新釈お伽草子――竜の宮に帰る日は

里内和也

第1話 波の果ての恋

 何か固い物が甲羅に引っかかり、身動きが取れなくなった。かと思ったら次の瞬間には、一気に海上まで引っ張り上げられていた。

「いやあ、まさかこんな大きな亀が釣れるとは。もう夏も近いし、産卵の時期だからこの辺りまでやって来たのかもしれないな」

 気が付けば船の上だった。目の前には二十四、五歳ぐらいの男がいて、珍しげに私を見つめている。どうやら彼は漁師のようで、その釣り針が私に引っかかったらしい。

 人間の中には亀を食べる者もいるし、甲羅を飾り物に利用することもあると聞いている。このままでは危ない。だが、安易に本来の姿をさらすわけにもいかない。

 どうしたものかと逡巡しゅんじゅんしたが、男の反応は予想とはまったく違っていた。

「これほど立派な亀もなかなかいるまい。だが『鶴は千年、亀は万年』というぐらいだから、きっとこの先もまだまだ生きるのだろう。それを俺がこんなところで終わらせてしまうのは、どうもためらわれる。食べる分も売る分も、今日獲った魚や海藻で充分。こいつは海へ放してやろう」

 男は私から釣り針をはずし、そっと海へ放してくれた。私は頭だけ海上に出して、改めて男を見た。さっきまでは、恐怖と動揺で恐ろしくしか感じられなかったのに、こうして落ち着いた心で向き合うと、とても穏やかでやさしそうだ。こんな人間もいるのだと、初めて知った。

 私が船のそばから離れずにいると、男はちょっと困った顔をした。

「ほら、どこへでも好きな所へお行き。悪い奴に捕まったりするんじゃないぞ」

 私ははっとした。さすがに、いつまでもここにいるわけにはいかない。意を決して、男に背を向けて泳ぎ出した――竜宮城を目指して。


 竜宮城へ戻ってからも、私の心は海の向こうに留まったままだった。

 雑談に加わっている時も食事中も、どこかうわの空の反応ばかり示すものだから、たびたび周囲に「何かあったのか」とたずねられた。まさか人間の男が気にかかっているとも言えず、適当にごまかすしかなかったが、一番戸惑っているのは私自身だった。

 どうしてしまったのだろう、私は。

 人間と我々とは、別々の世界を生きている。たまにああやって姿を変じて、人間の暮らしを垣間かいま見ることはあるものの、直接関わり合いを持ったりはしない。我々とはあまりに違い過ぎて、同じ時を過ごすことすらできないからだ。不用意に交わろうとすれば、ゆがみが生じる。

 そんな相手がなぜ、胸の内から消えないのだろう。なぜ、もう一度会いたいなどと思ってしまうのだろ。

 気持ちをすっきりさせたくて、私はふらりと城を抜け出した。足に任せて歩いていたら、たどり着いたのは近くの浜辺だった。波打ち際まで行って、水面をのぞき込む。そこに映っているのは、すでに亀の顔ではなかった。

 つややかで長い黒髪。真綿のような白い肌。紅梅を思わせる唇――人の領域を超えた美貌びぼうの娘が、そこにいた。鮮やかな染め糸を用いた綾織あやおりの衣を身に着けても、まったくかすむことがない。むしろ、衣のほうが娘のせいで目立たなくなってしまう。

 それに対してあの漁師の男は、人間以外の何者にも見えない。ごくごく平凡な容姿ようしで、取り立てて何らかの才があるようにも感じられなかった。大勢の中にいたら、あっという間にまぎれて、探すのも困難だろう。

 ただ、とても温かかったのだ。

 私を丸ごと包み込むような、やさしいぬくもり。これまでに一度も、あのような心持ちになったことがない。

 自分の心を、自分で持て余すなんて。私の中で、何が起きているんだろう。

 ぼんやりと波を見つめていると不意に、背後に気配を感じた。はっとして振り返ると、そこに立っていたのは父――竜王だった。

 堂々たる体躯たいくも、慈愛と厳しさを合わせ持った眼差まなざしも、目の前の相手を圧倒する力をそなえている。細密な刺繍ししゅうが施され、派手さは抑えつつも品のいい絹の衣ですら、父が身にまとうと引き立て役になってしまう。この竜宮城の主であり、配下を統率する存在なのだと、誰もが一目で納得するだろう。

 父はおもむろに、

「また一人で城を抜け出していたようだな」

「申し訳ありません。ずっと城の中にいたり、人に囲まれてばかりいると、気がふさいでしまうもので。どうしても時々、息が抜きたくなるのです」

「戻ってきてからのそなたの様子を、みなが怪訝けげんに思っている。不安を覚えている者もいる。何があった?」

 責めてはいないが、甘えも許さない口振り。上に立つ者としてふさわしい行動や責任を、私に求めているのだ。

 私はそれに、こたえなくてはならない。

「何でもありません。少し気にかかることがあって、つい考え込んでしまっていただけです」

 私は竜王の娘。「姫」と呼ばれ、かしずかれる身だ。軽はずみな行いはつつしまなくてはならない。

 人間などに、心を左右されてはならない。

 父は私の表情をじっとうかがっていたが、やがて小さくうなずいた。

「それならいい。自分が何者なのか、忘れぬようにな」

 竜宮城へ戻っていく父の背を見つめながら、私は小さく深呼吸した。

 胸の内が、ざわついていた。


 竜宮城に戻った私は、普段通りの生活を送った。あの漁師のことは、努めて頭から追い出しながら。

 そのはずなのに、

「姫様。そちらではありません。お客様がお待ちなのは、あちらのです」

 侍女じじょに注意され、慌てて足を止めた。止めたが、方向転換しようとして、やめてしまった。

 このままでは駄目だ。

 意を決して、うつむきがちに侍女に告げた。

「今日は気分がすぐれないので、日を改めてこちらからおうかがいさせていただくと伝えておいて」

 さっさと自室へ向かう私を、戸惑いながら侍女が追いかけてくる。それを振り切るように足を速め、部屋へ駆け込むとすぐさまふすまを閉めた。

 部屋の外で呼び続ける侍女に、

「どうしても気分がすぐれないの。お願い」

 嘘ではない言い訳をして、床にへたり込んだ。

 いったい私は、どうしたいんだろう。あの男ともう一度会ったとして、何をする? 何を話す? 心がかよい合ったとしても、その先は?

 共に暮らすことなど、できないのに。

 その時、竜宮城の宝物庫に収められている一つの箱が、私の脳裏をよぎった。

 共に暮らせない? いや。あれを使えば……。

 考え始めたら、その手立てはあっという間に私の中に巣食い、頭から離れなくなっていた。

 侍女は来客へ事情を告げに行ったようで、すでに部屋の外には誰の気配もない。私はそっと扉を開け、見とがめられないように気を付けながら、竜宮城を抜け出した。

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