前編:征野



どこからともなく聞こえる撃鉄の叫びが、硝煙に塗れた空気を鈍く震わせる。灰色の煙が昇る空は、赤と黒の雲で蓋をされ光が刺す隙間はない。夕暮れ前だというのに既に周囲は黒く、見えるものは遥か彼方の銃口の爆発だけだった。松明も既になぎ倒され、もはや自分たちの軍勢に光はない、そう確信するに足る状況だった。

 今ここで戦うことに、もはや理由はない。かつてはあったのだろうが、戦争があまりにも長く続く中で、誰もが思考停止していた。

 理由を見つけなくとも、敵をすべて倒せばいずれ終わる。その結論を急ぎすぎた結果、戦争の究極的な到達点以外に打開策さえも提示されず、敵でさえも理由なく戦いを続けている。

 この泥沼の中を、一体どれだけの兵士が“まとも”な思考で駆け抜けることができているのか。今の自分にはそれすらも分からず、自分もまたこの戦争の狂気に飲まれているのでは、と思うとぞっとする。目の前の名も知らぬ人間を、何の躊躇いもなく一刀の元に切り殺すことが当然だと考えてしまえるあたり、自分も思考が徐々に狂ってきている、と実感できてしまえるのだから――。


 膚李はだりは一人、暗黒の混沌の中で戦っていた。灯りも満足になく、敵の銃弾がいつこちらに飛んでくるか分からない状況の中で。友軍の大半は新兵だからだろうか、撤退を始めてしまっていた。暗闇の戦場という、未知の累乗の恐怖は新平の未熟な精神にはいささか耐えきれるものではなかった。

「……戦えるのは僕一人だけか。いつものことだって思えるのは、そろそろ僕もダメになってきたかな」

 膚李は一人、自分に向けられた銃口の気配を感じつつも、決してそれに臆することもなく平然と腰の刀を抜いた。

「周りの兵士はざっと五十人……。近接戦ならばまだ僕一人でも何とかなる。問題は銃兵だ。暗闇だから、弾丸の音を聞いてから反応するのでは遅すぎる。この暗闇を逆手にとって、なるべく乱戦状態まで持ち込む。今はそれしか手はない」

 膚李は冷静に周囲の状況を分析し、頭の中である程度の戦略を練った。

 しかし、この戦略もあくまで自分にとっての理想的な動きをするためのものにすぎず、敵の出方次第ではその順序もことごとく狂う。いかに相手に悟られることなく、自分の作戦行動の中に誘導できるか。一対五十、もしくはそれ以上の状況を打開するにあたって、膚李はまず自分から行動を起こすことにした。

「恨みはない……それでも、生き残るためには、人を殺すしかない。それが戦争だ」

膚李は自分に言い聞かせるように呟くと、刀をより強く握りしめ、一人敵陣の中へ駆けていった。


  静まり返っていた夜の戦場に、光は刺さない。松明も大砲の爆発や敵との戦闘でなぎ倒され、その炎もまた、地面でほんの微かな残滓を残しているだけで、光を照らす力は残していなかった。

 その暗闇の中、周りの兵士の首が、不意に空を舞った。側にいた兵の眼前にごろりと転がる顔は、目の前で何が起こったか分からぬまま死んだ、死に顔とは程遠い呑気な顔を浮かべていた。あまりにも一瞬の出来事に、敵兵は一人呆気にとられていた。そして、ようやく我に返ったその顔から生気は消え失せ、底知れぬ恐怖の闇が口を開けていることをようやく悟った。しかし、恐怖に塗れた叫びを上げる前に、その声は口を通ることなく、最後の呼吸となって空中に霧散した。

 松明の残滓が、血に塗れた刀と瞳孔から光を消し戦士――殺戮者という方が妥当か――と化した膚李を捉える頃には、既に五人が死体と変わっていた。その間、わずか三十秒足らずだった。


──僕の前に、命の抜け殻が転がっていく。さっきまでその人間の個性を顔として主張していた部分から、赤黒い血液が滝のように流れ、錆び付いた血生臭さを生温い風に乗せていく。僕の鼻先をつんとつく風が鳴りやむと同時に、仲間の死に怯え、怒り、西洋仕込みの剣を向ける兵士たちが周りを取り囲んでいた。僕には、それは当たり前の光景だった。人を殺せば、その周りには様々な感情が巡ってくる。恐怖も、怒りも、果てはほんの少しの偽善でさえも。それは、人間としては当たり前なんだ。そうやって自分を守り、壊れないようにする。戦場ではその機能が働くかどうかで、人間としての自我を保っていく。

 けれど、僕にはその感情は芽生えない。人に対する悲しみや、自責の念はあるというのに。

 人を殺すことへの恐怖、首を跳ね飛ばすときの刀と骨がぶつかり合う重さ。そして、それを見ている周りの人間の視線。それを感じていても、僕の心は何一つ動じることはない。今だってそうだ。。僕に向かってくる敵の首をまとめて跳ね飛ばし、槍を持った敵は腕ごと切り裂いたとしても。今の僕には、良心の呵責はあっても、人間的な悲しみや恐怖は湧き上がらない。自分でも分かるくらいには淡々と人を殺している。

 今、僕が一番恐怖しているものは、紛れもなく自分自身だ。戦場に出れば、出る前までは持っていた悲しみも虚しさもどこかへ行き、恐ろしいまでに大勢の人間を一人で殺していく。僕の力でさえも、何故ここまでの力があるのかさえ分からない。

 ただ、この力を使い、敵を倒さなければ、その答えを探すこともできない。ならば、僕は戦うしかない。


生きるか死ぬか、そのどちらかだけ。だからこそ、この世界はあまりにも残酷なんだ。



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