宅街にある。でかでかと店名を書いた紺の垂れ幕がなければ、単なる家屋と見間違えそうな外観だ。


 暖簾をくぐると、見回すまでもなく目的のテーブルが目に入った。白のボタンダウンシャツにジーンズを履いた長身の男が、お先に、という顔をしてジョッキを掲げる。190 cmを超える背丈のその男が座るテーブルは、客足のまばらな夕方の店内において異彩ともいえる存在感を放っていた。俺はそいつの向かいの席へと歩き、注文を聞きに来た店員にビールを頼んで椅子に座った。


 その男、高杉は聖叡智ソフィア病院の職員だった。ちょうど1年前に辞めた元・放射線技師。当時はよく治療装置に頭をぶつけていたなぁ、と思い出す。頭突きでリニアックを壊されなくて本当に良かったが、医学物理士が「照射中心がちょいちょいズレるんですよねぇ」と首を捻っていた原因は高杉コイツにあるんじゃないかと俺は踏んでいる。


 リニアック。直線加速器リニア・アクセラレータを省略して作られたその造語は、我々の業界では外部照射放射線治療装置のことを指す。がんの三大治療法の一角たる、放射線治療を支える要石のひとつだ。


 ちなみに外部照射の他には、患者の体に放射性物質を埋め込む小線源治療や、放射性物質を注射する内服照射がある。原発事故で騒がれたヨウ素129はバセドウ病甲状腺機能亢進症の治療薬でもある。毒をもって毒を制す。それは別に放射線治療に限ったことじゃない。要は使い方なのだ、使い方。


「すまん、待たせた。患者の説教に時間を食ってな。」


俺は店員を礼を言ってビールを受け取ると、高杉と軽くジョッキをぶつけあわせ、ゴキュゴキュッと喉の奥へとビールを流し込んだ。美味い。サーバーの手入れこそがビールの味を決定づける。少々値は張るが、ここの店主は相変わらず良い仕事をする。


「患者の説教って、まったく相変わらずですね。まぁたいして待ってませんし、先に始めてましたんでお気に、なさら……ぶぇっくし!……あー、失礼しました。まったく先生、花粉を払い落としてから入って来て下さいよ。」


そう言ってくしゃみをした高杉は、ポケットからティッシュを取り出して鼻をかんだ。


「そういや花粉症だったな、お前。」


「まったくこの季節になると嫌になりますね。無花粉の杉が開発されてるのに、未だに花粉を飛ばすスギを植え続けるなんて、どうかしてますよ。」


「たしか林業業者の認知度が低くて広がってないんだっけか。」


「普及率たったの15%ですよ?日本人の4割近くがスギ花粉症だってのに、年間1500万本ものアレルゲンをせっせと植えているって話ですから。」


「そういや、花粉症をなくすってマニフェストを掲げてる政治家もいたなぁ」


「そうそう。こんなんじゃ花見に行く気もしませんよ。経済損失7千億円って言うんだから、もっと税金を突っ込んでいいでしょうに。補助金で無花粉の苗木なり他の樹種なりを値下げすりゃいいんですよ。ここまで政治色が強い案件だってのに、そんな政策をろくな根拠もなしに批判する政治家やマスコミがいるなんてほんとどうかしてますって。」


「バカなんだろうなぁ。」


「それとも嘘つきか。」


「誠実でありたいもんだ。」


「職業柄、難しいんじゃ?」


「はっ、ぬかせ。」


外国じゃイネ科とか他の花粉に悩まされているらしいから、そこまで単純な話でも無さそうだが。まぁ国内の林業活性化には効果的だろうか。俺はひとまずビールでそれらの言葉を流し込み、話題を変えることにした。2年前にも同じ話題で4時間に渡る議論にもつれ込んだのだ。高杉は基本的に寡黙な男だが、自分の興味があることには饒舌になる。実に面倒くさいかつての同僚を前にして、苦笑いに近しい笑みが溢れた。


「ところで塾の調子はどうだ?」


「ようやく軌道に乗ってきたところですよ。口コミで生徒が集まるようになってきました。あまりたくさん来られると見きれないので、そろそろ募集をやめようかと思っているところです。うれしい悲鳴ってやつですね。」


「そいつは何よりだ。病院を辞めて起業すると聞いたときは驚いたが、そいつが学習塾とは思わなかったよ。お前のことだ、どうせ結構儲けたんだろ?」


「いやいや、滅相もない。ようやく黒字転換したところですよ。まぁこれからってところです。」


この少子化の時代に学習塾を開く。実に無謀とも思える選択肢で、今この男は成功を掴もうとしている。高杉は病院勤めの時からそうだった。失敗に繋がる異質な要素に鋭敏に反応した。ぼんやりとした、確率の波のようなものが見えている。それが俺の高杉に対する評価だった。


「それより先生、そんな話をするためにわざわざ呼び出したわけじゃないんでしょ?」


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